鎌倉末期のことである。国内では旧来の大荘園主たる大社寺および朝廷貴族と、平安末期以来台頭してきた荘園護衛の武士階層との間で、荘園支配権をめぐる対立関係が深まり、さらに想定外の国難であった元寇の後始末が付かず、武士階層の中に恩賞を巡る不満が蓄積していた。
何よりも問題は、大陸からの貨幣の流入により商品経済が伸張し、流通・商工業者による資本蓄積が進んで金融業の萌芽が生まれるなど、社会が経済構造の変化に直面しているのに、古来の律令制は言うに及ばず、新興の武士による幕府体制も、対応できなかった処にあった。
折から朝廷では。後嵯峨天皇に始まった皇位継承をめぐる持明院統と大覚寺統の争いが鎌倉幕府の介入を招き、両統迭立方式が半ば制度化して「決められない政治」が続いていた。両統迭立に一刻も早く終止符を打たねばとの思いは両統の首脳に共通したが、両統迭立で漁夫の利を得ていた鎌倉幕府側から解消を持ち出すことは考えられなかった。
この状況に憂慮したのが、南都般若寺で修行し真言密教の醍醐寺を本拠にする律僧文観(一二七八~一三五七)であった。行基以来の非人救済に携わる西大寺流律宗の現場で貨幣経済の浸透と商品流通の進展を洞察した文観は、社会制度の変革が必要なことを痛感した。同じ思いは政治を憂うる後醍醐天皇(一二八八~一三三九)に通じ、この状況を脱却するための政権奪取を願った文観は、確固たる足場を有する仏教界ことに西大寺流律宗(真言律宗)の教団勢力を工作して後醍醐に対する支援を取り付けた。
後醍醐が文観の薦めにより、両統合一を中核にした幾つかの政策と、その実行のための戦略の建策に着手したのは嘉暦三(一三二八)年であった。この年に在位満十年を迎える後醍醐は皇位を持明院統に明け渡す時期が来ており、しかも皇運挽回の希望と仰がれた第三皇子大塔宮護良親王が、立太子もできずに二十一歳に達し、今や僧籍に入るしかない状況であった。
鋭い経済感覚と人権尊重の社会感覚の文観は、有史以来有数の頭脳をもつ稀に見る有能な宗教指導者であった。南宋および元帝国から流入する銅銭により貨幣経済が浸透し、活発化した物資取引が商品の生産・流通を促すと、これに携わる非人(無籍・非農業民)の生活が格段に向上することで社会が大きく変わることを洞察した文観の、拠って立つ歴史観は、将来の経済主体として無籍の非農業民(非人)に重点を置く「非人史観」であった。
非農業民(非人)集住地区の「散所」、私度僧「聖」の棲む「別所」、物資と旅客が行き交う街道の「宿」、内航海運の根拠地の「津」などを活動拠点とする非人(非農業民)の社会が、構造的に大きく変化しつつあることに注目したのは、文観と後醍醐だけではなかった。いわゆる鎌倉新仏教は、密教全盛時代の荘園依存と鉱物採取に依存する寺院経営から脱皮するため、収入源を大衆済度に伴う個人献金に求めるために組織されたのである。
社会構造の著しい変化に着目した文観と宋学により政治意識を高めた後醍醐は、今後は田畑耕作に偏る荘園経済が停滞して、商品流通を主とする散所の「非人経済」が隆盛になるという「散所史観」で一致する。
非人経済が荘園経済を凌駕するとの見方は、数世紀を経てズバリ的中し、散所非人経済の商工業者が「経団連」となり、荘園経済の自作農民が「農協」を構成するのである。日本が輸出立国となってからは前者の旗色が勝ることは周知で、後者は専ら地方保守勢力の牙城として一票の格差に乗じて保守党の大票田となった。
荘園経済を受け継ぐ農協と、非人経済の末裔の経団連が今やTTPを巡って綱引きをしている中を、大方の政客は往時の公家よろしく、今日は非人に與(くみ)せんか、明日は農協に加担せんものかと、綱引きの帰趨を見守っているのが現代における南北朝なのである。
「非人」の語が近世非人(江戸時代の制度的非人)と混同されるのを避けるため、「散所」を用いるのが史学の美風と聞き、本稿も以下では遵うが、そもそもそんな混同は、史家が明快に説明していたなら生じる筈がないと一言したら、「しかし戦後生まれは日本史を習っていない。必修科目ではないし、受験でも効率が悪いと学習塾で指導された」との反論があった。
これに呆れて、「文明国では帰化の条件として、必ず自国の歴史を課している筈だ。況して自国史は義務教育の核心ではないのか!」と、思わず語気を強めたが相手にされず、却って「日本史は丸暗記が多いから疲れる。ことに南北朝のごときは、いずれが正しいか教師も明言せず、黒白がハッキリしないから授業では軽く流すだけで、試験問題も作れない」といわれたのである。
そもそも歴史観がなければ歴史法則を理解することはできないが、戦後日本では歴史観ができていないのである。東京裁判の検証さえしないのに大東亜戦争の評価なぞできるわけなく、押し付けられた戦勝国史観のまま、六十年間は過ぎてしまった。国民の間で分裂した歴史観が再統合されないので、学校では歴史法則に触れることができず、歴史法則を抜きにして歴史教育をするには、個別事象を丸暗記させるしかない。このゆえに学校歴史学は退廃し、これに代えて店に溢れているのが、マスコミがでっち挙げた浅薄なカルチャー歴史である。
なるほどこの有様では、古代中世の「非人」と江戸時代の「非人」が制度的にも社会的意味においても異なると説明しても、ほとんどの国民は後者しか知らず、それも不正確にしか知らないのだから、最初から話になっていない。要するに、大和政権では土師部の部(べの)民(たみ)と呼ばれ、律令国家では公知公民の外で役(えの)民(たみ)とかシタダミ(下民)と称されていた特定職能のない非農業民に、その頃朝鮮半島経由で数多く渡来してきたツングース族の無籍民が加わり、編戸の民でないために非人(非農業民)と呼ばれたのが、古代非人である。
古代非人の系統を引く中世非人は、街道沿いの「宿」や、港湾の「津」、大社寺の門前、有力者の居館などの近傍に散在して、さまざまな非農業役務に従事していたが、やがて小屋掛けして半ば定住するようになると、非人が散在するその地区が「散在」と呼ばれた。
平安時代から室町時代にかけて、荘園領主が荘園の一角に同様な地区を設けて非人(非農業民)たちの定住を許し、年貢の代りに雑役を負担させたが、その地区が荘園用語を以て散所と呼ばれたのは、領主が直轄する本所に対する反対語で、いわば「出張所」である。
貨幣の浸透により「非人経済」が進展する中で、大寺院などの荘園領主は、「田畑経済」に「非人経済」を取り込むため、定住を許した非人に年貢免除などの保護を与える代償として各種役務を課す特定地域を荘園内に設定した。これが散所で、今日の現業職公務員の原型となる「散所の民」が、ここに発生したのである。
これに対して、古来非人の集住地として知られる京都清水坂の非人が、葬送事業などで排他的特権を有する自分らを「本所非人」と称し、奈良坂の非人を「散所法師」と呼んで差別した例を挙げて散所の語源とする説もあり、すこぶる肯綮に当るが、ここでは立ち入らない。
散所に先行して発達した、「宿」や「津」など非農業民が集住した「散在」は、荘園内の散所と地域形態的に似ているところから「散所」と同一視され、感覚的に散所の観念に吸収された。中世の大寺院では、官度僧の棲む境内から離れた場所に、私度僧たる「聖(ひじり)」を置くための宗教施設を設けて「別所」とか「別院」と称したが、実態を見ればこれも散所である。
荘園内の特定地域を意味した散所は、ここに定住を認められた非農業民すなわち中世非人をも指した。本来無籍で一所不住の漂泊生活を常とし、都市に棲んでも店=「見せ」を開かずに行商か路上商売を専らとした、このような浮雲生活の人たちを呼ぶのに、本来地理的観念である「散所」の語が適切とは思わないが、中世非人が江戸非人と混同されるのを避けるため、本稿では「非人」に代えて、中世非人の本拠とその住民をも意味する「散所」の語を、使用することとする。
領主から免税と保護を受けた散所には、公領からの逃散(ちょうさん)百姓をはじめ、半島を経由して陸続と来る渡来民など様々な浮浪民が流入した。ことに南満洲・朝鮮半島に住むツングースらの族種には南下衝動が潜在しており、大和政権の時代から鎌倉・室町を経て江戸幕府が鎖国するまで、一千年に亘り多数の単純労働者と非職能民が渡来して、散所の民となったのである。
因みに歴史上私の一族にも非人と呼ばれた者がいる。すなわち北家の藤原良房により陥れられた橘逸勢(七八二~八四二)で、橘諸兄の孫且つ橘奈良麿の子で、檀林皇后橘嘉智子のいとこにも当たる逸勢は、一緒に唐に留学した弘法大師と嵯峨天皇とで「天下の三筆」と呼ばれたが、承和九(八四二)年の承和の変で、護衛役の伴建岺(大伴氏)と共に謀反の罪を擦り付けられ、「非人」と改姓されて伊豆国へ配流の途中密殺された。このような事情で、私には拘りがある「非人」だが、史学界・言論界のカルチャーを尊重して、以後「散所」と言い換えることとする。
後醍醐と文観が建てた、南北両統の強制合同策の根幹は大塔宮護良親王であった。鎌倉で薨去を偽装して房総に逃れた親王は、後に大和西大寺で産所衆のカシラとなるのである。(続く)
  以上の詳細は、四月十一日から発売の拙著『南北朝こそ日本の機密』(成甲者房)に詳述しています。
               

平成二十五年四月六日
落合莞爾


上記は『月間日本』平成25年4月の草稿です。