大野十番頭について


 元弘元年の大晦日に大塔宮の一行が幡川の禅林寺に入ったのは、偶然に立ち寄ったのではありません。
宮の一行は九月に笠置山を落ち、十月頃から紀州路に潜んで各所の土豪勢力の向背を探っていたところ、春日神社宮座衆の大野十番頭の支援が得られた旨の知らせが、春日神社奥ノ院の禅林寺から、大塔宮の潜伏場所に届いたのです。
宮の一行が大晦日にも拘らず禅林寺を訪れたのは、これを確認するためだったので、大野十番頭からの「明けて元旦に春日神社の神前でお待ちいたし候」との申し出を、大塔宮はこの時に受けたと思われます。
 大野十番頭とは、名草郡大野荘の春日明神の宮座衆として大野荘所在の田畑山林を共有し、輪番で管理に当っていた十人の領主です。
 名草・那賀の両郡にかけて勢力を張る大野十番頭こそ、大塔宮が当初からアテにしていた兵力で、文観が笠置挙兵の前に、春日神社宮座衆を大塔宮支援に仕向けるよう、奥ノ院の禅林寺に指示していたのです。禅林寺が、大塔宮と大野十番頭の仲介のみならず情報の中継にも当たっていたのは、西大寺流律宗系のあらゆる寺院が当時は行商の拠点となり、その行商たちがシノビを兼ね諜報員を勤めていたからです。
 一夜明けて元弘二年元旦、大野十番頭は宮座衆として当然ながら、春日神社に集合します。大塔宮がそこを訪れたのは、勿論偶然ではありません。大塔宮が参拝に事寄せて大野十番頭を引見する段取りが予めできていたのです。何しろ宮の一行は落武者で、相手は一応鎌倉幕府の配下の武士ですから、不用意に出くわすわけにはいきません。電話もメールもない時代ですから、何日も前から根回しをしていたのです。春日明神の神前で大塔宮にお目見えした十番頭の全員が宮への忠誠を誓ったのも、前以て開いた宮座の総会で、意見の一致を見ていたからです。
 大野十番頭の本拠地および姓名と、五百二十年後の天保年間の現状を、『紀伊国続風土記』は下記のように記しています。ゴシックは現状です

  鳥居浦    三上美作守(断絶・ただし春日神社神官として存続)  
稲井因幡守(鳥居浦地士) 
但馬丹後守(日方浦地士)  
坂本讃岐守(田中荘打田村地士)  
石倉石見守(断絶・ただし各地に存続)
   神田浦    尾崎尾張守(黒江村・六十人地士)
   井田村    井口壱岐守(那賀郡小倉荘満屋村地士)
中村      宇野辺上野守(改め名取姓・軍学家・ただし名高浦に宇野辺氏あり) 
             中山出羽守(断絶・ただし各地に存続)
   幡川村    藤田豊後守(日方浦地士) 
 
  十番頭のうち、村(農村)を本拠とするものは四人で、残る六人は浦(漁村)を本拠としていますから、その族種がおおよそ海民系であることが察せられます。
当地には春日明神と粟田明神の兄弟神社がありましたが、両者の祭神は奈良の春日大社とは全く別系統で、大春日臣(粟田氏)の氏神の天足彦国忍人で、三代孫も粟田明神と呼ばれて併せて祀られます。
両部神道の当時の奥ノ院幡川禅林寺は、最盛期が南北朝時代とされています。
ところで粟田氏は、和邇氏が集住する大和国添上郡と山城国愛宕(おたぎ)郡粟田郷を根拠とする和邇氏の分派で、紀州日高郡の海女から不比等の娘となり、文武天皇夫人として聖武天皇を生んだ藤原宮子を探し出した粟田真人が出ています。粟田真人は不比等の片腕です。
 壬申乱で大海人を援けて大功を立てた美濃国湯沐邑の和邇部君手が、おそらく報奨のために、奈良の春日山の地を賜ったのでしょう。そこで和邇氏の一部は春日山に移住して天足彦国忍人を祀り、自ら春日氏を称したのは地名を取って苗字にする慣習です。旧地の湯沐邑に戻ってきた和邇氏野分流も春日氏を称したので、湯沐邑があった揖斐郡に春日村ができました。
ところが、大海人すなわち天武天皇の亡きあと、近江寄りの姿勢に復帰した持統天皇と政治的に結託して勢力を増した藤原不比等が鹿島の神を奪い、これを祖神として大和に移すための社地として春日山の春日明神の社地を望み、腹心の粟田真人に交渉させます。
 同族の出世頭粟田真人の顔を立てた和邇氏改め春日氏は、十人が春日神社の御神体を奉じて代地の紀伊国名草郡大野荘に、やってきました。この地を大野荘と呼んだのは、あるいは、元々多氏の土地だったかも知れません。近くに多田(オホタ)荘もあります。和邇氏は海洋民族ですから、山中の春日の地よりも海岸の大野荘の方が族種性に適合して、今に栄えているものと思われます。

大塔宮の吉野熊野入り
 紀州藩士井口氏の「書上」では、大野十番頭の一人井口壱岐守の同族で、調月村宮(みや)居(おり)の郷士井口左近の女が大塔宮の世話をしているうちに御手がかかり、男子が生まれたが、再び陣営に向かう宮が、産着と共にその男児を女の親元に帰した、としています。
 生まれるまでには十カ月かかりますから、どう見ても一年くらい後のことですから、以下に述べる大塔宮の熊野入りとの前後の時制がはっきりしません。大塔宮の紀州入りは、高野山や熊野大社に対する工作だけが目的ではありません。紀州全域に蟠踞する族種南朝の海人衆、すなわち和田楠木氏・井口氏ら族種タチバナ氏の土豪勢力むしろ本命で、これに対する支援要請のための紀州入りだったのです。
 土豪の有力者を工作しながら紀伊半島の各所を徘徊していたため、動静が判りにくい大塔宮は、当時の通例として影武者を使いますから、実態はますます不透明になります。大塔宮の動静で唯一確かなのは、調月村の井口左近館に逗留したことですが、熊野入りとの時制関係がはっきりしません。
さて、『紀伊国続風土記』日高郡切目荘の条は、『太平記』を引いて、下記のように述べるので、その内容を下記に意訳します。
親王は南都あたりに隠れるのも困難なので、般若寺を出て熊野の方へと落ちた。
お供は赤松律師則祐・村上彦四郎・片岡八郎・矢田彦七・平賀三郎らで、かれこれ九人が宮からお供まで、全員が山伏姿で熊野参拝の体に見せていた。
 切目王子に着いた夜、宮の微睡(まどろみ)の中の夢に一童子が来て「熊野三山は人心不和にして大義成りがたし、十津川へ渡りて時を待つべし」と謂うのを見て、直ぐに目覚めた宮は熊野行をやめ、十三日かけて吉野の十津川へ着いた。

これによれば、元弘元年九月に笠置を落ちた大塔宮一行は、十一月頃に紀州に現われ、藤白・由良を過ぎて十一月中旬に印南郡切目荘の切目王子に辿り着きます。その夜、宮の夢に現れて「熊野三山の僧徒に警戒せよ。吉野の十津川へ渡って時機を待つが良い」と告げた童子とは、むろん宮が予め熊野三山に放っていたシノビです。
シノビの情報により熊野行を断念した大塔宮の一行は、山道を十三日掛けて大和国吉野郡十津川郷の宇井地(現在の大塔村宇井)に辿り着き、十津川郷の竹原八郎屋敷で半年ばかり過ごした大塔宮は、還俗して八郎の娘を側に召したとされています。
しかし、吉野郡十津川郷(十二村荘)の殿野村の領主は、実は竹原八郎でなく、甥の殿野兵衛でした。八郎の本拠は紀州牟婁郡西山郷竹原村(今は和歌山県県東牟婁郡北山村竹原)、及び北山川を挟んだその対岸の花知村(現在は三重県熊野市神川町花(はな)知(じり))にありました。
宮の保護には熊野の方が適切と考えた殿野兵部と竹原八郎が、熊野の竹原に宮を移したので、宮はそこで八郎の女に一男子を生ませた、とされています。

 竹原氏女と骨置神社
竹原八郎とは何者でしょうか。
花知村に今も建つ花知神社は、護良親王と竹原八郎を祀っています。これはむろん納得しますが、主祭神がホアカリでなく牛頭天王なのには驚きます。竹原氏は牟婁郡入鹿荘の土豪入鹿氏の分流で、アメノホアカリ(天火明命)を祖神をとする一族と云われていますが、もしその通りならば、間違いなくアマベ氏の分流です。エジプトを追われて古イスラエル王国を建てた後、アッシリア帝国に攫われて東方に流移して以後、歴史から姿を消したいわゆる「消えた十部族」のうち、海路によって丹後半島の天橋立に漂着したオリエント多神教徒の末裔がアマベ氏です。
彼らが古イスラエル王国の頃から祀っていたオリエント多神教の神バアルを、日本神道ではスサノヲ命と呼びますが、帰化人の八坂連も朝鮮半島のソシモリからバアル神を奉じ、牛頭天王と称して祇園社や廣峯大神宮に祀っています。
神道のスサノヲと渡来神の牛頭天王は実は同体ですから、それは良いのですが、もしも竹原氏がホアカリを祖神とする一族ならば、花知神社がホアカリを祀らない理由が理解できません。
あるいは竹原氏は、ホアカリ命の末裔ではないのかもしれません。つまり竹原氏は賜姓橘氏ではなく、また族種タチバナ氏でもないところから、大塔宮に召された竹原入道女は、崇光天皇御母の条件を満たしていません。
ところで、竹原(たかはら)村には古宇土宇(こうどう)宮(今は骨置(こうず)神社と称す)が今もあり、「熊に注意」の看板の傍に、『紀伊国続風土記』を引いた下記の説明板が掲げられています。


骨置(こうず)神社 
元弘元年九月笠置陥り、護良親王は難を熊野に避け北山に至る。この地の豪族竹原八郎宗規・戸野兵衛良忠等直ちに親王を迎え、四方の要害を固め、竹原の地を根拠として画策すること半年、元弘二年六月令旨を奉じ、伊勢方面に進出、六波羅を驚かす。
諸国の武将これを聞き蜂起して遂に北条氏亡び建武の中興が成った。
護良親王竹原八郎の娘をお側に召され、その間に若宮が出生されたが幼くして亡くなる。生地の人尊びて骨置神社としてお祈りする。

右の骨置神社の伝承にも、「竹原氏女の生んだ王子は幼くして亡くなる」とあります。「この王子が実は生きていて、陸良親王となった」とする俗説もありますが、状況が符合しません。よって竹原氏の息女は、崇光天皇生母とは無関係と判断いたします。
大塔宮の一行は、紀北土豪の動向の見極めが付くまでの間に、熊野大社の向背を探るために熊野に向かい、十一月頃に切目王子へ到着したのでしょう。ところが、予て放ってあったシノビの知らせで、熊野大社の情勢が不穏と知った一行は、これより二手に別れたものと考えられます。大塔宮は紀伊半島から和泉・河内にかけての倒幕戦争の全局を見渡す立場ですから、熊野の局地戦に何時までも拘ってはおられません。したがって、配下の一部が吉野の十津川をめざし、大塔宮は紀北へ引き返して、年末には大野荘に入ったと観るべきでしょう。
 元弘二年六月、大塔宮が竹原八郎・殿野兵衛に令旨を発して伊勢方面を攻めさせたのは事実と観て良いですが、本人がその現場にいたとは限りません。
 大塔宮がそれまで半年ほど竹原館に滞在したと伝わるのは、倒幕行動における大塔宮の立場とそぐわず疑問です。あるいは影武者かも知れませんが、これらをどう解すべきか、今は結論を出せません。