日本経済の「失われた20年」の真因


  日本経済の「失われた20年」の真の原因は、世上経済学者の論ずる如きものではない。日本社会から莫大な資金が相場変動の形で持ち去られたことにある。
景気とは実に単純な現象で、短期的には特定地域に対する「資金の投下量」だけで決まる。しかもその投下の形態は、消費であろうが設備投資や建設投資であろうが、公共資本投資であろうが、種類を問わないのである。したがって本来は日本国内に投下さるべき資本が、日本から持ち去られて他国に投下されれば、当該国の景気は好転し、日本の景気は期待値に達しえないわけで、その程度は、持ち去られた資本量が大きいほど大きいのは当然である。
平成3年頃からの資金の国際的移動量を見たら(私は未だ試みていないが)、日本景気の頽落の原因が瞭然とする筈である。いかなる過程で、このようになったのか。これを解明して国民に示すことこそ経済学者の使命であるが、そのような学者がいたのだろうか。そんな調査をするほど暇ではないが、わが耳目に入ってきた事例では、いないようである。

 問題は1985年の「プラザ合意」から始まった
1985年9月22日にニューヨークのプラザホテルで開催されたG5(先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議)で、為替レート安定に関する合意が行なわれた。いわゆる「プラザ合意」である。英・米・仏・独の財務大臣が出席した会議に日本からは竹下蔵相が出席した。歴史的な会議ではあったが、事前に内容が決められており、会議自体の所要時間はわずか20分程度であったといわれる(ウィキペディア)。
以下に述べるのは、その概容および背景を説明する公開情報(ウィキペディア)である。レーガン時代の80年代前半のアメリカは、インフレ抑制策の金融引締めで金利が10%を超したため世界中のマネーが集中し、ドル相場は高めに推移して貿易不均衡をもたらした。高金利で需給バランスが改善した反面、莫大な貿易赤字が計上され、財政赤字も累積した。インフレ沈静後の金融緩和で景気は回復したが、貿易赤字の増大と金利低下により、外国のドル離れが生じ、ドル相場は次第に不安定になった。ドル危機の再発を恐れた先進国は、ドル安で協調する合意をしたが、アメリカの対日貿易赤字が顕著であったため、 実質的には円高ドル安に誘導する内容であった。これが『プラザ合意』である。
1ドル235円であった為替レートは1日で20円下落し、1年後には1ドル150円台になった。日本国内では円高不況が懸念されたが、日銀は公定歩合を5%で据え置いたうえにコールレートを6%弱から一挙に8%台へと上げ、翌年になってから公定歩合を引き下げた。
85年の経済環境が強く引締め的になった結果、その後の数年間のインフレ率は低水準で推移した。インフレ率の低迷と低金利の長期化予想を反映して、名目金利が低下したことが、バブル景気をもたらしたと謂われている。円高により米国投資や海外旅行のブームが起き、賃金の安い東南アジアへの直接投資が急増し、東南アジアの経済発展をうながすことになった。その後、進みすぎたドル安に歯止めをかけ、為替レートを安定させるために1987年、再び各国が協調介入する内容のルーブル合意が結ばれた。
輸出が主柱の日本が為替レートを恣意的に調節することは大きなリスクを伴う。協調介入によって人為的に円高に導いた結果、輸出産業は競争力を失い、自然な経済成長リズムの破綻に繋がった。日本にとって不利な合意がなされた背景には、以前から加熱していた黄禍論や貿易摩擦があった。
80年代前半は、アメリカの莫大な経常赤字により日本の輸出が急伸して経常黒字は著しく増大し、輸出産業を中心に好業績の企業が相次いだ。当時アメリカは、財政赤字と貿易赤字の双子の赤字を抱え、日欧諸国では対米貿易がもたらす経常黒字で物価の上昇圧力が生じていたので、世界経済の不均衡を是正する手段として、ドル安にすれば米国の貿易赤字(とりわけ対日貿易赤字)が目減りすると期待された。当時の中曽根首相、竹下蔵相、澄田日銀総裁が決断したプラザ合意は、「日本がアメリカの赤字解消のための為替操作を容認した対米妥協策」との解釈が一般的である。

それでは真相はどうか
  すべての根本にあったのはHAARPすなわちHigh Frequency Active Auroral Research Program である。HAARPについては、その開発がどのように進んできたのか、私は詳細を知らないから独自に調べて頂くしかない。
平成17(2005)年に私が知ったプラザ合意の真相は以下の通りである。
米軍が1968年に作成したHAARP計画は実地研究が先送りされてきたが、1980年の米議会はカーター大統領のもとで、HAARP計画の基礎費用として2500万ドルを可決し、予算の実行成果を約束した。その見返りは、マンハッタンサイズのHAARP基地を北極圏に作って電磁波の備蓄場とし、全米エネルギー需要のコスト・ゼロを達成することと定めたのである。
米軍と科学者は冷戦構造を解消させる手柄を見返りにして、レーガン大統領に日本のカネを収奪する作戦を依頼した。それがプラザ合意であった。
右の情報から、プラザ合意とは、「各国の協調介入でドル高を潰し、その結果円高になった日本を困らせて、「円売りドル買い」という反対行動に追い込み、過剰流動性を強制してバブルを発生させる意図におこなわれたもの」、と観るべきである。
これを成功させたのは、日本の銀行が当時は行動原則としていた世界に類を見ない特殊な融資方式であった。これを「土地担保による無条件融資」という。その背景には、戦後すなわち昭和25年から30年間、ある程度の変動はあったが地価が、長期的に見れば一貫して騰がり続けてきたという「土地神話」があった。
土地が担保なら幾らでも貸す、という融資方式が定着した時期に、右のごとく過剰流動性が強制されたのであった。土地を担保なら、その8掛けのカネを貸すので、資金使途を問わない。当時、私が借りた総額はおそらく100億円を超えたが、その金を借りた私は、信用金庫や信用組合の支店長の顔を知らないし、支店の場所さえ知らなかった。印鑑も押したことはないのは、信用組合から引き抜いた部下がすべてを行なっていたからである。
受けた融資は、当初はすべて株式に投資したが、銀行担保の資産間バランスを取る必要から、不動産にも投資した。買った不動産が値上がりすると、銀行は担保余力が生じたから、さらに借り増しせよ、と言ってきたので、すべて応じた。取引相手の銀行員とは、名刺を貰ったくらいでほとんど合わず、話し合ったこともなかったが、部下の話では、貸し出し競争に勝つことだけが銀行員の目的で、他のことを考える人はいなかったようだ。
地価が騰がれば担保価値が増えるから、それに合わせて追加融資の申し込みがあり、株式投資に自信があった私はすべてそれを受けたから、運用資産はみるみる増大した。運用資産の総量がある程度大きくなると,バランスを取るために、土地を購入した。銀座に10坪余りの古家を購入した時は坪あたり950万円だった。2倍にもならないうちに売ったが、最後には坪2億円になった。
地価ばかりでなく株価も高騰した。多くは業績よりも保有土地の含み益に注目したもので,土地投機の代替行動として行ったのである。こんなことはどの会社・個人でも行っていたが、何の商売もしていなかった私のケースは、当時の経済現象の最も純正なモデルであろう。
ここで一言すれば、株式投資の利益には課税が緩いが、土地投機には厳し過ぎたことである。短期重課が厳し過ぎたから、騰がっても節税策が見つからないと俄には売れなかったので、勢い抱き込むことを考えたのが、日本経済全体に祟ったのである。土地転売益の短期重課は、目先にのみ捉われて、世相人心を相殺できない大蔵官僚の大失点であったと思う。
高騰から狂乱株価となった日本の市場に、日経二二五株価指数の先物取引を創設した大蔵省は、自らの指導下にある生保はじめ機関投資家に先物を買わせ、外資系証券会社には反対にこれを売らせて、外人売り邦人買いのポジションを作った。これが平成2年の三重野暴落によって、国富を一挙にレーガンに贈呈したことになったわけで、日本のバブル崩壊で得た資金を、レーガンはHAARP計画に回したのである。
ここで思い出すのは、レーガン大統領が一九八三(昭和五十八)年三月二十三日に突如言い出した「スターウォーズ作戦」(SDI)である。以下に、拙著『金融ワンワールド』の末尾を掲げるから、詳細を知りたくば、右の拙著を読まれたい。

SDIは、「アメリカや同盟国に届く前にソ連のミサイルを迎撃」し、「核兵器を時代遅れにする」手段の開発を呼びかけたものでした。SDIが実現すれば、核戦略におけるアメリカの優位が確立するため、東西の緊張が高まりましたが、当時のソ連には最早軍拡競争を行う経済力がなく、ゴルバチョフは軍拡路線を放棄したので、第三次世界大戦(米ソ冷戦)の終結とソ連の崩壊が実現しました。まさに人類の歴史の流れを変えたSDIですが、世界に発表されたその軍事技術にソ連を崩壊させるほどのインパクトを感じないのは、私の偏見でしょうか。私は、SDIには公表されない本当の「スターウォーズ作戦」があったと観ています。すなわち、HAARP計画です。地球社会を根本からコントロールしているのは、このような巨大な計画なのです。
これを陰謀史観と云いたい人は、どうぞそう言って下さい。これからも酔生夢死に生きて下さい。

  2013年8月2日   落合莞爾