急告  チタン白に関する裁判上の偽証について

巷間ややもすれば、落合莞爾の掲げる「吉薗周蔵日記」は、提供者吉薗明子らによる偽造文書であるから、これに基づく「落合秘史」は偽史である抔とする悪声が聞こえます。
歴史書の要は内容ですから、右の如き程度の低い悪声は全く気にもしませんが、ことが吉薗明子氏に及ぶとなれば放置することはできず、下記に某氏の論評の一部を、特に掲載させていただくことにします。

問題は、吉薗明子が中島誠之助並びに二見書房を被告とする名誉棄損訴訟で、証拠として提出した佐伯祐三の油彩絵画「雪景色」を科学鑑定したところ、これに用いられた白書顔料のチタン白がルチル型と鑑定されました。そこで、
①鑑定人宮田順一が「資料Dで確認されたチタン白は、比較的新しい白色顔料である。20世紀初頭から、実験室レベルで合成がなされ、1916年には硫酸バリウムとチタン白(アナターゼ型)を共に沈殿する方法で、白色顔料として開発された。1920年代にはアナターゼ型チタン白の量産が始まり、その後、1940年代にルチル型チタン白の量産が、アメリカで開発されたとされている。」(平成12年11月22日・宮田順一)と偽りの内容を報告したところ、これを受けた鑑定補助者歌田眞介が
②「宮田の報告にあるように、チタン白(ルチル型)は1940年代以降の量産品とされている。佐伯祐三没後に製造されたことになる。」(平成12年12月25日・歌田眞介)とし、それを受けた同じく鑑定補助者青木茂が、
③「また(A-D)に使用されているチタン白は1940年代以降の量産品であるという、佐伯生存中にはなかった顔料なのである。」(平成13年10月30日・青木茂)と、伝言ゲームのように少しづつ内容を変えたものです。

そして判決は
④「さらに、原告は、Bグループ中の1点の絵画層から検出された、白色顔料の成分であるチタン白は、佐伯生存中には量産されていなかったとの(被告側)指摘について、パリの画界では量産に先立ち試験的に使用されていたと推論できると主張し、その根拠として、甲第18号証に掲載されている佐伯自筆の『巴里日記』中に『ブランド・チタン』と記載されていることを挙げている。しかし、かかる原告の主張はあくまでも推論の域を出るものではないし、そもそも前記第3の(3)③ウ(a)で指摘したように、佐伯の『巴里日記』自体、吉薗資料の一部としてその信用性は低いものと解されることから、原告の主張は認められない。(中略)鑑定の対象とされていない他の吉薗コレクションも佐伯の作品でないことが明らかである」 (平成14年7月30日・裁判官近藤壽邦)  

 以上の「偽証」により、敢えていうと「誤判」が導かれたのです。
これを明らかにして下さったのは私の読者の一人で、コツコツと調査・研究した結果の結論です。これを二人の共作にして出版しようと考えていますが、今は取り敢えず、そのサワリの箇所を下記に掲げて、縦覧に供することとします。

前略  (二) ここで小括します。
宮田報告書中の「資料Dで確認されたチタン白は、比較的新しい白色顔料である。」(資料4、宮田報告書9頁16~19行目)との判定は、以上のチタン白製造史のうち、これに矛盾する部分を全て書き換えて作った捏造史実を論拠としています。
それにより裁判官を、佐伯没後に製造された「比較的新しい顔料」と誤認させ、吉薗佐伯を贋作と判示させました。
宮田報告書を、学界ルールを予め知った経験豊かな専門家の立場で書かれたもので顔料製造史に関わる部分はすべて引用文献に整合している筈、と裁判官が錯誤したのなら、その道の専門家であり、宮田補助者に対する監督責任がある青木茂鑑定人と補助者歌田眞介氏は、裁判官の誤解を導いたことに対して、職責による責任を免れえません。
ところが捏造効果はさらに範囲を広げ、広く影響を及ぼしました。
その対象は、「吉薗周蔵手記」・佐伯から吉園宛の書簡・絵葉書・米子から周蔵宛の書状・佐伯自筆の「巴里日記」にいたるまで、全ての来歴物証までもが贋作で、信憑性が無いと判示される飛び火効果までもたらしたのであります。「○○式捏造法」のさりげない僅か9箇所の削除・加筆効果が、マグニチュード9クラスの破壊力を及ぼしていく様を見れば、この捏造事件は見落とせず、見逃せないと思います。

次に宮田報告書が引用・典拠したとされるD-英文献を精査したところ、「来源A・B」と右記(イ)~(ハ)での指摘に整合・補完する裏付となる史実が、随所に記録されていることを確認しました。(下記② 【D-英文献記録の要約】参照)
なお、裁判官の基礎知識不足と、鑑定補助者選任の異議却下が、右の書き換え捏造に付け入る隙を与えたことは歴然であります。
宮田報告書の書き換え捏造の本質を見極めるには、秀でた化学知識・顔料製造史・顔料製造技術開発の攻防戦史などの知識なしでは到底見抜けるものではない。そこで、C-和文献とD-英文献からチタン白の化学的特性と顔料史の要点を抜出し、下記に要約整理しておきます。本稿を読み進めるのに資すれば幸いです。

(A) チタン白とは、二酸化チタンのことです。チタン白のアナターゼ型とルチル型は結晶構造が異なるだけで、化学式はともにTiO2です。佐伯滞仏中の1920年代は、アナターゼ型とルチル型が共存していた時代で、製造技術開発の攻防戦は、チタン白(TiO2)の特性の「変位」が原因となり、焼成工程で技術上の問題が生じていたことに起因します。
チタン白の「変位」とは、アナターゼ型の結晶構造が、摂氏915度±15度内で、ルチル型結晶構造に変化することをいいます。これを「転位(転移、変移)」による「ルチル化」ともいいます。この時に不純物が混入すれば転移温度が下がり、800度台での転位(ルチル化)促進が認められます。それは現在の硫酸法においても、ルチル微結晶懸濁液の乳白色のスラリーを加えて、ルチル転位を促進する技術からも窺われます。
チタン白は800度以下では変質せず、また「逆変位」もしません。逆変位とは、高熱で一度変位しても冷却後に戻ることで、チタン白にはそれをしないという特性があるのです。この特性を知ればお解かりのように、佐伯滞仏時の1920年代は、純粋アナタース型を製造するのが困難だった反面、ルチル型は加熱だけで簡単に得られた時代だったのです。
修復師として、ルチル型のこの特性を知り得ている筈の専門家宮田順一氏は報告書では、佐伯滞仏時の1920年代にはルチル型は全く存在しないがごとく表現しています。本人は和英2つの文献を示し、そのように書き装いますが、文献の該当ページのコピーを報告書に添付すれば佐伯の時代にルチル型が存在した事実が発覚してしまうので、添付は控え、文献名だけを表示したのかもしれません。
その場合には、その内容を転記しなければならないのですが、そのまま転記したのでは、これまたルチル型存在の事実が発覚してしまいます。そこで和文献の転記にあたり、それとない削除・加筆による変造を加え、佐伯滞仏時の1920年代に、ルチル型は全く存在していなかったという内容を捏造したのであります。
また英文献のコピーを添付しなかったのも同じ理由でしょうが、これは民事訴訟規則に助けられていました。日本での裁判は、英語文書は証拠採用しないからです。全文を和文翻訳して初めて証拠採用される規則だから、それゆえ典拠文献名を示すだけで済ませ、その要旨が示されたかのように装えばよいのです。その実は捏造した和文献の引用だけであったが、一応引用を表示した体裁にはなりましょう。
以上のように、見識と良識さえ棚に上げれば、文献内容の捏造など簡単なのであります。 

(B) 1920年代の製造上の技術的問題とは、沈降性硫酸バリウムと混合のチタン白製造工程の焼成過程にありました。すなわち温度管理の制御技術が無く、粗雑な加熱ムラによるルチル化を防げなかったのです。純粋アナターゼ型の製造は困難で、製品に反映されるのは、必ずルチル型との混合品となってしまうのです(下記②-(a)~(h)参照)。 
佐伯滞仏の1927年に仏タン社がアナターゼ型と謳ったチタン白には、ルチル型による黄色化が認められ、依然ルチル型を相当量含んでいたとの文献記録(下記②-(e)(g)参照)が存在します。それは焼成過程で焼きムラが生じ、温度制御技術が依然不完全であった事実を示しているのです。また、当時は新顔料であるがゆえに、経年劣化には無頓着であった様子も概ね知られた事実であります。 

(C)1915年には、小規模生産であれば慎重な温度管理も可能でしたから、比較的純粋なアナターゼ型とルチル型が、小規模生産されていた事実がD-英文献に記録されているのです(下記②-(a)参照)。
汎用ペンキなどの大量消費への一般利用は可能でなかったことが記録されていますから、絵具メーカーや絵具師らの求める職業画家用の油絵具など、少量需要者向けに生産されたことが容易に知れます。
なお、1915年以降の大量生産での価格競争下では、慎重な温度管理を要するため非効率的な純粋アナターゼ型の生存環境は厳しい反面、単なる高温過熱だけで簡単に製造できる純粋ルチル型の製造者は、常に価格競争に生き残れた、との推認も容易であります。チタン白の化学的特性に基づくこの市場原理は、時代を問わず現代でも通用することは言うまでもありません。

(D) 佐伯滞仏時代に認識されたチタン白の欠点とは、1つは、アナターゼ型による白亜化(チョーキング、光触媒)による白粉化現象。2つは、ルチル型による黄変でした。ともに経年劣化が原因です。(下記②-(g)(h)参照)
つまり両型ともに欠点があり、どちらを採用しても不良製品のリスクが生じたのであります。特に両型混合型だと両型の欠点が重複します。そこで太陽光に曝される壁面用ペンキよりも高付加価値商品の美術品用油絵具製造所では、ルチル型かアナターゼ型かいずれか一方の純粋チタン白顔料を少量製造所に求めることにならざるを得なかったのです(下記②-(a)参照)。そこで研究者の方でも、添加剤・助剤・体質顔料等を用い、欠点補正に努めていた史実も記録されているのです。
むろん、温度制御技術が未開発でしたから純粋アナターゼ型が得られなかったのに対し、高温過熱で簡単に製造できる「冷却後も逆変位しない純粋ルチル型」を得る方が極めて容易であった、というのが佐伯滞仏時のチタン白事情なのです。
当時、ルチル型は黄変が特性と誤認されていた様子も窺われます。これを「誤認」と申した理由は、正確に申せば、黄変はルチル型の特性ではなく、塗膜中の油の黄変に原因があったことが後年知られるからです。かような誤認が生じた原因は、アナターゼ型が白亜化で劣化して塗膜中の黄変まで失せるのに対し、ルチル型は塗膜中の油が黄変するまで乱反射を維持し続けていたから、ルチル型の特性との誤解が一部に生じたようであります。(下記②-(g)参照)
要は、ルチル型は、白亜化はむろん黄変の欠点も無い優秀な安定顔料だったのです。このように黄変の真の原因を経験上知り得た、研究熱心な有力絵具メーカーだけは、アナターゼ型による美術品の白亜化(白粉化現象)を疎んじたためアナターゼ型を採用しないことは当然で、ルチル型を採用する帰結となるのです。
その一方、黄変対策には油の改良に努めたり、顔料の表面処理(コーティング)が行われたり、助剤・添加剤等による改良競争の様子など、記録によって知ることができるのです(下記②-(h)参照)。

(E) なお、アンチモン酸化物を添加させるルチル化制御添加剤が開発され、純粋アナターゼ型へ道を開いたのは、実に佐伯没後の1930年なのです(左記②-(h)参照)。この事実は、それまでリン酸カルシウムの添加により一部のルチル化抑制ができても完全制御ができなかった事実と共に、良く知られています。
制御技術の徐々なる導入から、やがて大量生産へと向かうのです。このような時代にも、ペンキよりも長期不変な絵具を追求し、常に劣化現象を避けんとする熱心な研究者・絵具師らが存在したことを忘れてはいけません。彼らが経営する画材屋や小規模な油絵具メーカーでは、経年変化の劣化をじっくり見届けてから採用していくので、それが大陸的職人世界の流儀と知られています。
保守的な絵具師の発想では、次々と登場する新素材の経年劣化が未確認でしたから、後日のクレーム回避に備え、経年劣化の程度が既に証明済みの硫酸バリウム入りのチタン白をメーカーから引き続き購入しつつ、独自のノウハウで加熱処理(ルチル化)するやら、助剤・添加剤等で白亜化防止と黄変防止の品質管理に勤しみ、絵具師看板の信用維持に努めたことが、容易に窺がえます。

(F) 佐伯滞仏中のチタン白の主たる製造法は、沈降性硫酸バリウムと混合する硫酸法でした。沈殿剤として有効だった硫酸バリウムは、そもそも白色顔料の一つでしたからチタン白への混合を厭いません。かような混合製品ではあっても、より白い発色のチタンの方を商品名に冠して、ブランド名を強調していただけだったのです。(下記②-(b)(f)参照)。
なお1920年のフランスでは、有毒を理由に、白色顔料の鉛白の使用を厳しく制限する法律が施行されました(下記②-(c)参照)。佐伯渡仏時のフランスでは、ノルウエー製の硫酸バリウムを多量に含む無毒のチタン白が市場を席巻していた時期だったのです。(下記②-(b)(c)(d)(f)参照)。 
(G) その後、沈降性硫酸バリウムを使わない硫酸法製造技術が開発され、徐々に切り替わっていくのです。ところが、「宮田報告書」はこの史実を記さず、佐伯滞仏時にはあたかも純粋アナターゼ型に既に切り替わっているがごとき内容に書き換えて、顔料史を完全に捏造したのです。

①  【D-英文献記録の要約】
そういうわけで、正しい史実とは、佐伯滞仏時代(1924~29年)には、硫酸バリウムとの混合も含めたアナターゼ型とルチル型が市場で混在しており、ないしは少量需要者向けの純粋ルチル型(下記(a)(h)参照)から、不測のルチル化(変位)によりルチル型が混合したが純粋?アナターゼ型を標榜する顔料(下記(g)参照)に至るまで、様々なチタン白が存在していたと認められるのであります。以下時系列にて、宮田報告書も引用したD-英文献p.295-355より該当部を要約し、示します。 (【】カッコは孫引き典拠を示し、()括弧内は筆者補足を示しています。)

(a) 《305頁》 比較的純粋なアナターゼ型とルチル型は、1915年には小規模生産されていたが、一般利用は可能でなかった。(少量需要者・特需者向け)

(b) 《317頁》 1920年の典型的な顔料成分表に示されるとおり、ノルウエー(チタン社)で生産された初期の成分比率(チタン白)は、二酸化チタン66.44%、硫酸バリウム12.48%、珪石0.37%、燐酸10.54%、白亜(炭酸カルシウム)8.06%、酸化鉄0.72%であった。【Coffignier,1921典拠】

(c) 《302頁》  1922年のフランスでは、商業規模の二酸化チタン(チタン白)は、ノルウエーからの輸入のみに頼った。【Coffignier,1922典拠。】 これは(佐伯の渡仏時代の)1920年にフランス・オーストリア及びギリシアが(有毒の)鉛白の使用を制限する厳格な法律施行に起因して始まる。【Robinson,1922典拠】 

(d) 《297頁》  ノルウエー製Kronos Titanitt顔料は、硫酸バリウム上で二酸化チタンを沈殿させる合成物であった。(Firing,1935典拠。) この合成顔料は、アメリカより早く、ノルウエーとヨーロッパ諸国で商業的に調達できた。【Oil,Paint,1920,Coffignier,1922典拠】

(e) 《317頁》  1923年(仏Thann社)発売当初のチタン白は、純粋アナターゼ型と謳うも、ルチル型が相当量混入していた。

(f) 《297頁》  (発売当初から)1925年迄は、硫酸バリウムを主成分に25%程度のチタン白を含有する唯一の製品であった。

(g) 《298頁》  1927年に仏Thann社工場製造のチタン白の黄色化現象はルチル型混入によるものである。【Wait & Weber,1934典拠】

(h) 《302頁》  焼成工程での変位によるルチル化制御のために、アンチモン酸化物を添加させる技術が(佐伯没後の)1930年に使用された。(1930年以前は、大量生産でのルチル化制御不能の事実を示す。その記述に続き) 当時白亜化防止のため、アナタース型とルチル型顔料の表面処理(コーティング)が行われた。(即ち、この記録は純粋ルチル型存在の事実を裏付けている。)

3・正しいチタン白製造史に基づく真贋評価(まとめ)
① 純粋アナターゼ型が主流になる時期は佐伯没後で、ルチル化防止の技術特許が開発された1930年代であるが、1940年代から純粋ルチル型への切り替わりが徐々に始まり、1950年代以降に主流となります。
② 宮田報告書の分析結果は、試料片(A)(B)ともにルチル型チタン白・硫酸バリウム・炭酸カルシウムの3種の主成分検出を示しています(資料5)。
③ 前記①-(B)(D)(E)(F)及び②-(b)(d)(f)に照らすと、硫酸バリウムが混入したルチル型チタン白の白色顔料は、佐伯滞仏中にすでに主流顔料として存在していましたから、宮田報告書の「比較的新しい白色顔料である。」との判断は完全な誤りです。
④ 3種の主成分が複合した顔料の事実については、当時欧州市場を席巻したノルウエー主力メーカーからチタン白の原料を仕入れた大小絵具製造所が、それを加工して絵具店・画材屋に卸した多種多様な白絵具(ブラン・ド・チタン)には、当然3種の主成分が含有されていました。
前記二の②-(b)のD-英文献の記録によれば、1920年代の典型的な顔料成分には、2酸化チタン66.44%・硫酸バリウム12.48%とともに炭酸カルシウムも8.06%含まれている事実も示されており、佐伯滞仏中の複合顔料の硫酸バリウムの特徴とも極めて合致・整合しています。なお②-(f)では、1925年迄は硫酸バリウムを主成分に2酸化チタンは僅か25%しか含まない、とも記録しているのです。
その後登場したのがチタン白単独顔料の仏タン社製チタン白で、これを導入した大小絵具製造所では、タン社製品の知られた欠点である白亜化や黄色化を改善するため、白色顔料として定着していた硫酸バリウム・炭酸カルシウムを混合して、複合顔料に加工することを積極的に試みざるを得ないので、それらのブラン・ド・チタン(白絵具)にも3種主成分が含有されています。
ここで重要なのは、それまで盛んに使われていた白色顔料鉛白が使えなかったのも1920年代の最大の特徴なのです。それは1920年代初頭よりフランス・オーストリア及びギリシアで有毒の鉛白の使用を厳格に制限する法律を施行したことによります。
したがって、もし1920年代後半の時代的特徴たる3種主成分混合に加え、鉛白を使っていないという特徴まで重なれば、佐伯が没する1928年当時の白絵具である証拠となります。
つまり、「冬景色」の白絵具試料片(A)(B)が、ともにチタン白(ルチル型)・硫酸バリウム・炭酸カルシウムの3種の主成分だけを検出した事実は、純粋アナターゼ型が登場するまでの限られた期間の時代的特徴をまさに表わしており、この白絵具こそ佐伯がパリで見つけて購入したブラン・ド・チタンであることを、限りなく高い蓋然性を以て語っています。
⑤ なお、試料片にルチル型チタン白が検出された事実については、そもそも3種複合顔料のノルウエー製チタン白においても加熱ムラによるルチル化は避け得ず、それを仕入れた大小絵具製造所による絵具加工工程でも様々な加熱処理が加わってルチル型化がさらに進み、ないしは白亜化や黄色化防止のため、あえて加熱することによるルチル化促進を選択する場合もあり、ルチル型が含有されるからです。
⑥ さらに絵具の様な少量需要者市場においては、当時純粋なルチル型を製造していたメーカーが史実として記録されております。むろんそれは純粋ルチル型を希望する絵具メーカーや絵具師に卸され、絵具に再加工された製品が絵具店・画材屋に卸され、発色の良いブラン・ド・チタンを好むパリの画家達に買われていくのであります。
⑦ 以上のとおり、宮田氏によるX線回析で検出されたのが3種複合顔料である事実ならびに、そのチタン白がルチル型であり、なお且つ鉛白を含まぬ事実こそ、佐伯滞仏時期のブラン・ド・チタンであることを証明しています。またその事実は、同時に「比較的新しい白色顔料である。」とした宮田報告書での顔料史の捏造まで炙り出しています。
⑧ 宮田報告書の「比較的新しい白色顔料である。」との判定が誤りであることが判明すると同時に、前記①~⑦との併合判断が相俟って、吉薗コレクションが真作である蓋然性が極めて高まったことを知るのであります。よって史実に合致した吉薗資料の信憑性も裏打ちされたのであります。

さて、「宮田報告書」の引用文献書き換えによる顔料史の捏造がなければ、以上の結論を導出し得たであろう裁判所が、判決では贋作誤審へと舵を切ってしまったのは実に残念であります。
以下に念の為、1900年代の顔料史を記録したA・典拠文献(1989年)を→ B・「宮田報告書」(2000年)で捏造し→ B・歌田所見書(2000年)で採用→ C・青木鑑定書(2001年)に反映→ D・裁判判決書(2002年)で判示されるまでの過程を、各書原文にて時系列にて順次抜粋し、下記に掲出しておきます。

A・典拠文献: 「酸化チタンTiO2が世界で初めて硫酸法によって工業的に製造されたのは1916年で、当初の酸化チタンは、アナタース型酸化チタンと硫酸バリウムの複合顔料であった。1920年代後半に純粋のアナタース形が、また1940年代になってルチル型酸化チタンが開発された。さらに塩基法酸化チタンが1957年に米国du Pont社によって開発されている。以来、急速に需要を伸ばし、白色顔料の中では不動の地位を占めるに至っている。」 (色材ハンドブック、250頁、1989年、朝倉書店)
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B・「宮田報告書」: 「資料Dで確認されたチタン白は、比較的新しい白色顔料である。20世紀初頭から、実験室レベルで合成がなされ、1916年には硫酸バリウムとチタン白(アナターゼ型)を共に沈殿する方法で、白色顔料として開発された。1920年代にはアナターゼ型チタン白の量産が始まり、その後、1940年代にルチル型チタン白の量産が、アメリカで開発されたとされている。」(平成12年11月22日・宮田順一)
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C・歌田所見書: 「宮田の報告にあるように、チタン白(ルチル型)は1940年代以降の量産品とされている。佐伯祐三没後に製造されたことになる。」(平成12年12月25日・歌田眞介)
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D・青木鑑定書: 「また(A-D)に使用されているチタン白は1940年代以降の量産品であるという、佐伯生存中にはなかった顔料なのである。」(平成13年10月30日・青木茂)
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E・判決書判示: 「さらに、原告は、Bグループ中の1点の絵画層から検出された、白色顔料の成分であるチタン白は、佐伯生存中には量産されていなかったとの(被告側)指摘について、パリの画界では量産に先立ち試験的に使用されていたと推論できると主張し、その根拠として、甲第18号証に掲載されている佐伯自筆の『巴里日記』中に『ブランド・チタン』と記載されていることを挙げている。しかし、かかる原告の主張はあくまでも推論の域を出るものではないし、そもそも前記第3の(3)③ウ(a)で指摘したように、佐伯の『巴里日記』自体、吉薗資料の一部としてその信用性は低いものと解されることから、原告の主張は認められない。(中略)鑑定の対象とされていない他の吉薗コレクションも佐伯の作品でないことが明らかである」 (平成14年7月30日・裁判官近藤壽邦)  

 以上は、膨大な文章群からとくに都合の良い部分を選んだものではなく、顔料の部分だけを
抜き出して掲出したものです。
御覧のように、典拠文献の簡略な記述を、それも近代工業における酸化チタン史に関する記述を、白絵具材料史にすり替えるところから始まり、まるで「伝言ゲーム」偽史版の体をなし、さらに簡略な記述で逐次表現を少しずつ変えながら断定し、終にはあたかも「ルチル型チタン白は戦後の新商品」というあり得ない判決理由をもたらしました。
それにしても、宮田氏から平成12年11月に伝えられた歌田氏は、1カ月後に青木氏へパスし、青木氏はそれを10カ月かけて裁判所へパス、裁判官は9ヵ月かけて判決文としました。
歌田氏が僅か1ヶ月で「チタン白(ルチル型)は1940年代以降の量産品とされている。佐伯祐三没後に製造された」と断定して伝言を青木氏にパスしたのは、もともと宮田氏の上司として「宮田報告書」の作成に共同で携わっていたため、今更確認する必要もなかったからでしょう。
青木氏のところで時間が掛ったのは、鑑定人としての職責上から、「宮田報告書」を典拠文
献に遡って十分に査読していたからと観るべきでしょうか。とすれば、裁判官への「1940年代以降の量産品であるという、佐伯生存中にはなかった」との断定的伝言は、歌田氏を受けた単なる反射的なものでなく、その根拠を自分なりに調査しての責任ある鑑定意見とせねばなりません。つまり、それだけ責任があるのです。  
裁判所を舞台にした3人の、頗る息の合った連係プレーの大胆には舌を巻きますが、それを受けた裁判所の対応を検証しましょう。


4・採証順位の優劣は裁判官の予断か?
本項では、吉薗資料に対する裁判官判断を検証します。裁判官は;
(A) 「吉薗手記」を、「一般に、学術的資料は、その出所と内容の信憑性を語りうる第三者を必要とするが、吉薗周蔵手記等の資料はこうした条件を欠いている。」(判決書二21頁)と判示し、
(B) 佐伯祐三「巴里日記」についても、「『巴里日記』自体、周蔵資料の一部としてその信用性は低いものと解される。」(判決二28頁)と判示した。

右判断が、誤審を生む素地を成した予断であったことを、以下論証します。
①・化学分析結果は正しかったのだから、裁判官は化学分析によって誤審したわけではない。また裁判官は、顔料史を誤解したようにも見えるが左に非ず、科学の専門家でない裁判官は内容を精査しても判断する能力はない。
要するに、裁判官は鑑定書が導出した結果を精査したにすぎず、特段の誤りがない限り、原告の反論を待ちその反論が妥当か否かだけを判断する立場であって、攻撃防御の観戦者であり判定者と言える。判定者は客観的でなければならないが、それとは別に自由な心証判断が認められている。自由とはいえ最高裁判例の蓋然性規範に縛られる立場を、地裁の現状では自由気ままな心証判断が許されると錯覚している裁判官もおり、審理不尽を問われても自由心証を盾にして「不服なら控訴して上級審で争え」と言わんばかりで、それとなく暗示することもある。
②・本判決も上記(A)、(B)が示すように裁判官の自由心証により、新しい資料たる鑑定書に信憑性があると判断したものである。心証が新資料(鑑定書)に傾いたのは、洋書の引用による客観性を装った宮田報告書と、これを裏書保証した歌田総合所見および青木鑑定書の体裁に幻惑されたとしか考えられず、その結果「新しい資料に信憑性があるから、この古い資料は信憑性が無い」という判断となったのであろう。つまり、新資料優先の単なる反作用として、「古い(吉薗)資料を偽造扱いしたのである。
③・裁判官はここで、古い資料に対して「一般に、学術的資料は、その出所と内容の信憑性を語りうる第三者を必要とする」とし、「こうした条件を欠いてはならない」と必須要件を規定するが、この要件は普遍的で、原告・被告に留まらず裁判官判断にも適用されるもので、資料の新古を問わず課せられた要件と解すべきであろう。
だとすれば、一見学術的体裁の鑑定書に対しても、古い資料に要求したのと同様に、その出所と内容の信憑性を語りうる第三者の存在を必須条件として課すべきではなかったか。だが、その点について裁判官はなぜか言及しておらず、また誰もかような指摘をしなかった。
裁判所の要請で作成された新しい鑑定書は、内容の信憑性を語りうる第三者の精査を受けていたか。裁判記録を見る限り、この鑑定書が作られてから結審するまでの間に第三者によりその出所と信憑性が語られた形跡は無い。むろん原告は反論しているが、第三者には該当しない。
つまり、裁判官が上記(A)、(B)にて述べた要件を自ら守っていないのだから、この新しい資料(鑑定書)は必須条件を欠いている、と謂わねばならない。裁判官が、新資料(鑑定書)と古資料に対し、「内容の信憑性を語りうる第三者を必要とする」という基準を平等に当て嵌めなかったのは、裁判の公正上、許されるものなのか。
それだけではない。そのことは同時に来歴の学術的証明に適用さるべき優劣順位にも適っていないと考えられる。来歴の学術的検証では、来歴を直接示した古記録(吉薗資料)をまず優先すべきで、蓋然性が希釈されている新しい来歴や、素材に由来した製造史などは間接的に真贋を推定するだけであるから、劣後に位置付けねばならない。
すなわち絵具は作品の直接的な物証となるが、絵具に付帯する顔料製造史は間接的な由来にすぎず、あくまで状況証拠にすぎないのである。そして特段の決定的な裏付けが無い限り、当時混在した多くの可能性の全てを検証しない限り、来歴を直接示した古記録には勝り得ないのである。
また科学鑑定はあくまで補完的な副手段にすぎず、検証法や人為操作により精度も異なることから、蓋然性に特段の担保を得ない限り、優先的な検証手段と過信すべきではない。今回は「利害関係者が鑑定に参加しているから正しい鑑定結果が担保され得ない」とする異議を原告が出したにも拘わらず、却下してしまった結果、原告の懸念が捏造という形で現実となったのである。
結局、鑑定書という学術的資料は、その出所と内容の信憑性を語りうる第三者を必要とし、こうした条件を欠いてはならないという必須要件を、裁判所も満たしておくべきだったということで、裁判官の言う必須要件は、建前としては正しかったことを裁判官自身が証明した好例であろう。
(注・校正段階で、この一文は、何と小林頼子の作成した武生市準備室報告書(小林報告)の一箇所を丸写ししたものであると、落合氏から指摘があった。インターネットでは、コピペ(コピー・アンド・ペースト)といわれる方法で、学校論文では規制されている)。
来歴の信憑性を問う場合、優先性からすれば来歴を示した古記録を排除し得ることは有り得ないから、新たに造った記録である鑑定書に古記録以上の信憑性を軽々に認めるべき理由はない。万一新古資料の内容が相反した場合でも、個々の蓋然性に大きな開きが無い限り、新たに造った記録(鑑定書)よりは、来歴を直接示した古記録を検証した結果を優先すべきであろう。
要するに、来歴を直接示す古資料の優先性が高いのが理の当然で、その真偽性が確認できない場合にも、「真偽性未調査」なり「第三者鑑定を要す」などの表現を用いて裁判記録に残すべきものであろう。新たに造った記録(鑑定書)を優先する余り、古資料に対して何らの検証もなさず、鑑定結果を軽信した反作用として、古資料を「信用性を欠く」と即断し、それを判決傍論において公表するのはいかがなものか。
④・間接的来歴を証明するための補完的副手段である科学鑑定を優先して判断すれば、足利事件のように誤審による冤罪も生じ得る。足利事件は、分析技術の精度の低さが誤審原因であったが、中島事件では、分析そのものに誤りはなく、分析評価の引用文献での人為的操作=捏造に誤審原因があった。
前者は、鑑定を採用したこと自体が問題であったのに対し、後者は、来歴資料との比較や引用文献の精査で見抜けたものを、書き換え捏造された顔料史による顔料来歴を採用したことに問題が生じたことは明らかである。
仮に、捏造者・分析員がいかなる錯誤や過失の弁解を唱えたとしても、近代美術史の一時期に不遜な捏造史を構成した事実だけは否定し得ない。いやしくも学術専門家による書き換え・捏造が美術界に反映された既成事実だけは打ち消すことはできず、美術界の社会的信用まで貶めている。
⑤・また「周蔵手記」と佐伯の「巴里日記」の2資料が示す吉薗コレクションの来歴は、出所は同じでも、筆者が異なるのだから、同じ資料の一部とは言えない。筆者が異なることを知りながら、出所が同じだから「資料の一部としてその信用性は低いものと解される。」と決めつけ、「その出所と内要の信憑性を語りうる第三者を必要とする」の注文まで付けている事実は、真の理由を暗示するがごときである。それは出所が同じこと、それだけを以て偽造と予断したものであろう。
おそらく、被告から証拠提出された小林報告が、行政庁武生市によって作られたと言う事実だけで、官尊民卑の念に惑わされたのであろう。科学鑑定には「その出所と内容の信憑性を語りうる第三者を必要」としなかった裁判官が、来歴に関しては出所を蔑視して誤った予断に偏った事実は否めない。
よって訴訟法上の全証拠を総合検討したとは言えず、右判決には審理不尽と経験則違反が認められる。すなわち、重要な複数の来歴資料の鑑定を省いたまま結審した裁判所判断は、高度な蓋然性の証明を示し得ていない、と評価せざるを得ない。

 以上は、判決理由を私なりに、論理的に検証した場合の帰結です。しかしながら、判決が明言する先験的判断、すなわち「吉薗資料」が偽造文書との予断が本当にあるのなら、裁判の開始当初からさっさと「吉薗資料」の検証に取り掛かり、その「偽作性」を暴けば直ぐにも結審した筈なのに、なぜそうしなかったのか。
その答えを求めるために私は、事情を熟知する落合莞爾氏に取材しました。同氏が語られるままを以下に紹介しましょう。同氏曰く、
これには推定を以て答えるしかない。それは裁判官が何人か変わったことである。当初の裁判官は吉薗資料を偽作と見るような予断を抱いていなかった、と私は推定する。それなら裁判は、「吉薗資料」をホンモノと仮定した上で、被告の偽作性立証を待つ姿勢であったことになる。
ところが、それが無理なことを初めから知っている被告側は、武生市の小林報告を取りあえず証拠として提出して、お茶を濁すしかない。その間、断続的に証人尋問を行いながら膠着状態に入ったことを指すのが、中鉢弁護士の平成10年12月21日付準備書面で、提訴後2年4ヵ月経過当時のものである。
行き詰った裁判所は、とうとう吉薗佐伯の真贋鑑定の実行を決定した。この時に原告側に、倦怠とそれに起因する油断が生じた。そもそも80年前のことだから、画布の年代測定は無理で、顔料も成分は現代と同じだから何も出て来る筈がない。だから「やるだけ無駄だが、やりたければ勝手にやればよい」といった心境であった。それが宮田氏ら関係者の偽証を呼び込むという、とんでもない結果になったのだ。
他方、被告からすれば、対象は「吉薗資料」ではなく個別絵画だから、「たとい確率は低くとも、何か出て来るかもしれない」との期待が生じた。「仮に何も出なくとも、振出しに戻るだけだから、やってみる価値はある」と言った心境と見て良い。
裁判の大勢は、青木鑑定人が鑑定補助者として宮田氏を申請し、それを裁判所が認めた時に大きく動いた。何しろ宮田氏は、大阪市立近代美術館から修復依頼を受けた歌田氏の修復研究所の分析員として、山發コレクションの画布や顔料を化学分析した当人である。山發品の分析データを握っている宮田なら、顔料問題で吉薗品に因縁を付ける位はできるかもしれない、と秘かに期待したのだと思う。
分析の結果、「冬景色」から検出したチタン白はルチル型で、おまけに硫酸バリウムまでも混合していた。今回あなた(私)に教わったが、これは正しく佐伯滞仏当時の顔料だから、「比較的新しい顔料」なぞとは到底言えない。
このことは、報告書作成のためにチタン白製造史を調べた宮田氏は当然知っており、だからこそ硫酸バリウムの存在が目につかぬよう、一工夫も二工夫もしたのだ。そればかりか、宮田氏の上司で修復家の歌田氏がチタン白の歴史を知らない筈がないのは、修復家として歌田氏と並ぶ杉浦勉氏の、武生事件の時の言(第Ⅰ部参照)からも窺える。
ここから後の推量はさすがに慎まねばならないが、とにかく化学分析で出てきたチタン白をネタにして、「宮田報告書」が顔料史を捏造したのは誰が見ても明らかだ。
「宮田報告書」は、その後の歌田氏の利用を予め考慮したもので、捏造が発覚した時の責任を宮田氏だけに押し付けることが出来る構造にしたものと思える。そこから始まるウソの「伝言ゲーム」に加わった歌田・青木氏が、裁判上の職責に背き、宮田氏の誤りを正すどころか却って強化・確定してしまい、それが裁判官に届いて、この通りの理由となった。
提訴以来判決まで5年もかかったのは、何人か代わった裁判官のうち少なくとも初期の人は、「吉薗資料」に対して然るべき敬意を有し、だからこそ慎重に裁判を進めてきたわけだが、科学鑑定に踏み込んだのが分岐点となった。
化学分析でたまたま出てきたルチル型の年代を捏造した「宮田報告書」と、これを受けた青木鑑定書が出るに及び、最後の裁判官は一気に贋作説に傾いたわけだが、そればかりではなく、青木鑑定書を採用した反作用で、来歴を物語る「吉薗資料」のすべてを、一括して贋作扱いした。
「吉薗資料」を贋作扱いする以上、その上に建つ私(落合)の研究もすべて砂上の楼閣と看做したのだが、贋作扱いの理由として、武生市の小林報告書をそのまま援用したのは、どう見ても前後撞着でしかない。
なぜなら、武生事件では、私(落合)が小林報告書を見てから反駁したのであって、その後それに対する再反駁は全くなされていない。このことは、全国の佐伯ファンならだれでも知っていることである。したがって、裁判官が心底から小林報告書を是とするのなら、武生市宛ての「落合報告書」ないし『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実』について、まともに再反論してもらいたかった。2冊とも原告が証拠提出したものだから、判決理由でも一応触れてはいるが甚だ及び腰で、内容は例えば筆跡鑑定だけを見ても、支離滅裂の無茶苦茶としか言いようがない(第Ⅰ部参照)。
小林報告書も被告側の証拠だから、裁判官がそれをここまで正当化するのなら、裁判の当初から、小林報告書と落合報告書を対比して検証すれば良かったのではないのか。つまり、裁判官が最初から「吉薗資料」を怪しんでいた筈はなく、最後にチタン白判決に傾いたために、私の吉薗研究が裁判官から切り捨て御免を蒙ったと見るしかない。でも、裁判上そこまでする必要があったのかね。

落合氏の上記指摘により、「伝言ゲーム」に至った裁判事情が知れます。(後略)

    平成25年8月9日
落合莞爾