●満州に渡り奉天古陶磁と出会う


2)錦州に石光真清を訪ねる

周蔵氏が会いたがっている石光氏の居場所ですが、「石光真清の手記」の通りであれば、まさに錦州で苦闘しているはずでありますが上原参謀総長が「石光は今どこにいるか、シベリアではないか?」と言う位ですから一時シベリアに潜入していたことを窺わせます。

帰リニ 先ニ訪ネテクレタ甘粕サンヲ憲兵隊ニ訪ネ
「石光サンノ居所 捜セルカ」
ト聞ク。
「石光サンノコト 調ベハ可能ト思フノデ 今少シマッテホシヒ」
ト云ワル。
「6日ニ家ヲ出タヒ」
ト云フ。
「明日中ニハ分カルデアラフ」
ト云ワル。
(中略)
甘粕の上司である憲兵指令官石光中将の兄を捜すのだから、何とかなるだろうと踏んだのである。
(中略)
5日昼過ギ甘粕サンガ キテ下サル。
「石光サンハ シベリアニ ヰッテヰタヤフダガ今ハ錦州ニヲラレルヤフダ。大分 苦労サレテヰルラシヒ ト云ッタ人モヰル」
トノコト。
「ハッキリト 分ラナヒガ 情報トシテハ確カナモノダト思フ」
ト云ハル。

(ニューリーダー 1999年1月号 掲載分より)

周蔵氏は、大正9年5月6日、満州に向います。周蔵氏は大連に大谷光瑞師、奉天に貴志彌次郎、錦州に石光真清を訪ねます。

5月末ピ
自分ハ 時間ガカカリスギタノカ ダフカワカラナヒガ 5月21日 奉天に着ク。

周蔵は「手記本紀」に、上のように記している。5月21日奉天着は、5月6日に東京を発ったにしては、いかにも日数がかかり過ぎる。奉天まではふつう5日ほどで着く。その指摘に先手を打って、こんなおかしな表現をしているのである。
実はこの時、周蔵はまず大連に立ち寄った。上原の別の密命を果たすためである。そのことを本紀に記載せず、例のごとく「別紙記載」としている。
自身の行動証明のために手記を披露せざるを得ない土壇場に際会しても、手記を小出しにすることで機密の全面的な漏洩を避けるよう、あらかじめ図っておくのは、諜者の心得であった。

大連では、上原大将の親心で満州東亜煙草会社に出資させてもらったようです。そこで持参してきた3万円を払い、株主になりました。この煙草会社に関しては今の所、よく分からないようです。(佐野 眞一 「旅する巨人」にやや詳しい)また、大連、旅順では関東軍上層部や外郭の動向を観察する任務を遂行します。
上原大将の斡旋で旅順では、大谷光瑞師の家を宿舎とすることができました。上原大将からは、関東軍の高官や軍属の行状を観察し、場合によっては「正義ノ弁ヲ カザシテコイ」と命ぜられました。

周蔵氏は10日ほど大連、旅順にいた後、満鉄で奉天に向かいます。貴志彌次郎に上原閣下からの張作霖宛の親書を渡し、石光氏の所に行くことにします。貴志氏は銀縁の眼鏡をかけ、軍人というより品位ある文人ように見えると書いています。
この貴志氏は、周蔵氏が最も尊敬していた人だとの事です。

石光氏は手記の中でも錦州に帰ってからいろいろな事業に手を付けたが、借金と不況で悪戦苦闘だったと書いています。周蔵氏は、一昨年、モルフィン精製を行う阿久津製薬の共同経営を行ってかなりの利益を得ていたためその話をしたところ、石光氏も製薬会社を作ろうと考えました。

周蔵氏は、渡欧の時に世話になり草としての基本を教えてくれた石光氏が経済的に苦しんでいる事を知り、東京から携えてきた3万円の資金の援助を提案します。豪胆な石光氏も金銭的な話になると非常に緊張したようですが、1万円だけ快く受け取ってくれました。
しかし、モルヒネ精製の知識に関しては、細心な上原に気を使い自分で覚えた事にして欲しいと依頼します。上原の腹心である石光に知識を与えても問題はないとは思いますが念には念を入れたようです。このモルフィン精製業に関しては、「石光真清の手記」にも記されているとの事です。
お金の話になると緊張する石光氏を見た周蔵氏は、融資だと精神的に負担になると思い、贈呈するからその代わりに揮毫して欲しいと依頼します。
石光氏の書いた2枚の書は、今も吉薗家に大事に保管されているそうです。
(右の写真がその石光筆)


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