大阪市は新設予定の近代美術館に展覧するための絵画を多数取得したが、目玉は何といっても大阪市の生んだ代表的芸術家佐伯祐三の作品である。百数十億円を要する市立近代美術館の新設の可否が懸る四十点余の佐伯絵画は、大多数がメリヤス成金山本發次郎の蒐集品の寄贈を受けたもので、描かれたパリの街頭の憂愁に満ちた風情は、写真か映像でしか見たことがない市民の憧れと夢を誘ってきたが、海外旅行の機会が増えた現在でもその人気が衰えないのは本物の美術品の証で、結構なことである。

問題は、それらの大多数が画布の下塗りに炭酸カルシウム(胡粉ないし白亜)を用いていることである。これは佐伯が用いたことで有名な「究極の画布」とは全く異なるから、疑問を抱く佐伯ファンも多い。また、骨太の構図の上に繊細きわまる描写が被さっていると見て、別人の加筆を指摘する人士も少なくない。右の疑問は、絵の外観および化学検査に基づくもので合理的な論拠がある。善意の寄贈品でもあり美術館に対して直接疑問を投げつけてはこないが、だからと言って聞かないフリで済まされるものではない。疑問を解消しないまま展観施設に巨額の公費を費消することに納得いかない市民も多いのである。

市民に対する説明責任からも右の疑問を解明せねばならない大阪市が、これまで疑惑に対して積極的に向き合い、自ら真相を確かめる努力をしてきた形跡はない。巷間、寄贈品だから何でもええではないか、市民が見て喜ぶならば結構やんかとの声もあろうが、民間の行う興行ならばともかく、苟も大阪市民の多額の税金を用いてこれを展観する施設を設け、人を雇って管理する以上、それでは済まされまい。これまで、住民側からの申し出がなければ何事も無為放置で済ませてきた行政庁でさえ、年金記録の脱漏問題以来、積極的な関知と主体的な行動が必要とされているではないか。

国民の宝たる文物を所蔵する公共的団体は、単にそれを保管し漫然と展観するだけが能事ではない。所蔵品の来歴をかざすだけでなく、積極的にその人文的本質を研究し、新発見に常に注意して定説を見直し、成果を発表して文化の発展と向上に資するのが根本的な責務なのである。

本稿は、数多い佐伯の生前資料を分析して得た佐伯祐三の真相を以下に示し、佐伯絵画問題の本質がその二元性にあることを明らかにして、大阪市所蔵の佐伯絵画に対する大阪市民の関心を高めるとともに、新市長に対して真摯な学術的検討と適切な措置を望むものである。無論、必要な協力は惜しまない。

佐伯絵画の二元性とは、その特殊事情から制作過程を異にする二種類が存在することである。一つは佐伯祐三が仕上げた本人作品(本人は「自分画」という)、もう一つは佐伯祐三の下描きを妻の米子が仕上げた合作品ないし加筆品であるが、これが生じたのは以下の事情による。

佐伯祐三の生まれた大阪市中津の光徳寺は、西本願寺末寺でも寺格が高く、祐三の兄祐正は西本願寺の実質法主の大谷光瑞師の側近であった。もともと戦国大名を凌ぐ封建勢力であった本願寺が隠密・間諜の類を使っていたのは当然で、本願寺も末寺の子弟のうち能力のある者を選抜し訓練してこれに充てていた。それは明治時代にも続き、大阪きっての秀才校北野中学に入った佐伯に注目した光瑞師がその画才を聞き、東京美術学校(美校)に入れて画家の道を歩ませることを決めたのは、社会事情に関する情報収集と文化工作を任せる一流情報員に一流芸術家を充てる原則に従ったのである。

一般学科が弱かった佐伯の入学を確実にするため、光瑞師は盟友の陸軍参謀総長上原勇作大将に美校工作を依頼する。上原から工作を託された陸軍特務吉薗周蔵は、祖母ギンヅルが薩摩藩京屋敷以来親しい仲の海軍大将山本権兵衛に頼み、美校を裏で支配していた帝国海軍薩摩閥の線で、佐伯祐三は大正七(一九一八)年春の入試に合格した。

上京した佐伯は、吉薗周蔵が開いた精神カウンセラー中野救命院に入り浸るが、これには裏があり、大正元年陸軍大臣として周蔵に陸軍用アヘンの研究と芥子の栽培を密命した上原が、周蔵のアリバイ作りを大谷光瑞師に頼み、光瑞師が佐伯の美校工作を依頼することで二人を近づけ、救命院の患者に仕立てた佐伯の架空の「診察日誌」を作ることで、周蔵のアリバイ作りを図ったのが真相である。偽装患者の佐伯は日誌作成を名分にして救命院に入り浸り、周蔵から小遣いを受け取っていた。

美校生時代の大正九年、佐伯祐三は実家光徳寺の檀家で東京新橋の象牙商池田家の米子と結婚する。裏側では、佐伯の画業促成を望んだ光瑞師が、幼少より北画を学び画業を習得していた米子に佐伯を指導させるため、両人の結婚を謀ったのである。激情型で速筆の佐伯は構想力にすぐれていたが、タブローを仕上げるまでの集中力がなかった。米子は、下描きすればタブローの制作が楽になると教えるが、仕上げができない佐伯は下描きのまま放り出し、それを米子が仕上げたから、当時の佐伯作品はほとんどが夫婦合作品で、後に二元性を生じる要因となった。

佐伯は結婚後も救命院に来て頻りに金銭を請い、周蔵はこれに応じていたが、後に妻になる経理担当の巻が作品を買うことを提案し、佐伯はこれから描く作品を引き当てにした支援金で、パリに往くことを決意する。佐伯一家の渡仏は関東大震災の後になるが、パリでも佐伯の画業は進まず、仕上げができないで悩む。米子が、自分が描いた二枚と佐伯の小品をサロン・ドートンヌに佐伯名義で応募したところ、米子の「コルドヌリ」と「煉瓦屋」が入選してしまい、衝撃を受けた佐伯は帰国を決心する。

大正十五年三月に帰国した佐伯は、米子と別居して英気を取り戻し、「自分画」を描きながら速筆に適する画布を思案する。佐伯の特徴の一つに画布下塗りの独特の工夫があるが、佐伯に限らずどの画家にとっても画布と絵具は作品そのもので、画風は画布によって定まるから、佐伯は美校生の頃から画布を研究・試作していた。最終的に到達したのは、亜鉛華(酸化亜鉛)と膠をマルセル石鹸を用いて混和し、厚目の麻布にドップリと塗りつけた「究極の画布」であった。この佐伯独特の画布について画友の多くが語り、佐伯の北野中学の級友で後に兵庫県知事になった阪本勝も、その佐伯伝で詳しく述べている。実は、これを工夫したのは、光瑞師の要請により佐伯の画業を支援してきた吉薗周蔵ら中野救命院のグループであった。第一次渡仏後にパリから落ちてきた佐伯を再起させるため、彼らが知恵を出して帰国期に完成したのである。

佐伯祐三は、三ないし四段階を経てタブローを制作したと書き遺しているが、スケッチ→デッサン→水彩デッサン→油彩デッサン(下描き)→タブロー(本画)の五段階のうち初めを何段階と見るかはともかく、現場で描いた[下描き]とアトリエで再構築した[本画]の二通りの油絵が必ず生まれる。下描き用の画布は、携帯に便利なように薄手の麻布に炭酸カルシウム(胡粉ないし白亜)を薄く塗った極めて軽いもので、「究極の画布」は下塗りの厚さが最大三ミリにも達し、重金属の亜鉛化合物からなるため非常に重く、本画にだけ用いられたのは言うまでもない。

この「究極の画布」によりパリ風景に再挑戦を図った佐伯夫妻は、滞在費用を稼ぐために画会(作品頒布会)を計画する。渡航滞在の費用は吉薗周蔵の支援で十分に間に合っていたが、震災で瓦解した米子の実家の援助資金も必要であった。ともかく画会は成功して、佐伯作品が始めて市場に出た。頒布品は佐伯自身が仕上げた「下落合風景」「滞船」などで、その中に試作段階の「究極の画布」を用いたものも混じっている。大阪市立近代美術館の「汽船」がそれである。

昭和二年八月、佐伯夫妻と弥智子は再び渡仏する。「究極の画布」が北画にも適することを覚った米子も画布作りに勤しむが、佐伯は相変わらず「自分画」が仕上げられず、ことに米子が凝りだした市中看板のアルファベット文字が旨く描けないと、東京の吉薗周蔵に手紙で悩みを打ち明ける。巣鴨病院長の呉秀三博士から佐伯のメニュエル病を聞いていた周蔵は、患者の特徴が「蝿の眼」「馬の眼」であることを教え、これを積極的に絵に取り入れることをアドヴァイスする。集中して見つめると対象がグルグル回りだすのが蝿の眼で、落ち着くと馬の眼になる。眼前と遠方がハッキリ見えるのに中間がぼやけ、遠近感が健常者と異なるのが馬の眼なのである。

周蔵の勧告により遠近感に拘ることを捨てた佐伯は、ようやく自分に合った画風の新境地をつかむ。馬の眼を用いた作品の第一号は、昭和二年十月のリュ・デ・シャトーの「広告塔」であるが、これを見て感じるのは、馬の眼とは遠方にピントを合わした望遠鏡の視界のようなもので、眼前の物が巨大に、遠景がずっと近くに見え、中間が欠落したかのように見える。早く言えば、遠近感は乏しいが何か神秘を感じる独特の空間である。

米子は佐伯の下描きを遠近法と北画流で修正して仕上げていたから、佐伯が創めた馬の眼の画法と正面から衝突した。しかも、米子が強調する北画の縦線の強靭さに反発した佐伯は、太く柔らかい紐を束ねたような柔軟さで建物の輪郭を現わそうとしたから、両者はまったく相容れないものとなった。これまで世に出してきた佐伯作品と馬の眼の「自分画」は誰が見ても異なるから、米子は「一人の画家に二通りの画風はない」といい、佐伯に「自分画」を描かないでほしいと頼むが、さすがに佐伯は受け入れない。

折りしも佐伯の美校後輩の荻須高徳が、佐伯夫妻を頼ってパリに来た。東京で会った荻須の画才と素直な気質に注目していた米子は、荻須の渡仏を首を長くして待っていたと、佐伯は日記に記している。「自分画」に拘る佐伯を見放した米子は、荻須に絵を教えるため、弥智子を放置して荻須のアパートに通う。昭和二年八月パリに着いた佐伯一家は、十月から富豪薩摩治郎八の所有する日本人アパートに入るが、階下に治郎八夫人千代子の部屋があった。家庭内別居の佐伯に同情した千代子は自分の部屋の使用を佐伯に許し、佐伯は米子を入れないその部屋をアトリエにして、弥智子の子守をしながら精力的に「自分画」を描き始めた。

十二月上旬、佐伯の部屋でガス漏れ事故が起こる。事故は警察からオーナーの薩摩治郎八に報告があり、薩摩から東京の周蔵に伝わった。佐伯は「米子の手がガス栓を開くの見た」と手紙で知らせるが、周蔵はそのまま信じてはいない。呉秀三博士の診断で、佐伯に精神分裂症(現在の統合失調症)の要素があることを知っていたからで、長女明子に宛てた遺書の中でも、佐伯の被害妄想の可能性を指摘している。ガス事故で六日間入院した佐伯は、米子を恐れて家庭内別居がさらに進み、ほとんど薩摩千代子のアトリエで過ごす。大阪市所蔵として有名な「郵便配達夫」や、「ロシアの少女」はこの部屋で描かれた「自分画」であるが、千代子のアトリエで描いたため、米子は佐伯の死後までその存在を知らなかった。

昭和三年一月、上原元帥の密命で渡仏した吉薗周蔵は、下旬にパリで佐伯夫妻と会った後に目的地のスイスへ向かう。家庭内別居ながら世間体を気にする佐伯夫妻は、二月五日から日本人の絵画留学生らとモランに写生旅行に行くが、パリに画材を取りに戻った佐伯は偶然周蔵に会い、食事をしたのが永久の別れとなった。

新たな画境で意気揚々の佐伯は、三月初旬一人でモンマニーに写生に行ったことを周蔵に手紙で報告するが、同時に米子から別れ話を突きつけられていた。離婚するにしても日本人アパートでは噂に立つので、一旦引越してから離婚することになり、荻須が見つけてきたリュ・ド・ヴァンヴのアパートに三月十三日に引っ越す。

離婚に当たり佐伯の絵を五百枚要求した米子に、佐伯はすぐに返事せず、兄の裕正に相談すると答えた。新居に移っても離婚に踏み切れない佐伯は、十五日にようやく離婚を承諾し、再びモンマニーに向かう。手元に画用紙の裏に描かれた佐伯の周蔵宛メモがある。吉薗明子が武生市に寄贈した吉薗資料の内の一品目で、三月十八日のものとみられるが、その末尾に、佐伯がモンマニ―で描いたとの記載がある。佐伯のモンマニー行は米子が知らなかったから、朝日晃はじめ佐伯研究者は誰一人として知らず、平成六年に「モンマニー風景」が出現して大慌てになった画商界は、ムリヤリ贋作扱いするために武生市を巻き込んだのである。

リュ・ド・ヴァンヴの新居でまたやり直す、と周蔵に報告した佐伯は、夜はアパートで寝て、昼間は薩摩アパートの千代子のアトリエに出向いて制作していたが、突然体調が悪化し、眼が霞み腕が震えるとの報告が周蔵に届く。手紙では病名は明らかにされていないが、巷間伝えられる結核でないことは確かである。

朝日晃によれば、佐伯の病状が友人に伝わり、六月四日に山田新一が見舞いに来る。佐伯は六月二十日の未明にアパートを抜け出して行方不明になるが、警察に保護される。二十三日に精神病院に入院し、そのまま八月十三日に死亡した。その間の詳細は、米子が朝日に語った話が主で、真相は誰にも判らない。

佐伯と周蔵が点けていた「救命院診察日誌」は佐伯の手元にあったが、帰国した米子から牧野三尹医師を経て周蔵に返される。周蔵は光瑞師に提出するが、光瑞師は読むどころか封筒から出しもせず、「あいつは駄目だよ。迷惑をかけたね」と言うだけであった。匠秀夫はこれを、アリバイ作りとは知らず『未完佐伯祐三の「巴里日記」』で引用した。

昭和三年十月末、周蔵は佐伯の兄裕正と会い、佐伯の話を聞くが、「詳しくは判らぬが病死」とのことで、「光瑞師は佐伯がプロレタリアに転向したことで第二次渡航前に佐伯を切った。独自行動とは、米子から報告があった」という。このことで、米子が光瑞師の情報員であったことが推察される。裕正の「自分は立場上困っているが、幸い光瑞師は自分を信用してくれている」との曖昧な言い方で話は終わったが、周蔵は、佐伯は確かに徳田球一や左派作家との付き合いはあったが、確たるプロレタリア思想はなかったと思う。

翌年九月、藤田嗣治が帰国した。周蔵の頼みで第一次渡仏から佐伯の面倒を秘かに見てきた人物である。上原勇作の情報員であった画家藤田嗣治で、薩摩と同様、佐伯との関係を日本人留学生たちに覚られないようにしていた。藤田の報告は「あれは、誰かにやられそうになって家を飛び出したらしい。佐伯は友人たちの行動をメモしていて、それを見てしまった人間が内容のことで佐伯を憎み、私刑に遭いそうになり、部屋から逃げ出した。画学生たちは口裏を合わせたが、自分本位なので全員云う事が異なる」とのことで、米子が佐伯の死をどう受け取ったかについて、「夫婦仲が終わっていて、佐伯の心は薩摩千代子に移っていた。米子に関しては、パリでも変な噂だけをよく聞いた」と藤田は言った。日本でも牧野医師はじめ画家仲間の何人かとの関係を聞いていた周蔵は、「妻君黙認シタノデアラフカ」と記している。

昭和三年十月に帰国した米子は早速周蔵に接近を図り、「佐伯の絵か、せめて自分が仕上げしたものだけでも欲しい」と哀願する。パリで会った時、米子から「佐伯の下描きを自分が仕上げたものは十分良いから引き取らないか」と持ちかけられた周蔵は、「下手でも本人の絵が良い」と断ったから、米子の手元にも加筆画が幾らかはあったが、デッサン・下描きを含めたほとんどは支援金の代償として薩摩が預かり、吉薗家に送られた。

周蔵が米子に与えた佐伯の下描きに加筆して、米子は画会で売った。それをまとめて買ったのが山本發次郎で、子孫から大阪市に寄贈されたのである。もとが下描きだから、画布の下塗りが炭酸カルシウムであって当然なのである。下描きと加筆のハーモニィによって絵画そのものが愛好家を感心させ、大阪市民の誇りになったのであるから、真相が判明しても絵の価値に問題はない。寄贈者にも不名誉はなく、迎合した二三の評論家が面目を失するだけである。新市長は、彼らを守るために大阪市民を裏切ってはならない。新館の建設より、検証の方を優先すべきではなかろうか。米子の方法は不透明水彩絵具のグアッシュを用いて加筆しリンシードを垂らすもので、顔料の化学的分析と筆致の鑑定により、十分検証できる筈である。