武生市作成の「佐伯祐三のパリ日記」資料

その2 どうか自分画を描かないで

 

佐伯祐三の想念には常に死の意識がつきまとう。原因は、幼時に患った結核にある。大正6年9月16日、中野救命院に初めて吉薗周蔵を訪ねてきた佐伯は、「ワイは肺病やねん。よって、そう長くは生きられへんねん」と言って、周蔵を驚かせた。

 

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(落合解説)10月下旬の日記にも、「死」「自殺」「ヤチ」と書いているが、佐伯には自殺願望が常に潜在していた。呉秀三博士によると、佐伯は自分を「薄幸のなかで天才を開花させ、若死にする悲劇の主人公」と位置付けしており、それに向けて自己の境遇を作り上げている。どうしても名作を残さずには死なれない境地に自分を追い込むわけで、これこそ天才の心境とのことであった。

米子は彌智子を連れて荻須のパリ見物の案内である。その間に薩摩千代子が佐伯を誘いに来て、連れ出されたのは千代子が絵を習っているパスキンの処であった。パスキンに引き会わされ、ピカソのアトリエも見せてもらった佐伯は、やる気が湧いてきた。千代子はモンソー公園にアトリエを有し、モンスリ公園にも家を持っているが、今はブーローニュ公園の近くに薩摩治郎八と住んでいると言う。それが当時のパリの金持ちの生活習慣である。

祐三が千代子に、広告塔の絵と彌智子を描いた絵を見せた場所は、佐伯一家が住むブールヴァール・ド・モンパルナスのアパート階下の千代子の部屋である。米子に隠れて仕上げるために、佐伯はここを借りていた。

馬の眼で描いた作品を、今迄で一番、と千代子に褒められ、薩摩にも見せるようにと勧められた佐伯は、「そふやとゑゑけどな」と喜ぶ。「アカデミックでもフォーブでもない君自身のものになった」と認めてくれた薩摩から、「米子にはまだ見せないように、今まで通りしておくように」と言われたが、それは難しかろうと、佐伯は自分ながら判断した。

米子の荻須に対する態度は尋常でなく、荻須のパトロンになるつもりかと佐伯が推察したのは、米子が荻須に小遣いを渡していることを掴んだのであろう。10月29日に周蔵から支援金が届いたが、その一部を米子は実家へ逆送金した。池田家は震災後の不況で余程困っているものと思われた。

米子は今度も展覧会に出展するつもりらしく、「これはあなたの ゑですのよ。ほんとふに よくできています」と褒め、毎日来ている荻須も見てくれてはいるが、「ほんまにゑゑのんやろか?」と佐伯は悩む。11月4日から12月18日まで開かれる第20回サロン・ドートンヌに出品する「新聞屋」と「広告のある家」は、確かに自分が描いているが自分の絵ではない。自分が手伝った米子の絵である。「真直ぐな線と きつい文字とを組合わせた 北画のゑゑ画や。ワシの才能やあらへん」。

今後、自分に力がついて来たらどうすれば良いのか。自分は北画が描けない以上、従来と違う画風となっても良いのだろうか、と佐伯は思い悩むのであった。

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(落合解説)馬の眼で描く自分に、将来実力がついてきた場合、今までに世に出してきた夫婦合作画をどう説明すればよいのか。一生のうちの一時期のものと説明して大丈夫通用するのか、その時はイシ(周蔵)が助けてくれるのか、との不安を日記にぶつける。

この日記は、心の内面を書くことで精神の安定を得る一種の治療法として、周蔵が佐伯に教えたのである。内容は、佐伯の心情が主たるものであるから必ずしも事実と看てはいけない、と周蔵は明子に遺言している。

 

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(落合解説)自分が蠅の眼と馬の眼であることを覚った佐伯は、画業に忙しくなった。昼は米子と写生に出かけるが、米子は傍らで見ているだけで作品は滅多に描かず、夜になって佐伯の下描きに加筆をして仕上げる。

佐伯は、馬の眼では、米子の様な「広い道に沿ったような」広大な風景画は無理と判ったが、画業での独立を米子に告げるのは今は時期が悪いと考える。気合が満ちてきた佐伯は、もう日記を書かなくても元気でやれるかもしれん、と思う。

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(落合解説)サツマさんとあるが、治郎八ではなく千代子であろう。夫に構って貰えない千代子は、米子が荻須と外出してばかりなので、佐伯を巷の食堂に誘ったのであろう。佐伯が、惣菜屋や千代子専属の縫い子を描いたのは、馬の眼は風景画より人物画がふさわしいからである。周蔵に「馬の眼の絵を送ったから、以前連れていかれた熊谷守一に見て貰ってくれ」と手紙を出したのは、自信が生まれたからである。

米子は佐伯の独立志向を感じて機嫌が悪いが、荻須が来ると機嫌を直す。米子に邪魔者扱いされる彌智子は佐伯に懐き、佐伯は写生に連れて行く。

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(落合解説)彌智子を置いて佐伯が写生に出て、帰ったら彌智子が足に怪我をしていた。米子が自分への当てつけに折檻した、と佐伯は思う。以前から日記に出て来る×印は、米子の不機嫌ではなく、佐伯に口を利かないことを意味する。いわば、随意性の失語症で、意地悪女の特性である。

 

 

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(落合解説)米子の随意性失語症が6日も続いたのは、荻須のアパートに絵の指導に行って、ほとんど留守だからである。佐伯は、米子が食べずしたがって作らないスキ焼を作り、中野救命院で周蔵と食べたことを思い出しながら、彌智子と食べた。

米子の描いた「新聞屋」と「広告のある家」が展覧会に入選した。その後に「巴里の人も買った人がいるようだ」と記したが、抹消している。

 

 

説明: C:\Users\ochiai\Desktop\新しいフォルダー (3)\武生市パリ日記17.jpeg第17頁

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(落合解説)自分が仕上げた絵がサロン・ドートンヌに入選して、さすがに米子は上機嫌であるが、佐伯には口を利かない。千代子が彌智子に作ってくれたオーヴァーを、米子は燃やしてしまった。

それほど佐伯の「自分画」志向に対する怒りは激しいのである。米子を避けたい佐伯は、彌智子と千代子のアトリエで過ごす。

 

 

説明: C:\Users\ochiai\Desktop\新しいフォルダー (3)\武生市パリ日記18.jpeg第18図

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(落合解説)随意性失語症が続く間に溝が深まっていく。

 

 

 

 

 

 

説明: C:\Users\ochiai\Desktop\新しいフォルダー (3)\武生市パリ日記19.jpeg第19頁

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(落合解説)米子は、祐三が「自分画」を描くのに反対しているのである。貴方が死んだら葬式を済まして自分も後を追うから、どうか「自分画」だけは描かないでほしい、とまで言うのである。佐伯の死後、米子は立派な葬式をあげたが、その後は言った通りにはしなかった。

 祐三は、こんな日記を書いても、周蔵に直接打ち明けるのとは違う。ムダやと悔しがるのである。

    平成23年11月3日     落合莞爾