●吉薗周蔵氏について

佐伯祐三のパトロンであった吉薗周蔵氏についてまとめてみます。
周蔵氏に関しては、雑誌ニューリーダーに連載している
『「佐伯祐三・真贋論争」の核心に迫る 陸軍特務 吉薗周蔵の手記』

が詳しいので、これもあわせて紹介したいと思います。周蔵手記に関して特に断りの無い場合は、ここからの引用と考えて
下さい。
周蔵氏について、落合氏は次のように書いています。

吉薗周蔵ほど魅力的な人物は、私にはまず思い当たらない。 本質的に自由人であるが、決してエゴイストではない。思想的には右翼、国家主義の側ではあるが、 その行動には他人を思いやるヒューマニズムの筋が通っている。自然科学の素養が深く、極めて理知的で ある。一切の公職につかなかった無冠の庶民にして、各界の重要人物とこれほど関わった人は他に居ない。 ただし、それは、裏側だけのつきあいであった。 (『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実』 329ページ)

周蔵氏は、明治27年(1894年)5月12日宮崎県西緒縣郡小林村で吉薗林次郎とキクノ との間に生まれました。吉薗家は、たばこの生産が多く賃加工による薩摩絣製造 に携わり、山地でありながら薩摩節(鰹節)の製造も行う、近在の資産家であった そうです。林次郎は下級公家である堤哲長の庶子で、堤家は甘露寺家の分家です が、武者小路、勘解由小路と比べて絵に描いたような貧乏公家だったようです。 林次郎の母はギンヅルといい吉薗家の当主萬助の姉でした。このギンヅルが周蔵 氏の一生を決めるキーパーソンとなります。
周蔵氏は、上原勇作の特務として陰の世界で生きる事となりますが、それまでの経緯と簡単に書きます。

山本権兵衛との関係
ギンヅルは京の薩摩屋敷で女中頭をしていた時、堤哲長の子林次郎を産みました。 哲長は、4年後に死去しギンヅルは吉薗家に戻ります。萬助に男子が無かったため、 林次郎が吉薗家を継ぎます。ギンヅルは鳥羽伏見の戦いの際、薩摩屋敷や屯所で 山本権兵衛に恩を売りコネを作ることで終生、何かと頼みごとをしたそうです。 周蔵氏は、明治34年に小学校に上がりますが数学が好きでどんどん自習していき 教諭を困らせました。飛び級して明治39年に県立都城中学に入学します。中学 レベルの数学では満足できず10日ほど通学した後、退学しました。 ギンヅルは、山本権兵衛に頼んで熊本高等工業の入試を特別に受験させてもらい ました。(専検を通らずに「裏口受験」です)ところが、悪友に誘われ妓楼に登り 受験をサボってしまいます。その後、学歴不要、予備試験と通れば入試が受け られるという熊本医専に入りましたが、同棲していた娘に結婚を迫られたため 医専も止めてしまいました。

武者小路実篤との関係
医専を中退した周蔵は、明治43年(1910年)上京します。ギンヅルと堤との関係で しばしば吉薗家に逗留していた勘解由小路光尚の甥である武者小路実篤を紹介 され白樺派に近づきますが、外国の猿真似の臭いを感じて同調できず翌年、宮崎 に帰ります。

上原勇作との関係
吉薗家と上原勇作とは縁戚で(ギンヅルは、上原の叔母にあたる)、その関連で ギンヅルの斡旋により上原は、明治4年16歳で上京し陸軍少佐野津道貫の書生と なりました。明治24年36歳の時、17歳年下の野津道貫の娘槙子を娶りますが、 その縁組もギンヅルが関係したそうです。そのギンヅルが大正元年、周蔵氏を 上原にお目通りさせ、以来上原の草としての周蔵氏の運命が決まりました。 周蔵氏は、上原の命令で海外に渡航する際にパスポートの取りやすい技師の資格 を得るために東亜鉄道学校の2学年に編入します。しかし、授業のレベルが低い ため月に1,2度しか登校しませんでしたが、上原のお達しのおかげか学校では 誰も文句を言わなかったそうです。そして、同時にアヘン研究のため熊本医専 麻薬研究部にも通いました。これは、生徒ではなく新設された麻薬研究科の無給 助手として通ったそうです。


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