天童竺丸氏

『明治維新の極秘計画』に対する書評 

刺激的な本書の書名となっている「明治維新の極秘計画」とは何か? 
それはズバリ、副題にある「堀川政略」である。
詳細については、本書を購入して読んでもらうしかないが、著者がこの「極秘計画」に想到するに至るには10年20年という永い年月がかかったことが窺われる。
本書には「さる筋」という正体不明の情報源が随所に登場するが、その人物が洩らした片言双句を書き留め、永い年月をかけてじっくりと吟味し、また関連する史実を丹念に拾い集め、それらを素材として堂々たる一大建築物に築き上げたのが、本書である。
著者の真摯かつ不撓不屈の探究心がもたらした成果と言えよう。そもそも、わが国要所によって「堀川政略」にいたる一大戦略を準備する必要が痛感された契機は、ナポレオン戦争後のヨーロッパにおける国際秩序を取り決めた「ウィーン議定書」(1815年6月9日成立)が結ばれ、続いて同年9月26日にロシア皇帝アレクサンドル1世の呼びかけで「神聖同盟」が成立したことにあったと著者は言う。
鎖国時代のわが国にとって遙か彼方の世界の無縁な出来事と言うべき、ヨーロッパ列強間に結ばれた「神聖同盟」に対して、なにゆえにわが国要所が危機感を抱いたか。
ここが「落合史観」の面目躍如たるところで、通説では例えばウィキペディアに説くように「これはキリスト教的な正義・友愛の精神に基づく君主間の盟約であり、各国を具体的に拘束する内容があったわけではなかった」とするが、著者は「しかしながら、神聖同盟の真の意味は、実は『欧州王室連合』の成立にあり、それは將來の『世界王室連合』を睨んだものだったのです。つまり欧州各王室の目は、この時すでに、遠く極東の日本皇室に向けられていました。欧州王室連合は世界王室連合に向かって発展するために、日本皇室に参加を求める方針を建てたのです」と説くのである。
そして著者に拠れば、このことをもっとも敏感に察知されたのが、第119代光格天皇(在位1779〜1817)である、とする。すなわち、光格天皇に始まる危機意識の結実こそ「堀川政略」である、と見るのである。
おそらくは著者によって初めて命名された「堀川政略」なるものの詳細とその担い手については、実際に本書に当たってもらうしかないが、倒幕をも視野に入れた公武合体策を骨子とするこの変革計画が、なにゆえに薩長土肥による「民衆革命的様相」を色濃くするに至ったのかについては、著者の説明が充分ではないように思われる。
本書は「落合秘史''T」と銘打たれているから、あるいは続編たる「落合秘史U、V」で明らかにされるのかも知れないが、期待も込めて、ここに愚見を述べておきたい。
欧州王室連合から世界王室連合への動きを捉え、これに対応する必要をわが皇室が察知されていたとするのは著者の炯眼と言うほかないが、このいわば「上からの世界戦略」と軌を一にして「下からの世界戦略」が用意されていたのではないかと疑われる節がある。
それは「民衆こそ神である」と標榜したジェノヴァ人ジウゼッペ・マッチーニを宣伝塔として起用した「世界青年党運動」である。「世界青年党運動」と言っても耳慣れない言葉で、せいぜいフリーメーソンの世界革命運動で、そういえば100年後のケマル・アタチュルクによる「青年トルコ党」がトルコ革命の中核となって近代国家トルコの誕生をもたらした、というくらいの知識しかわれわれは持ち合わしていない。
だが、ウィーン議定書による欧州新秩序ウィーン体制から生まれた「神聖同盟」に大英帝国が不参加だったこと、および原参加国の3国が100年後に勃発する第一次世界大戦により消滅したという史実に鑑みれば、ロンドンのシティを拠点とするフェニキア=ヴェネツィア世界権力の仕掛けた世界戦略の主眼が「世界王室連合」の結成にではなく、「世界青年党運動」の連鎖的発動にあったことは間違いない。
「世界青年党運動」は実に、英国を簒奪したヴェネツィア党が仕掛けた一大世界革命戦略であって、あまりにも巨大なその世界的広がりと規模の甚大さによって世界史の通説からすっぽりと見落とされているが、「神聖同盟」の向こうを張った「人民神聖同盟」が「青年ヨーロッパ党」として結成されたのを始め、深甚な影響をもたらした各国の例を試みに挙げてみると、「青年イタリア党」「青年スイス党」「青年コルシカ党」(マフィア同盟)「青年フランス党」「青年アルゼンチン党」「青年ボスニア党」「青年インド党」「青年ロシア党」「青年アメリカ党」「青年エジプト党」「青年チェコ党」「青年トルコ党」「青年ペルー党」……など一一挙げるのも面倒なほどで、「青年ユダヤ党」も結成され、それは「ブナイ・ブリス」(契約の子)と呼ばれることになる。
わが国の明治維新が「堀川政略」の企図した公武合体路線から逸脱して薩長土肥による士族・下士革命へと偏向したのは、薩摩藩論転換と薩長同盟の結成を契機としたとすれば、そのいずれにも英国が関与していることに鑑みると、世界的青年党運動の日本版が「薩長同盟」だったと見ても強ち外れてはいまい。
すなわち、「薩長同盟」を中核とする薩長土肥の士族・下士によって結成された「青年日本党」が明治維新の実行部隊であった、と言えるのではなかろうか。そして、わが国に「青年日本党」を誕生させ育成する役割はオランダの改宗ユダヤ人(マラーノ)であるグイド・ヘルマン・フリドリン・フェルベック(Guido Herman Fridolin Verbeck)、すなわち日本表記でフルベッキ(1830〜1898)に委ねられたと見るべきであろう。
  「大楠公崇拝」が明治維新に向けた「堀川戦略」による一大思想運動だったことを本書によって教えられたが、上に述べた世界的人民革命の暴力的破壊性を辛くも凌いで、よく日本風に緩和した功績こそ「大楠公崇拝」思想運動に帰せられるべきではないかとも思うのである。
いずれにしても、鳥羽伏見の戦いや彰義隊の戦闘、あるいは奥州列藩同盟の戦い、ひいては西南の役などの戦闘行為はまったものの、わが国が幕府を支援するフランスと薩長を使嗾する英国による代理戦争の戦場になった末に両国の植民地に分割される運命を免れ、今なお日本語を使い続けていられるのは、明治維新を計画し遂行した先達の辛苦の賜物と考えなければならない。  
わが国固有の文明を破壊して日本を日本でなくそうとする世界権力の圧力は日米安保やTPPを始めとして今日もまた厳然として降りかかっているが、明治の大変革をいかに準備し、いかに遂行したか、その功罪と瑕疵とを充分に認識することが最大の指針となることは間違いない。
その意味で、維新の内実に一歩も二歩も踏みこんで、「堀川政略」の存在を探り当て、この政略なくしては維新そのものがあり得なかった、と結論する本書は、今日の世界的な一大転換期においてわが国のために出るべくして出た必然の書であると言うことができる。 
従来の通説において、惰弱怯懦の人格に貶められてきた徳川十五代将軍慶喜公の顕彰を果したことも本書の功績の一つである。
「一身を以て幕藩体制を終わらせ日本近代化に決定的役割を果した慶喜公に関する尊称の省略は心苦しく感じますが、文中では史筆の常道に従い、原則として省略いたします」と断った上で、著者は言う。
「しかし慶喜は、これを自ら本来の運命と受け取り、戊辰戦争では怯懦を装い敢えて無為に徹し、幕藩体制の大リストラを間接的に敢行しました。戊辰戦争では多少の犠牲を伴いましたが、いかなる革命においても不可避とされる階級抗争による大流血と、それに付けこむ外国の内政介入を防いだことは、家康の元和偃武(天下の平定)と並ぶ日本史上最大の偉業であることは論を俟ちません。しかも、渋沢と同じく吾人をして感動せしめるのは、敢えて天下の不評を一手に引き受けながら、この世を去るまでその心情を一切洩らさなかった人格の高潔さであります。慶喜こそ正に、出るべくして世に出てきた運命の英傑であります」(本書121頁)。
慶喜公に対するこの顕彰に、愚生もまた満腔の賛意を感ずるものである。
渋沢栄一翁とその末裔歴代の出処進退に敬服の念を禁じえない愚生は維新後における慶喜公の影響を薄々とは感じていたが、慶喜公がこれほどの人物であったことを教えられたのは本書のお蔭である。
この感慨が愚生一人の経験でないことは、我々の仲間内で東洋文庫版『徳川慶喜公伝』(全四巻)を早速に購入して読みはじめた者が他にもあることから明らかである。
なぜなら、著者が「堀川政略」に想到したのは、「さる筋」による片言双句の示唆によるとはいえ、この渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』を熟読味読して眼光紙背に徹した結果であることが語られているからである。誰の前にもあった資料を熟読吟味して言わんとするところを正確に汲み取り、また言わんとしても言えなかったことにも思いを致して勘案を巡らしたからこそ、本書が生まれたのだとも言えるからである。(おわり)