紀州文化振興会

天童竺丸氏の拙著評

以下は、世界戦略情報『みち』の編集人天童竺丸氏による拙著「奇兵隊天皇と長州卒族の明治維新』の書評です

ほとんど矢継ぎ早ともいうべき早さで次々に刊行される落合莞爾氏の洞察史観が今度は、伏見宮の指揮下に活動する「数理系シャーマン」なる海外ネットワークの存在に言及するに至った。「数理系シャーマン」とは耳慣れない言葉で、イエズス会的霊操哲学により洗脳されデューイ流学校教育に汚染された我々の常識では「数理系」と「シャーマン」とは相容れざる対立項として認識され、この落合造語それ自体が語彙矛盾ではないかとの疑いをまず抱かされる。しかし、この「数理系シャーマン」なる用語が落合莞爾氏による初めての命名だとしても、そのように名づけられても不思議ではない集団がわが国に古来より存在していたことは確かである。その集団とは、すなわち土師氏に率いられたテクノクラートたちであった。彼らは埴輪や土師器造りであったのみならず、大型古墳築造の土木技術テクノクラートであり、また同時に「しのびごと」(哭礼)を中心とする葬送儀礼において主導的役割を果たす「シャーマン」でもあった。八幡大菩薩使者を名乗り左大臣正二位菅原朝臣(菅原道真)の霊魂の表わしたる位記を平将門に託宣したのは「一昌伎(娼妓)」(将門記)とあるも、私見では関東にも漂泊蔓延した土師系巫女だったに違いあるまい。葬送に関わる建設・儀礼すべてを取り仕切ったのが土師氏なのである。これを「数理系シャーマン」と名づけたのは、けだし卓抜なる落合流の命名と言うべきである。では落合氏の言う「数理系シャーマン」は歴史上に如何なる足跡を残しているであろうか。
●巷間に「天神さま」といえば直ちに菅原道真公を指すと考えられ、また今夏の猛暑のように、ゲリラ雷雨に襲われた時などに「くわばら、くわばら」と唱え、菅公眷属「桑原氏」の一員であることを述べて雷神と化した菅公の怒りを免れようとする民間呪法もかつてはあった。受験シーズンともなると、菅公を祀る神社に合格祈願の学生が絵馬を奉納する姿が各地でみられる。菅公を含む菅原氏とその同族たる大江氏および秋篠氏は土師氏からの改姓氏族で、土師氏主流は光仁天皇妃高野新笠(その母は山城国乙訓郡大枝郷出身の土師真妹)の生んだ皇子が桓武天皇となったことから改姓と朝臣賜姓の勅許を得て、律令制下における高級官人として復権を果たしたのであるが、本来は測量土木建築葬送儀礼などの全般に関わる「数理系シャーマン」であった、とするのが落合莞爾氏の洞察である。土師氏主流は改姓の後に当時の本拠地に因んで新しい氏族名を名乗る。山城国乙訓郡大枝郷の土師氏は大枝(後に大江)氏、大和国添下郡菅原庄の土師氏は菅原氏、平城京北郊の添下郡秋篠郷の土師氏は秋篠氏となった。菅原道真を「天満大自在天」なる怨霊神として久しく宣布したのが土師系シャーマンの巫覡らであり、学問の神さまとなったのは比較的に新しいとしても、道真公自身が紛れもなく「数理系シャーマン」であったことは、落合命名の肯綮に中たるを証しよう。
●古代雄族であった土師氏は大化2年の薄葬令によって古墳築造と葬送儀礼という一大国家公共事業における活躍の場を失って、その徒党の多くが離散・流民化を余儀なくされるが、こうした土師氏テクノクラート集団の窮状を救った英傑が行基である。行基が生まれた河内国大鳥郡(現大阪府堺市家原寺町)は土師氏の本貫河内国志紀郡に隣接する地域で、土師系テクノクラートの集住地帯であった。行基生地を大鳥郡高師浜とする異説も行なわれているが、「匠」地区と呼ばれているその生誕地に建立された「行基生誕の地」なる石碑には「行基に連なる大工集団が千歯扱きを考案した、その大工集団は徳川末期まで京都御所の御用大工となった、高度な大工技術を駆使して高石地区の住宅建設を請け負っていた」と刻まれ、誕生地に建てられた自治会館は「匠会館」と命名されているという。大阪湾沿いの高師浜もまた土師系テクノクラート集団の集住地域に属していたのだ。そして日本全国に及ぶ行基創建(開基)を謳う寺や井戸の多くは一時的に行基を統領と仰いだ土師系テクノクラートたちの活動の証拠あるいは痕跡として捉えることができる。
●日本全国総国分寺たる東大寺の建立に多大の貢献を為した行基は本邦最初の「大僧正」位ならびに「菩薩」号を以て賞されたが、土師氏主流が各地の国分寺国分尼寺や氏寺の設計建築に携わり得たとしても、土師族党のほとんどは新しい活路を見出す必要に迫られた。旧来の葬送職能から飛躍できなかった徒輩の拠ったのが、行基ゆかりの東大寺東南院三昧堂であるが、これら三昧聖は国家公認資格の僧ではなく、その一部は私度僧(勝手に僧形となった者)と称すべきであり、僧形ですらない有髪も多かった。ただ、人の死が絶えることはなく、三昧聖たちは賤視されながらも生計を立つる途を得た。律令制の弛緩・崩壊による荘園経済の進展により各地に生じた宿(夙)や散所が土師系徒党の拠点となった。わずかな一部の者たちが寺社に所属して神事相撲芸能を納めたものの、その多くは一所不住の漂泊生活を余儀なくされて各地を渡り歩きつつ、かつての職能を活かして卜占、託宣や語り、あるいは辻相撲、雑芸、舞技、売笑を事として逞しく生き抜いた。土師氏主流大江家の逸材大江匡房(母は橘孝親女)が『本朝神仙伝』や『洛陽田楽記』『傀儡子記』『遊女記』を著わしたのも、族党のために土師系シャーマンの系譜と生業を韜晦する必要があったからだろう。
●国家と一部有力貴族に占有され跼蹐していた仏教を広く衆生一般のために開放して本邦仏教に一大革命を齎したのが叡尊と忍性、そしてその教団たる真言律宗である。もともと僧侶資格を授与する国家機関としての戒壇は東大寺戒壇院に始まり、太宰府観世音寺戒壇と下野薬師寺戒壇が増設されて天下三戒壇と称されたが、最澄死後に比叡山延暦寺僧徒の嗷訴により延暦寺に「大乗戒壇」なるものが勅許されたのを加えても四戒壇にすぎなかった。その限られた戒壇での得度・受戒を経て僧侶となるのは多くが有力貴族の子弟に限られており、超国家エリートたる僧侶の腐敗・堕落を目の辺りにした叡尊が国家戒壇に拠らない「自誓受戒」というウルトラCを編み出して、仏教の国家管理と貴族占有を外したのである。それを喩えていえば、律令制を建前とした仏教界にも蔓延しつつあった荘園化に対処するため、国家支配と貴族占有から一挙に仏教を解放して大衆一般のものとしたとも言えよう。叡尊が国家管理と貴族占有から解放した仏教を真に民衆のものとして自立させたのが「今行基」とも称すべき忍性だった。また特筆すべきは、貴賎を問わず非人も含めてすべての人々のために葬儀を行なうという前代未聞の快挙に先鞭を付けたのが叡尊と忍性の真言律宗教団だった点である。いま仏教は「葬式仏教」などと非難され、また僧侶自らもこれを卑下しているが甚だしい謬見と言うべきで、路傍に果てて烏や野犬の餌食となっていた死者までも弔って葬儀を行なうという慈悲の行為を初めて行なったのが叡尊・忍性だった。自誓受戒の僧に新しい職能を与えたのである。すなわちこれをして「古代葬礼集団土師氏の仏教的再生」と呼んでよい。
●文殊信仰と土師系シャーマン集団の本質的関連を私はいまだ発見しえていないが、行基が文殊菩薩の化身と見なされたのは歴史的事実である。また、本邦においては文殊供養とは非人救済と同義であった。幼児より文殊信仰に専心した忍性は東大寺戒壇院で受戒した官度僧であるにも拘わらず一六歳年長の叡尊を尊敬しその下で再度受戒してあえて私度僧の身分となって叡尊教団に身を投じた。叡尊が願いとした大和西大寺の再建のために勧進聖となって粉骨砕身の活動をするのも行基の再来を思わせる。叡尊・忍性は聖徳太子を深く尊崇し、その定めた四天王寺四箇院制を重視したことも忘れてはならない。それは敬田院という仏法修行道場のほかに、病者に施薬する施薬院と病者の収容・治療を行なう療病院、老者を収容する悲田院を併設する総合医療・介護施設でもあって、真言律宗の寺院は多くが四天王寺式四箇院制を採用したのである。癩者への救済を公然と行なったのも真言律宗が初めてである。真言律宗の関東における総合拠点となった鎌倉の極楽寺にも四天王寺四箇院制に従って療病院、悲田院、福田院、癩宿が設けられた。今日でいえば、寺院・土木建設会社・製薬会社・病院・介護施設・葬儀所葬儀会社・芸能プロダクションなどを網羅総合する一大公共企業体、それが真言律宗であったのだ。かかる活動は荘園制によってもまた荘園制の解体から生まれた武家領地支配によっても果たしえなかった社会的要請であって、だからこそ皇室(特に天皇を退位した上皇)からも帰依され、武家政権から関銭徴収権や七道木戸銭徴収権を託されたのである。叡尊と忍性に共に行基以来の菩薩号が勅許されたのも故なしとしない。日蓮が真言律宗を羨望・怨嗟して「律國賊」と罵っても到底及ばなかったのは、社会全体の要請に応えて真に鎌倉新仏教と呼ぶに相応しい仏教革命を率先垂範したのが真言律宗だったからである。
●いま試みに『性公大徳譜』の挙げる忍性の活動を閲するに、草創伽藍83、供養堂宇154、結果寺院79、建立塔婆20、供養塔場25、書写一切経14、図絵地蔵菩薩1355、支那請来律三大部186、僧尼戒本3360、非人給衣33000、架橋189、道路修復71、掘削井戸33、浴室・病屋・非人所築造5を数えるが、証拠物として数えたてられるものを挙げてあるだけで、忍性本来の面目には遙かに届かないと言うべきであろう。もっともこれだけでも偉大なる活動の痕跡であって、とても一人の活動とは思えない。名も無き集団の総合力が発揮された成果と見るほかない。真言律宗寺院、特に総本山西大寺と関東本山鎌倉極楽寺を土師系テクノクラート再生集団の拠点と観るのも強ち無理ではなかろう。
●落合莞爾氏は「大塔政略」の総仕上げとして大塔宮護良親王を西大寺に入れるという、史実のどこにも無い真実を今回の著作で詳述しているが、けだし卓抜なる発想と言うべきで、先の著書で惰弱怯懦の人と決めつけられてきた徳川慶喜公の英傑ぶりを顕彰したのに続き、歴史に深く隠されていた西大寺・極楽寺に連なる非人ネットワークを明らかにしたもので、落合流洞察史観の赫赫たる成果を深く慶ぶものである。明治維新変革大事業においても「堀川政略」を発動すべく「数理系シャーマン」たちが秘かに活躍したが、落合氏が初めて正当な評価を下したその一人が矢野玄道と榎本武揚である。武揚の父箱田良助が備後国深安郡箱田村の出身と聞いて、私は自らの不明を深く恥じた。というのもわが産土は吉備中国小田郡甲弩郷(きびなかつくにおだのこほりかうののさと──和名類聚抄)で、箱田村とは井原市を挟んで至近の距離にある。近隣に輩出した数少ない偉人が幕末の名儒官茶山であるが、箱田良助が黄葉夕陽村舎に学んだその門弟であったとは! 箱田良助の箱田姓は地名を負う通称で、本姓は細川氏である。その箱田村細川氏の家紋は伏見宮家と同じく一四菊紋であったと落合氏は言う。すなわちこれを以て見れば、大塔宮が西大寺に入って以来、土師系テクノクラート集団は皇統奉公衆たるの職能を担ったのであり、やがて護良親王直系伏見宮歴代がその棟梁たるの任にあったことが推測される。箱田村細川氏家紋が一四菊であることは紛れもないその証拠である。
●中園英助『榎本武揚シベリア外伝』(文藝春秋、2000年刊)はロシア帝政の暴虐に反対して弾圧されシベリア流刑にされたデカブリスト残党たちと榎本武揚の接触を辿り、デカブリストらと榎本武揚による「シベリア共和国建設」の密約を探り当てるという探偵小説である。「本当に大事なことは文字に残さない」という落合流の洞察史観からすれば、榎本武揚のシベリア紀行報告書『シベリア日記』に片言双句も出てこないからこそ、維新後に伏見宮海外ネットワークのコントローラに任じたであろう榎本武揚にとっては、かかる「日露共同シベリア共和国建設」に関する国際密約も、あるいは通常の諜報業務ではなかったか、と肯わせるのである。