「吉薗周蔵の手記」に見えた周恩来(1)                           
 
   1・大正六年九月条――ギンヅルの上京と高島子爵の死
新中国の国家指導者として今も国民に尊敬され、日本人の間にも好感を以て迎えられる周恩来
が大正年間に日本に留学した際、京都の学生下宿で吉薗周蔵と知り合ったことは、既に述べてき
た。
周恩来の日本留学に尽力したのは天津南開中学の同級生だった呉達閣であるが、この人物の
一端が最近明らかになり、二十世紀の東洋史を根底から見直す重大事である事が分かった。
以下では、今までに把握したことを順次述べていきたい。
「周蔵手記」に周恩来の名は、私が見た限り一回だけ出てくる。「別紙記載」大正六年「九月ニナルト早ク、婆サンガ上京、出テ来ル」で始まる条である。
祖母ギンヅルが日高尚剛と連れ立って、日向から上京してきた目的を、「高島サンニ関フル事モアルヤフダシ、(上原)閣下ニ用モアルノデアラフ」と周蔵は推察した。
高島とは、前年一月に他界した子爵高島鞆之助のことである。日清戦争の前後に二度も陸相に就き、大勝利をもたらした高島の功績は歴史の霧の彼方に消えた。
さらに、日清戦争後に日本に割譲された台湾で発生した土匪の反乱を、台湾副総督として平定し、日清戦争の仕上げをした偉功は、すでに当時から国民に伝わらず、まして初代拓殖務大臣として台湾経営の根本策を定めた事績は、児玉源太郎・後藤新平に仮託されて浅薄な史家を騙し、史家はそれを受け売りして民衆を惑わしてきた。
明治三十一年に陸相を辞して以来十八年、枢密顧問官の閑職で世間を韜晦(とうかい)していた高島の裏面は、在英ワンワールドの要請に応じ、樟脳・砂糖の台湾産品と阿片・煙草の台湾需要品に関する
基本政策を取り仕切っていたのである。
ギンヅルと日高の薩摩コンビは幕末以来、芥子・人胆の製剤たる秘薬「浅山丸」の製造に専心し
ていたが、明治二十四年に吉井友実が薨去するや、その後を襲って薩摩ワンワールド(在英ワンワールドの薩摩支部)のグランドマスター(総長)に就いた高島鞆之助の指令下にあって、鈴木商店や東亜煙草などを間接支配していたのである。
大正五年一月に高島が薨去し、吉井の次男で高島の養嗣子になっていた陸軍少将高島友武が子爵の家督を継ぐが、薩摩ワンワールド総長としての吉井の後継者は、以前からギンヅルの甥で男爵陸軍大将の上原勇作と決まっていた。
大正六年九月、ギンヅルが日高尚剛を従えて上京した目的は、高島と上原に関係したビジネス・マターと周蔵は察したが、もう一つの目的は、京都の渡辺ウメノから至急の相談事があったので、周蔵を同道させるためであった。

2・渡辺ウメノと孫政雄
周蔵が上原勇作の命令で熊本医専薬事部に入り、芥子栽培を研究していた大正三年、ギンヅ
ルから、「芥子に関わる古書を貰ってこい」と言われて、ウメノを訪ねたことがある。
御霊前に住む町医師渡辺家の娘ウメノは、ギンヅルの旦那の正三位堤哲長の旧妾であった。
母が丹波亀岡の穴太村の上田家の出で、出口鬼三郎の祖父上田吉松のいとこに当たるウメノは、『周蔵手記』に拠れば、最初は堤家の女中となって、嫡男の哲長の最初の女になったが、やがて堤家を去って町医者の実家へ帰り、いとこの上田吉松の妾になった。
ウメノから民間医術の伝授を受けていた哲長が、モグリ医者として幕末を生き抜き、それを見習ったギンヅルが「浅山丸」で巨利を博したのである。
ウメノの医学知識は、生家の渡辺医師というより、母の実家の丹波穴太の上田家に伝わったアヤタチ医学であった。哲長より七、八歳の年長と周蔵が推定しているウメノは、遅くとも文政三年(一八二〇)の生れで、大正三年には九十四歳を超えていた。
丹波綾部の出口ナヲが上田吉松と組んで始めた「皇道大本」は折しも興隆期で、開教者の一
人のウメノは綾部に移り、大本教祖の出口邸に寄留していた。綾部を訪れた周蔵は、出口鬼三郎にも出会い、鬼三郎(王仁三郎)から、下北半島の小目名に潜んでいる実父上田吉松の様子を聞かれた。
ギンヅルは、哲長の新旧の妾同士の誼みで仲の良いウメノに、哲長の孫の周蔵を引き合わせ、さらには出口鬼三郎にも紹介する目的で、芥子関係の古書の受領を口実に、周蔵を綾部に派遣したものと推察される。

 3・政雄の出た「北の医専」
前置きが長いので、周恩来と何の関係があるのか、との諸賢の怪訝な顔が目に浮かぶが、実は
大有りなのである。
近来、周恩来に関する極秘史実を認識し、これに基づき従来の歴史解釈を一層深化させることが出来たので、以下遠回しではあるが、それを説明していく。
大正六年十月十日の昼過ぎに京都駅に着いたギンヅルと周蔵は、早速綾部を訪ねたが、ウメノ
は修学院に引っ越したとのことで、そこへ回った。三年の間に老いさらばえて衰弱したウメノは、医専に在学中の孫の政雄が八月に休暇で帰って来たところ、肺を病んでいたので、老齢で面倒を見ることが無理な自分に代わって宜しく頼む、とのギンヅルに対する依頼であった。
「医大をやっと畢る処にきて、こげんかことになって」と、薩摩弁を使って泣かんばかり言う。京都で生まれ育ったウメノが、ギンヅル・周蔵を相手と観るや薩摩弁を使う。ここに尋常ならざる丹波衆の断面が露われているわけで、史家はいかなる場合でも、かかる一次的情報を決して見逃すべきではない。
御高承の通り、理論物理学の方法論を用いる落合流洞察史学を、俗徒は常に「裏付けを欠き荒唐無稽」と謗るが、眼前の事実を察するを得ざる者にして、そも裏付けを奈何せん。裏付けを求むる前に、かかる些事の所以を考究すべきである。
ウメノの書簡であらかた用件を察し、周蔵を帯同してきたギンヅルから、「何とかなるか?」と聞かれた周蔵は、「結核は自分が親炙する牧野三尹先生の専門である」と答え、修学院を辞して政雄の下宿を訪ねた。政雄は自分の肺結核の理由を、「医専ヲ北ニシタタメニ、風邪ヲヒクコト多ク」と説明していた。 
その医専の名前だが、私は周蔵の遺族から、「ナベさんは盛岡で、下宿先で医専創立者の三田家の女性と親しくなった」と聞いていたので、うっかり「盛岡医専」と書いてしまったが、今回調べたらそんな医専は見当たらなかった。
  盛岡には、地元富豪の弟三田俊次郎が県立岩手病院を収得し、これを実習場として明治三十年
に設立した「岩手医学校」があり、明治四十五年の医育改革により廃校した後、昭和三年になって
三田俊次郎が「岩手医専」として再開する。
その間の大正六年頃には、影も形もなかったとすると、政雄が通った「北の医専」はここではない
ことになる。尤も、岩手医学校の創立者は慥に三田氏であるから、全くの誤伝ではない。
おそらく、京都の医師の渡辺家は盛岡の三田氏と繋がりがあり、政雄は岩手医学校に入る予定だった。
ところが明治四十五年に岩手医学校が閉校となり、そこで政雄は東北帝国大学医学専門部(仙台医専)に入学したのかも知れず、当時の医専の修学期間は四年だから、もしこの通りなら入学は大正二年で、その時代に渡辺政雄は三田氏の娘と同棲していたのである。
  あるいは、当時の学制には、今はもう忘れ去られた特例があって、三田氏の岩手医学校が何らかの形で大正六年まで残存していた可能性も見逃せない。というより、私にとっては、こちらが本命なのは、政雄の下宿先が盛岡の三田家と考えるからである。
  ともかく渡邊政雄は、大正六年に「北の医専」を出て京都へ帰ってきたが、御霊前の家は家族が既に処分してウメノも修学院に引っ越していたので、知合いの下宿屋へ入ったらしい。

  4・政雄の下宿
ウメノは公家堤哲長の娘を生み、その娘の子が政雄であるから、「畑違いだが哲長さんの孫同士
で、従兄弟だから仲良くしてやってくれ」と言われた周蔵は、血が同じであれば親しめるものでもないと思ったが、温和な政雄に好感を抱いた。
しかし政雄にはしたたかな面も窺えた。ウメノには「まだ医師に成れていない」と謂っていた政雄は、実際には医師免許を取得しており、専門は外科だと周蔵に言ったのは、当時は医専を卒業さえすれば医師免許を貰えたからである。
しかし、大本教に巻き込まれたくないから、医師免許の取得をウメノには隠したと聞き、政雄を理解した周蔵は、政雄を預って東京で面倒を見ようと思った。
さて問題は政雄の下宿である。「孫息子を預けたる家は、佃煮や干物などを扱う店を花街の方に出してをるらしいが、何より変わってをるは、下宿も離れの間借も支那人が多いとのこと」と記載がある下宿は、どこにあったのか。
当初、私がこれを左京区吉田中阿達町にあったと勘違いしたのは、『創大アジア研究』「日本留学期の周恩来と京都訪問についての一考察」(川崎高志)により、『中外学者再論周恩来』(中央文献出版社)に、本部廣哲氏の研究により、「現在の左京区の区役所になっている場所にあった、二軒並びの北側であったと考えられている」とあることを盲信したからである。ところが、最近になり、周恩来の下宿について新たな情報を得たので、後述する。

5・呉達閣と周恩来
「周蔵手記」の大正六年九月条は、周蔵と後の世界的政治家の出会いを記している。
「これを書いてをると、〔日記を点けるは良い事なり。自分もさふしやふかと思う〕と、他人の物
のぞき込んで声をかけたる人物がをる。孫息子と大分懇意であるらしい支那人の居候なる
人物、周と云うらしい。名乗らる。
京都の大学に行く資格あるも行かず、毎日見物して遊んでをる由。まるで石光さんと同じや
ふだ。多分、日本を偵察してをるのであらふか」。

ここに出てきた、「孫息子と大分懇意であるらしい支那人」が呉達閣で、「居候なる人物」が周恩来その人であった。
呉達閣こそ、周恩来と張学良を繋ぐ重要人物で、この人物の事績が明らかになれば西安事件の真相が暴露されて、国共合作の意味が明らかになり、従来の東亜近代史が転覆して、世界史の観方が一変する。
何度もこのテーマを掘り返してきたが、今回は呉達閣に焦点を当てる理由は、この重要人物の探究を、中華民国國民党と中国共産党の双方が故意に、しかし秘かに抑止している事に感づいたからである。
私(落合)が、「周蔵手記」の解読に取り掛かったのは平成八年の一月であった。それから十三
年、日夜その解読に勤しんできたが、この条ほど解釈に苦しんだ例は少ない。
後述する「一年のずれ」が解明できなかったからである。こんな場合には、必ずそれに相応する真相が潜むことは、十三年の経験で分かっている。従来は、何かに残された記事の断片や、いずこからともなく寄せられる情報から史家が見逃したその一端を暴くことができたから、私(落合)は諦めなかった。
そこで今回は、まず呉達閣から始める。台湾刊『民国人物伝記史料』は、呉達閣のことを、諱は
瀚濤(カントウ)、字は滌愆(できけん)としている。むろん、達閣という名はどこにもないが、図書館に行ったら、司書がこの人だ、と教えてくれる。いわゆる公然の秘密なのである。
初めは達閣だったが都合により改名したのか、最初から偽名だったのかは確認できないが、英人記者ディック・ウイルソンが昭和五十九年に発表した『周恩来』は呉達閣の名を用いている。
同著に出てくる呉の記事を、以下に掲げよう。
  @大正二(一九一三)年夏、周恩来が天津南開中学の第四級に入学。隣席に呉達閣がいた。
  A大正六年九月、日本留学中の呉達閣が仲間と留学資金を出しあい、周を日本に呼ぶ。
  B同月、神戸港に着いた周を呉が出迎え、周はすぐに東京へ移る。
  C大正七年秋、夫婦で京都にいた呉が周を京都に呼び、居候させる。
D大正八年、五四運動に呼応して周が帰国を決意、周夫人は指輪を売って旅費を与える。
E大正十一年、周はフランスで共産党勧誘文書を作成、京都の呉に送るも返事なし。
F昭和十二年、周は西安事件後の国共協定で、国民党使節団員の呉と偶然会う。

 ウイルソンは、自身の著より前に出た周恩来伝の松野谷夫『中国の指導者−周恩来とその時代』
(昭和三十六年)及び許芥c『周恩来』(昭和四十三年)につき、「許芥c、松野は韓という姓を使
っているが、(呉達閣)と同一人物である。筆者(松野)は本書を執筆する目的で、一九八〇(昭和
五十五)年に台北で彼(呉達閣)と会った」と言っている。
大戦後台北に移った呉達閣は、「韓某」の偽名を使うことを条件にして、周恩来伝執筆のための
情報を、許芥cに提供したのであるが、ここでウイルソンが、何故に偽姓を用いたかを追究しなかったのは、呉達閣の本質に全く気付かなかった証拠である。
周の旧友の名は「韓某」ではなく本名は「呉達閣」と聞いたウイルソンは、周の伝記を執筆する目的で、台湾で国際法学者となっていた呉を訪ねた。
中国人は、友人間では諱(本名)を呼ばず、字(号)を以てすると聞くが、その実は、名刺には「周
恩来 翔宇」、書簡にも「翔宇 周恩來」などと記名していて、公式的な場合は勿論、一般的にも諱を名乗っているのである。
ウイルソンが台北で会った相手は、「呉達閣?」と呼び掛けると応じたが、自身の諱を「瀚濤」と告げてくれなかったので、ウイルソンは彼の諱(改名後の?)を終に知らなかった。
台北まで行って本人に会い「韓某」が偽名と確認したが、「瀚濤」と変えたことを本人から知らされなかったウイルソンは、達閣の本質に気付かなかったのである。
呉達閣の本質を知らずに著した伝記が、周恩来の真相を伝えていないのは当然のことで、これがまたも「裏付け重視」で誤謬に満ちた俗流史学の一典型を成すこととなる。 
  平成に入り、周恩来伝の決定版と銘打つ伝記『長兄』が出た。著者韓素音(ハンス―イン)は映画『慕情』の原作
者として知られるが、最近亡くなった。
ハンは、周恩来に十一回も会い、ウイルソンにも協力して貰ったというが、この著も呉達閣が改名
したことを知らず、達閣の本質を、延いては周恩来の本質を見誤った点では、ウイルソンの著と同
断である。
周恩来を理解するには、呉達閣を理解せねば始まらないのである。

平成25年1月28日
                 紀州文化振興会   落合莞爾