2.キッチナー元帥と奉天宮殿磁器庫

       この文は、HP開設に当って書き足したものです。

キッチナー元帥の閲歴については1に述べましたが、ここにはキッチナー元帥が明治42年10月25日に単身入って半日を過ごし、「江豆紅太白尊一対」を頂戴してきた奉天宮殿翔鳳閣の二階に在った磁器庫の意義を考えてみましょう。

 百年前の古い話とお笑いでしょうが、実は今日につながる重要な問題が二つあります。その一つは当時、奉天宮殿とは別に、奉天北陵に隠匿されていた古陶磁器がいかなる事情のものか、また両者の関係はどうであったかということであります。二つ目は、それら総数10万点を超えた清初年款陶磁がその後どうなり、今は何処でどうなっているのか、ということであります。

 第一の点は、本会発行の落合莞爾解説本(『乾隆帝の秘宝と「奉天古陶磁」の研究』に詳述しているので、ここでは要点だけを述べると、奉天宮殿の磁器庫は宮廷用品の予備倉庫であったとことは確かです。台北故宮博物院の副院長だった荘厳は「余り物や皇帝の気に入らない品の置場」と断じましたが、古陶目録を見ると、そうでもないようです。

説明: Lord Kitchener AWM A03547.jpg 満鉄総裁特別秘書で関東庁の高級官僚を兼ねていた上田恭輔は、政府からキッチナー元帥の接伴役を命ぜられましたが、陶磁趣味が共通するため、二人は暇ができると陶磁談義に興じていました。

上田が「奉天宮殿の磁器庫には、黄釉の丼鉢が大凡2千個、郎窯大花瓶160点、雍正霽紅高足杯が699点ある」と話したところ、興奮したキッチナーは、面子を尚ぶ中国の習慣として蒐集を褒めれば一品頂戴にありつけることを計算し、寄り道しての奉天宮殿見学を希望しました。   

 見学だけの許可ではなく、一品賜与の許可が確実に欲しいと言い張るキッチナーは、その目途がつくまでの数日間を、数人の部下たちと遼陽近辺で無為に過ごしました。たった一夜の奉天宮殿滞在のために、東三省総督錫良は面子のために、現在の数億円をかけて歓迎します。これらの時間と経費は全て、キッチナーの磁器庫見学のためにのみ費やされたのです。

見学が済んで、大きな箱を二つ両手にぶら下げたキッチナーが、意気揚々と宿舎に戻ってきます。上田が「一品頂戴では?」と尋ねると、元帥は「そうさ、チャイナで一件というのは、1ペアーのことだ」と澄ましていました。

 

前述の落合解説本から、その部分を引用します。

 

  上田恭輔「キッチンナー元帥の支那陶器に関する挿話」

  【前略】其の後、偶然に奉天の宮殿の古陶目録の薹帳のコッピーが手に入ったか

ら、多大の興味を以て之を通覧して居ると、康煕御窯の製品目録中の「江豆紅太

白粋齦S四十八件」の項目の下に細字を以て「内二件、宣統元年九月一三日に

於て総督錫良・巡撫程徳全、倫旨を奉遵して英国元帥希基拉将軍に送る」と記

入してあるのが目に留まり、「なるほど、これが例の奴だな」と感心しながら當時を

追想し、次いで次の行を追って行くと、思わずアーッと叫むだことは、同じページ

の「江豆紅八道碼缾二十八件」の下にも亦「内於宣統元年九月十三日奉総督錫

良、巡撫程徳全遵倫旨提出二件送英国元帥希基拉将軍」と記入してあるからで

ある。

加之、康煕御窯の江豆紅の八道碼はキッチナー元帥が貰はれたものよりは遥か

に巨物で、今日は其の價値計るべからざる逸品であるからである。その時自分は

世の中には、上にも尚上手のあることをツクヅク感じさせられた。

 

説明: 9三井良太郎画上田恭輔像.jpg左は満鉄の製図技師三井良太郎が大正9年の夏に描いた上田恭輔像です。

上田が、多大の興味を以て通覧したという康熙御窯品の目録が近年、国立国会図書館で見つかりましたので、その部分を下に掲げます。確かに上田の記した通りの文章が小さい文字で追い書きされています。

目録には「江豆紅」とされていますが、普通は「豇豆紅」と書かれます。豇豆はアフリカ原産のササゲ豆のことで、中国原産の小豆とは別物で、色は小豆よりやや淡い暗紅色ですから、関東では小豆の代わりに赤飯に炊いたりします。「江豆紅」はその淡い暗赤色に譬えた雅名であります。ともかく、「江豆紅太白尊一対」を貰って元帥は上機嫌で宿舎に戻ってきました。

1に書きましたように、公式歴史は上記のようになっていますが、もう一度検討してみましょう。

この前日、伊藤博文が満鉄特別列車に乗って奉天を通ります。伊藤は大陸勢力の本尊たる帝政ロシアの首相ココツエフと秘密会談をするために、ハルビンに向かう途上でした。伊藤はこの日、ハルビン駅頭で暗殺されましたが、両人がこの機会に会見しなかったのは偶然なのか、落合は史的疑問を感じています。

当初奉天に立ち寄る予定のなかったキッチナーが、急に奉天宮殿の見学を言い出しました。その気ならば、これより数日も早く奉天に立ち寄ることが可能だったのですが、一品頂戴の保証に拘って数日間もうろうろしていたのは、実は伊藤の奉天下車を待つための口実だったのではないか。そう解釈すれば、伊藤が予定を一日早めてハルビンに向かったのは、奉天周辺で待ち伏せしていたキッチナーをやり過ごすためとも推察されます。そこまで考えると、上田が奉天宮殿の古陶磁の話を持ち出したのも、あるいはキッチナーと示し合わせたものかもしれません。

何しろキッチナーは海洋勢力の中核たるイギリスの元帥で陸軍首脳です。伊藤ココツエフと日露間で何かの秘密協定を結べば、イギリスの世界政策ことにアジア戦略に大きな障害が生じます。キッチナーは偶然を装い、奉天駅で待ち受けて伊藤を一旦下車させ、何らかの交渉に及ぶ意向があったのではないかと疑われます。それを察した伊藤は急に日程を早めて、奉天でキッチナーをやり過ごしたのではないか。

ともかく、焼物を単なる美術品と観ては誤りで、政治に絡む運命の品もあり、その意味を知らねば歴史が判らなくなります。     

説明: C:\Users\ochiai\Desktop\新しいフォルダー\CCF20100305_00000 - コピー.jpg吉薗周蔵は、奉天で知り合った上田恭輔から、中国人の面子意識に発する財宝隠匿の習慣を教わりました。所蔵品を4ランクに分け、3等品はそこらに転がしておき惜しげもなく贈与品とする。2等品は日常から居間あたりに飾り、褒められたら即座に贈呈して相手との今後の関係に役立てる。1等品は客間に出し入れして、「敵の上使」の眼にちらりと触れるようにし、褒め言葉を誘発してから進呈するのは、言わずと知れた外交目的です。特等品とはいかなるものか、これは後述します。

「敵の上使」の語は近来滅多に使われませんが、来日の機会に北京に立ち寄っただけの英国元帥キッチナーは、大清帝国にとっては、正に「敵の上使」に当ります。 

両国には戦争状態はありませんが、文字通りの友好関係など国家間にはもともと有り得ません。当時の世界政治を譬えれば、英露清に独仏米日が混じっての世界麻雀大会で、自分以外は皆が敵で当然で、外国と敵国はほとんど同じ意味です。

それは現在も同じ状況ですが、友好とか友愛とか、甘い言葉で真実を見せないようにする陰湿な外交的風潮は、当時と比べて各段に強まりました。だからこそ今日では、「敵の上使」の語が奇異に映るのです。

北京での招宴で、愛新覚羅側はわざと「江豆紅合子」を卓上に置いてキッチナーの眼に触れさせ、一品頂戴の申し出を誘発しました。主人は僅か3歳の溥儀ですから、実際には実父醇親王の意向によるもので、双方が計算済みのやり取りです。

キッチナーが奉天宮殿磁器庫の見学を希望した以上、1品賜与は言わずとも当然の対応で、醇親王が許可を出すのに躊躇する筈はない。正に、このような時のために奉天宮殿にしまっておいたのが1等品なのです。太白尊が164件も在ったのはそのためで、台帳にはその内から「2件」を拠出したと記してあり、一対とはしていません。もともと対を成していないものを、一対が常識だと言い張ったキッチナーの巧みな駆け引きがうまくいったのでしょう。

説明: C:\Users\ochiai\Documents\Scanned Documents\Documents\peachbloom.jpeg処理に当った総督錫良と巡撫程徳全は、「敵の上使」の圧迫に歯噛みしたのかと思えば、そうではありません。ちゃっかり自分たちも便乗して「江豆紅八道碼瓶」と称する大物を2件せしめました。太白尊よりは遙かに価値の高い物で、キッチナーのゴリ押しのおかげで、両人は元帥よりも多く儲けたのです。

キッチナーの太白尊は元帥の死後のオークションで、4500ポンドで落札されたと、上田『支那陶磁雑談』に書いています。

現在の邦貨で4億円を超す高値ですが、細川護貞『怡園随筆』に拠れば、その後、2対ともパートリッジ氏の所有を経てワイドナー・コレクションに入り、現にアメリカのナショナルギャラリーの有に帰した、とあります。そう書きながら、細川護貞は、合子の方は、遺品の小品15点が一括して600ポンドでバーという独・中混血の人に渡り、やがてデヴィッド卿の手中に帰したとも言っています。どちらが本当か訳が分かりません。

左図はスイスのバウアー・コレクションの展覧会の図録にあるもので、上が「桃花紅太白尊」、下が「桃花紅合子」と命名されています。薄紅色の地に、それよりも濃い紅斑が散在しているもので、緑苔は見えません。紅色は、「豇豆紅」としては濃い紅色ですが、写真なので本当のところは判りません。

「桃花紅」は固より「豇豆紅」の特殊な一種の別名ですが、これを呼ぶにも基準があり、一つは細川家の「永青文庫」にあるような緑苔が派手にまじった手で、もう一つは遠山の桜に懸った霞のようは薄紅色です。バウアーのものは、写真の色の通りだと、そのどちらにも属しませんが、とにかく「桃花紅」と命名されています。因みに、奉天宮殿の磁器庫の台帳では、これらはすべて「江豆紅」と記されて居ります。

 

奉天宮殿は結局、皇帝使用か使臣・功臣に対する贈呈用の1等品と、そのほか2等品の置場だったようです。所蔵品は殆ど清朝初期三代の官窯品でありましたが、革命後の大正2年(1913)に北京紫禁城に移されて中央博物館の所管となり、さらに日中戦争が迫るや、国民党政権によって南京に、そして戦後になって台北に運ばれましたから、今は台北の国立故宮博物院に所蔵されています。

 

とすると、奉天北陵に隠されていた一群の古陶磁は何であったか。それこそ前述の特級品だったのです。特級品は公式的には存在しないものです。表向きには存在しないものを、「裏の存在」というのは、役所の裏金と同じ語法です。

上田によると、中国人の金持ちが本当の財宝を人に見せない理由は、見せれば褒められ、褒められれば惜しげもなく贈呈しなければなりません。さもないと吝嗇の謗りを受けて、人格を否定されるからです。少なくとも面子を失って、尊敬されなくなる。

だから、他人に渡したくない宝物は深く隠して、初めからその存在を表わさない。聞かれても、「そんなものないよ」とウソをつく方を選びます。面子を守るためのウソは、お互いに許しあうのが漢族社会だったようです。

また、「敵の上使」にしても、特等品を隠していたと聞くと、折角贈与された有難味が減じます。だから、普段から「1等品以上のものは何処にも存在せず、1等品が世の最高で、これを賜与することはまずない」という形にして置かねばなりません。そのためには、特等品の存在を最初から否定しておくことが、どうしても必要です。

奉天北陵の古陶磁は、乾隆皇帝が御宇の中期以後に、紫禁城から運んで隠匿した宝物の中にありました。この時、誰にも見せず誰にも賜与することのない裏の御物「奉天宝物」が成立し、その中核として「奉天古陶磁」が生まれました。それが日本へ渡ってきたのは大正13年(1924)でした。

このように、たかが焼物ですが、そのやり取りを見ただけでも、分かる人には政治も歴史も分かります。それが洞察史観なのです。

   平成23(2011)年9月6日改訂      落合莞爾