「キッチナー元帥と奉天宮殿磁器庫」のもう一つの見方
南郷美継(なんごうよしつぐ)

国立国会図書館アジア歴史センター所蔵の外交資料「清国革命動乱の際奉天宮殿宝物売却凡説一件」の中に、明治末年のころ、清朝の陪都奉天省(現・中華人民共和国遼寧省)の奉天宮殿(現・遼寧故宮)に数多くの清朝宝物があったことが記されている。
そこに記載された宝物の多さには言葉を失ってしまうものの、歴史として注目すべき点は、宝物目録の中に「内二件、宣統元年九月一三日に於て総督錫良・巡撫程徳全、倫旨を奉遵して英国元帥希基拉将軍に送る」(筆者が読み下した)及び「内・於宣統元年九月十三日・総督錫良・巡撫程徳全・奉遵倫旨・提出二件・送・英国元帥希基拉将軍」との記載があることである(・は筆者が加えた)。
この文章の謎解きは本会の落合莞爾氏によりすでに終了しているが、ここでは別の観点から行ってみる。まず文章の読み方であるが、総督錫(しゃく)良(りょう)は奉天総督の錫良で、巡撫程徳全とは奉天省総督の程徳全のことである。
英国元帥希基拉(キッチナー)将軍とは、もちろん後のイギリス陸軍大臣キッチナー元帥である。キッチナー元帥を最も有名にしたのは、第一次世界大戦下イギリス陸軍が新兵募集のために作成した「次は君だ」とするポスターであろう。このポスターにより、イギリスでは300万人が応募して入隊したとされている。
次に宣統元年は西暦一九〇九年・明治四二年である。そして九月十三日は新暦で一〇月二六日となる。即ち、「キッチナーは明治四二(一九〇九)年一〇月二六日に、奉天で清朝宝物四点を貰い受けた」ということになる。
明治四二年一〇月二六日は、もう一つの重大な事件と重なっている。この日は公爵伊藤博文が哈(ハ)爾(ル)浜(ピン)駅頭で安重根に暗殺された日でもある。その時の記録によれば、伊藤の亡骸は哈爾浜から大連に特別列車で移送されることとなり、その列車が奉天駅を通過する一〇月二七日午前一時に東三省総督錫良と巡撫程徳全及びキッチナー元帥の一行が、奉天駅に出向いて弔意を表している。
列車は同月二七日午前一〇時四〇分に大連に到着し、一旦「大和ホテル」に運び込まれて安置された。翌二八日午前一〇時に軍艦秋津(あきつ)洲(しま)に載せられて横須賀に向け帰国の途に就いた。
ここで奉天にいたキッチナーが伊藤の遺骸を乗せた列車を見送ったということは、偶然と云えば偶然である。しかし、日露戦争開戦の時まで時代を遡って考えると、また異なった関係が見えてくる。伊藤が哈爾浜を訪れた理由は、露(ロ)西亜(シア)帝国蔵相(兼筆頭閣僚)のウラジーミル・ココツェフと、満洲及び朝鮮問題について非公式に話し合うためとされているが、実は伊藤は日露戦争の前から露西亜と包括的な日露協商を結び、満洲と朝鮮問題の解決をはかろうと考えていた。
それに対して山縣有朋や桂太郎らは、露西亜との対立は不可避との判断から、明治三五(一九〇二)年一月三〇日に日英同盟を締結し、日露戦争へと進むことになったのである。


そのような日露戦争前の経緯があったことから、伊藤が哈爾浜を訪れた理由が、ココツェフと協商について協議することだったのは間違いないと思われる。では、何故に伊藤がこの時期に露西亜との協商を進めようとしたかであるが、それは明治四〇年の「帝国国防方針」の中で日本の仮想敵国が、陸軍が露西亜、海軍がアメリカと決まったことである。
そして陸軍の「整備要領」では、対露西亜戦のための所要兵力を平時二十五(戦時五十)個師団とし、明治四十(一九〇七)年度に二個師団を増設し、十九個師団とすることになった。
それと同時に海軍では、一九〇六(明治三九)年一二月にイギリスでは「ドレッドノート」(日本での略称「弩号」)という革新的な戦艦が建造されたことからそれまでの戦艦は一挙に陳腐化したことと、「帝国国防方針」で「……米国ノ海軍ニ対シ東洋ニ於テ攻勢ヲ取ルヲ度トス……東洋ニ在テ攻勢ヲ取トランカ為ニハ我海軍ハ常ニ最新式即チ最精鋭ナル一艦隊ヲ備へサルヘカラス……」としたことから日本も一等戦艦七隻・二等巡洋艦二隻等からなる総額約三億五二〇〇万円の八八艦隊の建造に着手した。
しかし、日露戦争後の日本は財政難で、たとい「帝国国防方針」で決定しても、とてもとても軍備増強を賄える財政事情にはなかったのである。
その辺の事情をよく知る伊藤が、もう一度日露協商を考えたとしても不思議ではない状況にあった。そして、もしも日露協商が成立した場合に、日本と露西亜間の満洲での対立は緩和されることから、必然的に日英同盟の存続も問題となることは十分に予想できたことである。
また、伊藤暗殺当日に奉天にいたキッチナーと満洲との関係であるが、これもまた日露戦争まで遡ることが出来る。たとえば日露戦争中の明治三八年一月五日に満洲軍総参謀長児玉源太郎の部下で大本営参謀部副官に就いていた中佐堀内文次郎は。参謀総長の命によりキッチナー卿と連絡を取り合っていた。
その時の大本営は、参謀総長が山縣有朋元帥、参謀次長が長岡外史少将という顔ぶれであった。その後、満洲では奉天会戦(明治三八年三月一日から十日)へと続くことになるが、奉天戦終了直後の同年三月二二日に長岡外史大本営陸軍参謀次長から児玉満洲軍総参謀長に上京の秘密命令がだされ、児玉と副官堀内文次郎は満洲から東京に向かうことになった。
そして同年四月七日に山縣参謀総長に命ぜられた堀内中佐は、講和開始を依頼する親書を杉山茂丸に届けることになった。
そして陸軍が日露講和に動き出した同年三月二二日は、日本海海戦(明治三八(一九〇五)年五月二七日から同月二八日)以前であることから、日本海海戦の勝利のいかんにかかわらず講和を進める心算であったということである。なお日露講和を開始した関係者として山縣・堀内・杉山らが満洲に向かう途中で撮った写真が右の写真である。
杉山に付いては、このHPの主催者「紀州文化振興会」に確認することが最も近道であるが、彼の人脈は山縣有朋、松方正義、井上馨、桂太郎、明石元二郎、児玉源太郎、後藤新平、寺内正毅に及んでいた。即ち、杉山らはキッチナーの人脈の中に位置づけられるということである。
最後に、安重根が伊藤暗殺に使用した拳銃は、「ベルギー製7.62oFNブローニングM1900」と謂われているが、これは護身用で、到底人体を貫通するだけの威力はない。
一説には伊藤に致命傷を与えたのは哈爾浜駅二階から撃ったフランス製騎兵銃の弾丸とされている。となれば、安重根は、わざと人目を惹き付けて二階から逸らすための囮役だったということになるが、真相はいまだ不明である。
その安重根が残した調書には、暗殺の理由として「一八六七年大日本明治天皇陛下父親大皇帝陛下弑殺の大逆不動の道の事。」と書かれている。
因みに、一八六七年とは慶応三年のことである。

平成25(2013)年2月11日
南郷(なんごう)美(よし)継(つぐ)(本会寄稿会員)