3・清朝宝物の運命(1)

3・清朝宝物的命运(1)

1、2では奉天宮殿の宝物に関するキッチナー元帥の逸話を紹介したが、ここでも政治権力と文物の関係の一端を述べる。国立国会図書館のアジア歴史センターに「清国革命動乱の際奉天宮殿宝物売却凡説一件」と題した一群の文書がある。最初は辛亥革命の二か月後の明治四十四年十二月二十日付のロンドンの山座圓次郎臨時代理大使から外務大臣内田康哉に宛てた電報で、内容は以下の通りである。

 

上个月了和奉天殿宝物有的希基拉元的一些逸事。今天继续讲讲政治利和文物系的一些故事。国立国会图书馆史中心有一套题为《清国革命乱之奉天殿宝物买卖一件》的料。最初的是辛亥革命的两个月后也就是明治四十四年十二月二十日敦的山座次郎临时代理大使大臣内田康哉的电报,内容是这样的:

 

@清朝が先月約四〇万ポンドの「宮室財宝」を売り出し、独亜正金・香港上海及び露亜の各銀行が買い取ったが、右はほんの一部に過ぎず、義和団事変の際、英米軍が監守してそのまま清国宮廷に引き渡した財宝は殆ど九百万ポンドに値した。

@清朝在上个月大约卖出了四十万英的“宝”,独正金・香港上海和露行参与了竞购仅仅是里面一小部分。事件的候,英美军队坚守下交清国廷的宝大九百万英

 

Aしかも、その後西太后が蓄積した財貨は莫大で、今後数年間外国借款の支払いに充てるに充分の余裕がある。現に今回売り出された砂金のごときは、一八七〇年代に広東省より北京へ貢いだものを三十年間も手を着けず、当時の封のままを渡したのである。

A而且,在那之后,西太后累了巨富。可以有充分的金去支付今后数年的外国借款。一次出的金砂是一八七零年代广进贡给北京的西。三十年都没有去用它。当是封着封条交的。

 

B右の財宝は勿論国家に属すべきもので、それは清国皇帝=清国政府だったからであるが、それだけでなく、従来の外国借款は元利支払いの全てを皇帝の上諭を以て保証しているから、当然その支払いに充てらるべきものである。

B右宝毋庸置疑是属于国家的。那就是清国皇帝=清国政府的西。不如此,以前的外国借款的本金和利息也因皇帝的旨全部予以保支付那些欠款的是非常充分的。

 

当時の金本位制で一ポンドは約一〇・六五円であるから、清室が十一月に売却した砂金は邦貨四百二十六万円に当たり、現代の物価では四百億円を超す。一九〇〇年の北清事変の際に、英米軍が守って清室に引き渡した財宝の価値たるや邦貨にして九千五百万円、現価で一兆円に近い巨額であった。革命により大清帝国は崩壊したから、政体が作った借款(国債)の弁済を債権者は懸念したが、清国は皇帝=国家であって皇帝が借款を保証していたから、皇室財産による代位弁済は充分可能であった。その事を山座大使は外相に報告したのである。

 

的金本位制度下,一英镑约等于十点六五日元,所以清皇室在十一月掉的砂金相当于当日日元四百二十六万元。算成在的物价超了四百亿日元。一九〇〇年北清,英美军队下交清皇室的宝价日元九千五百万,价是接近一兆日元的巨额资金。因革命致大清帝国的动荡,政府借款(国)的偿还对债权人来就有了忧虑。清国皇帝=国家借款做了保,皇室财产为偿还是完全有可能的。座大使将些向外大臣做了告。

 

明治四十五年一月六日、奉天総領事落合謙太郎内田外相に「奉天宮殿ニ於ケル寶物ニ関スル件」を報告した。「北京政府ハ過般、当奉天ノ宮殿ニ保存シアル諸種ノ宝物ヲ調査シ、至急報告スヘキ旨、趙総督ニ命令シ来リタルハ事実ト認メラルル」も、「右ハ売却セムカ為ノ調査ナルヤ、将又整理ノ為ナルヤハ、世上斉シク疑問ト為シツツアリシ」が、「当館警察署員ノ探知スル処ニヨレバ、右調査ハ全ク売却セムカ為ニシテ、該宝物ノ購入ニ関シ清国人ハ勿論、殊ニ近来諸外国人ノ競争ガ甚ダ熾烈」で、中でも「英国人某ノ如キ目下各方面ニ盛ニ運動を試ミツツアリ」との内容である。

 

明治四十五年一月六日,奉天总领事落合太郎向内田外相做了题为于奉天殿中放置的相宝物的事》的告。内容是这样的:“最近北京政府急命令赵总殿保存的各宝物做了调查。右调查结果是了出售整理各方有怀疑。”但是“根据该馆的警察的可以确侧调查中的所有宝物都是用来贩卖的。不是清国人,近来很多外国人都相争。”其中有“某英国人眼下正调动各方面力量极参与争

 

次いで一月十七日、落合総領事内田外相に宛てて「宮殿ニ於ケル宝物調査ニ関スル件」を報告した。要約すると「趙総督は先般北京政府より宮殿在庫宝物の調査の内命を受け、総督公署内政科に於いて衛兵十五名が警戒する中で其の品目・価格等の調査を急いでいる。書籍は既に調査を終了し、目下は諸器物を調査中である。調査官の言では、宝物中で最も価値のあるのは書籍で、低く観ても千二百万両の価値がある。その他の器物・金銀宝石等は調査未了なるも、約一千万両の価値があるとのこと。調査の目的を聞くと、単に例年の調査に過ぎないと云うが、実は売却のための調査らしい。先般清国官憲が外人に鑑定させたら三千万両の価値があることが判明したと各新聞紙上に報道するのは事実無根で、清国当事者は秘密裏に宝物の調査を行っている」となる。

 

之后一月十七日,落合总领事又向内田外相做了《殿内放置的宝物调查》的告。简单赵总督早先接受了北京政府对宫殿在宝物调查的命令。在督公署内政科的十五名兵的警戒下其中的品目和价格做了调查籍的调查经结束,当前正在器物的调查。根据调查官的,宝物中最有价的当属各种书籍,最少也要一千两百万两。其他的器物和金珠宝调查之中,大一千万两。据称调查的目的仅仅年例行的调查,但是事上可能是了去变卖。早前各种报纸道清国官方外人定被判断三千万两是没有事根据的。清国当局正在秘密的宝物调查

 

銀一両(テール)は邦貨一・六円に相当し、一千万両は現在の邦貨千六百億円にも及ぶ。落合総領事は早速、東三省総督趙爾巽に会見して風説の真偽を確かめた処、総督は一応否定したが、一月二十三日に至り秘書官を遣わして落合総領事に伝言させた。「実は、北京政府の内命により、当地の宮殿に在る陶器類だけ成るべく一括して売却したいので、希望の向きには内覧させる。尤も売買の決定は北京政府が行う。また、この話は内うちの事である」と。この知らせは同日、第四〇号の電報で内田外相に届く。日本政府は、宝物の中でも特に陶器類に関心を寄せたと見え、内田外相は二十六日落合総領事に対し、「貴電第四〇号ノ陶器類ハ大体価格何程ナルヘキヤ電報アレ」との第四二号電を発した。これに対し落合総領事は、「貴電第四二号に関し、陶器類の価格は判明せず。試みに交渉使に見積りを問いたるも、分り難しと答たり。二十三日来英仏独人等、該陶器を見物に来るもの多し。交渉使に聞けば未だ売買を話し入りたるものなしとのこと。並に、交渉使より陶器及び銅器の目録を得たるに付、早便を以て郵送すべし。銅器及び書籍も、或は売却の意あるにあらずやと思わるる事実あり」と返電してきた。交渉使の名は明らかでないが、東三省総督趙爾巽の幕僚であろう。

 

一两相当于当一点六日元,折合成在的货币达到了一千六百亿日元。落合总领事立刻会三省赵尔巽以确认传言的真此表示否,但是到了一月二十三日落合总领:“实际上我接受了北京政府的密令,当地殿所有的陶最好能全部变卖。因过调查有个数。最决定是否变卖是北京政府。另外,此不宜外个消息于当日被以第四十号电报的形式了内田外相。日本政府看起来其中的陶器趣。内田外相在二十六日向落合总领了第四十二号内容是:“贵电第四十号于陶器的大体价格是多少告知。”于此电报,落合总领事回称:“贵电第四十二号,陶瓷器的价格没有明确。曾试图问使价,但是据称以回答。二十三日英法コ等国人来参陶瓷器的很多。交使说还没有买卖话题。另外,交使做好了陶瓷器和器的目。我会以快件您。看起来似乎变卖铜器和籍的意思。”交使的名字并不明确,但想来是三省赵尔巽的幕僚吧。

 

落合がこの時、早便で外相に送った目録は、先月稿で上田恭輔が「偶然そのコピーを入手した」と述べたのと同じもので、款銘別に分け漢式名称の品目が並ぶ。数量は康煕款だけで百三十四類・個数は三四、六六七件に及ぶが、その中に上田キッチナー元帥に話した「黄南京の丼一、九四四件」も「黄釉大海碗百件、黄釉中碗一、八四四件」として確かに記されている。

落合候快件寄外相的目和上月稿中所的上田恭“偶然得到了的印件”是同西。根据款写着式的名称。数量上光康熙款就有一百三十四,个数三万四千六百六十七个。其中上田跟希基拉的“黄南京的丼一、九四四件”和“黄釉大海碗百件、黄釉中碗一、八四四件”也确记录在其中。

 

先月稿のテーマの「江豆紅太白尊」と「江豆紅八道碼瓶」も記載があり、その両方に「内於宣統元年九月十三日総督・巡撫奉諭旨提出二件、送英国元帥希基拉致将軍」の但書が確かにある。目録の内容は康煕・雍正・乾隆の款銘品が各三万件を超え、嘉慶款は少なく、他に無款品と明代の青花品がごく僅かにあり、合計では十万件を超す。陶器目録の他に銅器目録があり、商・周・漢併せて青銅器は数百件に及ぶ。

 

上月稿件中题为“江豆太白尊”和“江豆八道瓶”也有记载两件也都确写着“内于宣元年九月十三日程奉旨提出两件、送英国元希基拉致将”。的内容上康熙、雍正、乾隆款品各超三万件。嘉款比少,有极少量的无款品和明代的青花品。合十万件。除了陶瓷器目器目商・周・器达到数百件。

 

明治四十五年二月九日、内田外相は「四庫全書売却ノ風聞アリ、若シ事実ナルニ於テハ、其筋ニ於テ購入ノ希望アルニ付、事実ノ真偽及ビ値段返電アレ」との第六八号電を発した。「其筋」とはおそらく皇室である。これに対し落合は、交渉使を通じて先方の意向を聞き、「『四庫全書』は多分売却しない。陶器と銅器は売却することに決したが、南方から反対を伝えてきたので、どうなるか解らない」との答を得て、二月十五日付で返電した。

 

明治四十五年二月九日,内田外相了第六十八号电报:“风闻《四》将要被变卖如果是事,他希望入。电说明事的真假和价格。”其中的“他”恐怕是指的我国(日本)皇室吧。电报,落合通打听了方的意向。并于二月十五日回电报称:“《四应该不会被变卖然已决定变卖陶瓷器和器,但是因来很大的反之声,事情到底会如何展目前尚不明朗。

 

辛亥革命により共和政に移行した清国は、この年一月一日を以て国名を中華民国と定め、年号を民国元年と称した。孫文が南京で臨時大総統に就任したが、行政の実権は清朝末期以来北洋軍閥が支配する北京政府にあった。二月十二日を以て宣統皇帝が退位し、満洲族の帝政は崩壊したが、奉天の文武官僚は、趙総督以下清朝の旧臣がそのまま革命新政府の官僚に横滑りした。「四庫全書」と陶器・銅器の売却に関する方針とは、北京政府の方針で、清室の意向も斟酌しているから、革命派の南方政府が異議を唱えたのである。

 

辛亥革命之后清朝转为共和政体。当年一月一日起改国名民国。年号改民国元年。中山在南京就任了临时总统,但是行政的实权还是在清朝末年以来由北洋军阀支配的北京政府手里。二月十二日,宣皇帝退位。洲族政权结束。奉天的文武百官从赵总以下全部从清朝旧臣身一革命新政府的官僚。《四》和陶瓷器、器的变卖事,北京政府清皇室的意向也有所考,革命派的南方政府提出了反

 

革命直後、新生中華民国の政権が今後どう転ぶか予断を許さない中で、莫大な価値の奉天宮殿宝物の帰趨は、満州皇室と民国政府だけでなく列強の関心を惹きつけたが、結局、この後二年間は動かなかった。民国の政権は大正(=民国)二年二月の総選挙における国民党の圧勝をよそに、北洋軍閥の袁世凱に帰したので、これを不服とする革命派は七月に第二革命が起こすが、直ちに失敗して孫文は台湾に亡命する。この動きは奉天宮殿の宝物にも及び、大総統袁世凱の意向を受けた北京政府の国務総理熊希齢が、熱河避暑山荘と奉天宮殿の所蔵宝物の北京移動を命令したのである。

 

革命刚刚结束,新生的中民国政今后会走向何方很难预测。其中,有巨大价奉天宝物的属,不引起了洲皇室和民国政府的争斗,引起了列趣。果,之后两年都原封不。民国政在大正(=民国)二年二月的总选举中尽管国民党取得了性的利,但是政回到了北洋军阀的袁世手中。此不的革命派在七月掀起了二次革命的浪潮。很快就失中山逃亡台湾。变动也影响到了奉天殿的宝物。接受了大总统袁世授意的北京政府国务总理熊希命令将奉天殿所藏宝物移到北京。

 

関東都督府司令部付で満鉄奉天公所長を兼ねる佐藤安之助中佐は、大正(=民国)三年三月十一日付の電報を以て、参謀総長長谷川好道大将に以下の報告をした。「奉天宮殿宝物の北京輸送に関し、多分その一部は奉天に残すものと地元は期待していたが、実際にはすべてを北京に運び、将来一点たりとも奉天に残さない事に決定したとの噂に、地元の官民が北京政府の暴挙として憤慨している」と。

 

关东都督府司令部所属兼满铁奉天公所所的佐藤安之助中校在大正(民国)三年三月十一日的电报里,谋总长长谷川好道大将做了如下的告:“于奉天殿宝物向北京移一事,地方上一直期待着应该多少会留下一部分在奉天。但是实际上据会全部向北京移,以后一点也不会留在奉天。此,地方上的官民北京政府婪行表示了慨。

 

帝政復帰を図る袁世凱が、新皇室を建てて洪憲皇帝に就き、清室の財宝を引き継ごうと謀った。しかし満洲族の旗挙げの地奉天は、大清帝国の陪都として三百年間奉天府と呼ばれ、住民は清室から農地を賜った満洲族が多く天領民の気風があった。辛亥革命後も実質的に清朝支配が続き、奉天都督張錫鑾以下清朝の旧臣であったため、奉天の官民は、漢族主体の北京政府が満州族の愛着する奉天宝物を根こそぎ奪い去るのを是としなかったのである。奉天の軍権を実質的に掌握していた馬賊上がりの漢族張作霖は革命反対・清朝存続を唱えたが、この北京政府命令には従った。かくして奉天宮殿と熱河避暑山荘の清室宝物は、悉く紫禁城に遷され、武英殿を含めた外朝の一角に新設された「古物陳列所」に展観された。「四庫全書」も北京へ運ばれ、結局、日本政府も皇室も望むものを購入できなかった。

 

图复辟帝制的袁世凯组建了新的皇室,就任了洪皇帝,并图谋继承清朝皇室的宝。但是洲族旗的奉天,作清帝国陪都三百年被称奉天府,当地居民都是从清朝皇室得到赏赐农田的洲天民。辛亥革命后实质是受到清朝的支配,奉天都督张锡銮以下都是清朝的旧臣。所以,作为满族主体的北京政府要把洲族深的奉天宝物全部走一事无如何无法同。实质上控制奉天军权的原马贼族人作霖就提出反命,清朝存的口号,但是是遵循了北京政府一命令。偷偷的将奉天殿和河避暑山庄的清代宝物全部移到紫禁城。在包含武英殿在内的外朝的一角新了“古物成列所”来展示。《四》也被运往北京。果日本政府和皇室都没有能如愿购买到他

 

「大日本窯業協会雑誌」三四四号に、大正九年十二月の小森忍の論説「昌徳宮と武英殿の古陶瓷器」を掲載する。曰く「武英殿の古陶器は、実に其の数、数千を数ふべく、陳列諸宝器の冠たるものであろう。まづ後周の柴窯より、宋の粉定、均窯、龍泉窯、哥窯、汝窯あり、元均窯あり」と列挙し、続けて「明末、嘉靖、萬暦の五彩あり、宣徳、成化の霽紅あり・・・その他明清朝に於ける・・・研麗眼を奪うの彩磁が又雑然と並んでいる」とあるが、前に観たように、奉天宮殿の陶磁目録に明代彩磁は一件もないから、これらはすべて熱河避暑山荘のものである。熱河は皇族が毎年夏を過ごす建物であるから、小森の挙げた宋定窯・宋均窯・龍泉窯・哥窯・汝窯や明代の五彩・霽紅などは、室内を飾る装飾品か秘蔵を目的に収蔵されていた品である。これに比し奉天宮殿は実質的には倉庫で、清初三代の款銘品を主に貯蔵していたが品目的にはかなり偏っていた。

 

《大日本窑业协志》三四四号在大正九年十二月登了小森忍的文《昌コ和武英殿的古陶瓷器》。里面这样写道:“武英殿的古陶瓷器究其数,达到了数千。列的都是诸类器物的楚。从后周的柴窑始,宋代的粉定、窑、泉窑、哥窑、汝窑、以及元代的窑”。然后还说:“有明末、嘉靖、万的五彩,宣コ、成化的霁红……有其他明清代的……人眼球的彩瓷也并列其中”。如同前文所,奉天殿的陶瓷器目里面明代彩瓷一件也没有。所以全部都应该河避暑山庄的西。河是年皇族度夏的建筑,所以小森的宋代定窑、宋代窑、泉窑、哥窑、汝窑和明代五彩、霁红类应该都是以室内装的目的收藏在内的物品。与其相比,奉天殿实质上是个仓库收藏清楚三代的款

是相当偏于一面的。

 

革命により民国政府に譲与された紫禁城は外朝と内廷に別れていた。儀式の場であった外朝は革命直後に民国政府に明け渡されたが、生活の場の内廷には宣統帝溥儀が民国十三年までそのまま住み、皇帝の称号と宣統の年号を保持し、独自の廷臣と千二百名の衛兵を従えつつ、経費を清室財産から支弁していた。すなわち溥儀は清国の皇帝を退位したが、満州族及び蒙古族にとってはいまだ皇帝であった。民国政府は、領土の真中に居住する溥儀を遜帝(引退した皇帝)と呼び外国君主として扱ったのは、一応の理に適っていた。

 

革命后与民国政府的紫禁城被分成外朝和内廷。作为仪所的外朝在革命之后就被了民国政府。作生活的内廷宣皇帝溥一直住到民国十三年,有独立的廷臣和一千两百名的兵跟随。经费则有清皇室财产支付。也就是,溥仪虽然作清帝国的皇帝已退位了,但是依然是洲族和蒙古族的皇帝。民国政府把居住在土中央的溥为逊帝(引退的皇帝),就像待外国君主一样对待他。看起来也是符合礼的。

 

民国十三(一九二四)年十一月五日、「国民軍」を率いる西北のクリスチャン将軍馮玉祥がクーデタにより北京に入り、溥儀の退去を強請した。「政変ごとに帝政復活の動きがあり、共和政の体制に有害」との理由を掲げたが、「事実は馮玉祥が清朝の財宝を奪って換金するのが目的であった」(古野直也『張家三代の興亡』)。この後、内廷の文物の大部分は政府に没収され、故宮博物院の収蔵となり、奉天宝物とともに台湾に移った。革命後に千二百万両(現在の物価で二千億円)と言われた『四庫全書』は奉天(瀋陽)に返さず、甘粛省博物館に在る。

 

民国十三年(一九二四年)十一月五日,率“国民”的西北基督教将军冯玉祥引变进北京,行要求溥退位。理由是“政往往都有辟帝政的迹象,共和体制有害”。但是“事上,玉祥是以取清朝目的。”(古野直也《家三代的亡》)。之后,内廷的文物大部分被政府没收,收藏与故博物院,和奉天宝物一起被移到台湾。革命后据称价一千两百万两(在的价格是两千亿日元)的《四》被归还奉天(沈阳),在藏于甘博物

 

中華人民共和国が清室文物に拘るのは文物保護策ではなく、多民族国家大清帝国の全版図を承継するには、清室文物を承継しなければならぬとの意識からである。

 

人民共和国纠结于清皇室文物的并非文物保政策,而是承了多民族国家大清帝国全部版的国家也必然应该继承清皇室的所有文物一意

 

  平成23(2011)95

                      落合莞爾