(回答)ご質問の光圀の護符発行許可に関する資格については未詳ですが・・・・・・

 

牛王宝印は、近来社家では「牛黄宝印」とこじつけていますが、これはまずウソで、「牛王」あるいは「牛玉」でなくてはなりません。

天河弁天社のHPに拠れば、熊野・伊勢・京都八坂神社、高野山、東大寺、法隆寺等も有しておりましたが、中でも天河社・伊勢神宮・熊野本宮が「三大牛王神事」とされていましたとある。

弁天はオリエント多神教の水の女神イナンナが東南アジア各地で航海神として普及したもので、道教では「観音」または「南海古仏」、海南島では「媽祖」として知られ、日本では縄文海民の「弁天」と呼ばれ、神話では「宗像三女神」のうちの「イツキ姫命」とされました。

そこで顧みれば、伊勢神宮はご存じアマベ氏のホアカリを祀る元伊勢「籠神社」が女性型として発展したものであり、八坂は明らかにバアル神スサノヲを祭り、高野山の開山空海はアマベ一族ですなわち籠神社の分派であり、法隆寺の創建者聖徳太子はよく分からぬがおそらく蘇我氏の系統で、アマベ氏に繋がっている可能性がある。

こうしてみると、アマベ氏の後裔尾張氏の熱田神宮だけが牛王印を売らなかったらしいのは一見不審だが、アマベの主神のホアカリ(太陽神ミトラ)を公証ビジネスに持ち出すのは勿体ないので、公証人的誓約神としてシュメール多神教のうちのバアル神を持ち出したものでしょう。

光圀公はおそらく、上記バアルを牛王神と知悉した上で、陰陽神社に護符発行権を与えたものと愚考します。公証ビジネスの特許を与えたのは領主の権限ではないかとも思います。

 

  紀州南朝世代不明   狸宮

 

(質問)

義公は元禄4年に「陰陽山牛玉」と書いて別当の南蔵院祐永に下され、祐永はこれを木版にて護符を刷っています。そもそも牛玉宝印は熊野山などの社寺から頒布されている厄除け護符です。

・・・とすると 単純な疑問が生じました。神官でも僧職でもない光圀公は、いかなる資格が有りて?護符を書いて下すことが可能であったのか

あるいは そのような資格を既に得ていたのか? 教えてください。