『会津戊辰戦史』が暴いたウラ天皇の存在


旧会津藩士山川浩・健次郎兄弟の合作による『京都守護職始末』という史書があります。
明治三十年の孝明天皇三十年祭を機に、山川浩・健次郎の兄弟が相談し、兄の浩が執筆を始めた書物ですが、翌年に浩が急逝したため、その後を健次郎が引き継いで執筆したので実質的著者は山川健次郎です。
山川健次郎(一八五四~一九三一)は家禄一千石の会津藩家老山川重固の三男に生れ、会津の少年藩士が組織した白虎隊の隊員でした。兄が陸軍少将男爵の山川浩(一八四五~九八)で、妹に元帥陸軍大将公爵大山巌の後妻となった大山捨松がいます。
明治四(一八七一)年に斗南藩の国費留学生としてアメリカ留学を命じられた健次郎は、岩倉使節団に随行して渡米し、同八(一八七五)年にイエール大学で物理学の学位を得て帰国し、同十二年に東京帝国大学で邦人初の物理学教授となり、同二十一年に理学博士、同三十四年には東京帝国大学総長となりました。その後東大総長を再任し、九州・京都帝大の総長を歴任した功績で、大正四(一九一五)年に男爵に叙された山川健次郎は、まさに明治日本を代表する教育者です。
健次郎の兄山川浩は文久二(一八六二)年、京都守護職に任じた藩主松平容保について上洛した後、慶応二(一八六六)年に幕命により、箱館奉行小出秀実が率いる遣露使節団に加わり、欧州諸国を見聞して世界の大勢を知り、攘夷の非を覚って慶応三年五月に帰国しました。
山川浩の遣露使節団への参加は、当時の國體(ウラ)天皇が堀川政略に沿って謀った、本人に告げずに実施した人材養成策と看るべきで、五年後の健次郎のアメリカ留学も同様と思われます。これを決めた國體(ウラ)天皇は、山川浩の場合は前伏見殿禅楽親王で、山川健次郎の場合はおそらく魔王朝彦親王か山階宮晃親王と考えられます。
戊辰戦争で谷干城の率いる土佐藩軍と戦った山川浩は善戦するも敗れ、新政府から禁固・謹慎に処せられますが、赦免後の明治三年会津から下北半島に移封された斗南藩で大参事に就き、困窮を極めた藩政に当ります。
廃藩置県により斗南藩が青森県に吸収されたので、横滑りで青森県出仕となった浩は、会津戦争における奮戦を高く評価する敵将谷干城の推薦を受け、明治六(一八七三)年に八等出仕(大尉格)として陸軍に入り、同年に熊本鎮台司令長官谷干城少将の配下で七等官の少佐となり、翌七年二月の佐賀の乱で重傷を負いますが、四月二十一日を以て六等官の中佐に進級します。
同十年の西南戦争で別働第二旅団に属した山川浩中佐は、薩摩軍に囲まれて孤立した熊本鎮台の救援に挺身し熊本城の一番乗りで知られますが、この時に詠んだのが、下の歌です。
薩摩人 みよや東(あずま)の丈夫(ますらお)が 提(さ)げ佩(は)く太刀は 利きか鈍きか   浩
 
戊辰戦で負けたため賊軍とされた会津藩の雪辱を、西郷隆盛率いる薩摩兵に向けて詠んだ山川浩と弟の健次郎は、皮肉にも明治十六年に薩摩閥の巨頭陸軍卿大山巌の義兄になります。アメリカ留学帰りの妹の捨松が巌の後妻になったからです。

準発禁本『京都守護職始末』と『会津戊辰戦史』
山川健次郎が著した『京都守護職始末』の原稿をたまたま見たのが、旧土佐藩上士の谷干城と旧長州藩陪臣の三浦梧楼でした。維新の功で陸軍中将となり、子爵に叙せられて政界に転出していた両人は、原稿だけでなくその内容を裏付ける孝明天皇の松平容保宛宸翰を見せられ、これが世に出ると自分たちが関わった明治維新の真相が暴露されると覚り、驚愕します。
『京都守護職始末』の語る「明治維新の真相」とは、「落合秘史シリーズ」がこれまで明らかにしてきた「堀川政略」のごく一部に過ぎません。会津藩士が直接体験したことだけ率直に語ったものですが、これが明らかになっただけでも薩・長・土藩による尊王運動が明治維新を成就したとする「薩長土史観」が転覆してしまうのです。
土佐藩上士出身の宮内大臣伯爵土方久元は、谷と三浦を通じてこの著を知り、財政難に苦しんでいた会津松平家の支援のための下賜金を宮中から下す代わりに、『京都守護職始末』の出版を当分見合わせるよう、三浦を通じて健次郎に申し出ます。この準発禁処分を承知して出版を見合わせた健次郎は、同四十四年に至り、故山川浩の遺著として同著を出版し、会津藩士と関係者のみに配布しました。
これとは別に、今日古書肆の間で高価な稀少本として知られる史書があります。『京都守護職始末』の実質著者の山川健次郎が監修者の形で著した『会津戊辰戦史』で、大政奉還以後戊辰戦争に至るまでの、朝幕および雄藩の事情を諸資料に基づいて克明に追ったものです。この著も、視野は会津藩とその周辺に限られていますが、内容は稠密且つ厳正で、渋沢栄一『徳川慶喜公伝』にも劣らぬ史料価値があると言って過言ではありません。その緒言は下記の如きものです。
本書は『会津戊辰戦史』と題し、慶應三年十月大政奉還より筆を執れり。是れ会津藩に關(けん)する維新前の事跡は、郷人男爵山川浩氏の筆に成る『京都守護職始末』に詳記せるを以ってなり。

 緒言で明らかなように、『会津戊辰戦史』の内容は『京都守護職始末』に続くものですが、その中で、王政復古の号令について下記のように述べています。
     また勅して弾正尹朝彦親王を始めとし、摂政二条斉敬、左大臣九条道孝、右大臣大炊御門家信、前関白前左大臣近衛忠凞、前関白前右大臣鷹司輔凞、前左大臣近衛忠房、前右大臣徳大寺公純、前右大臣一条実良、内大臣広幡忠礼、大納言日野資宗、同飛鳥井雅典、同柳原光愛、同葉室長順、同広橋胤保、中納言中院通富、同六条有容、同野宮定功、前宰相中将久世通凞、大蔵卿豊岡隨資、治部卿倉橋泰聡、宮内卿池尻胤房、刑部卿錦織久隆、三位伏原宣諭、右京大夫堤哲長、左京大夫交野時萬、中将裏辻公愛の諸公卿の参朝を停め謹慎を命ず、まさしく新政を喜ばざる疑いあるが為なりという、これにおいて廟堂の上公武合体派の影を止めず、実権は全く岩倉具視朝臣等の手に帰したり、
 
  この著は一親王及び二十六公家の合計二十七名を挙げ、奇兵隊天皇の朝廷が彼らに下した各種処分を一まとめにして、「参朝を停め謹慎を命ず」としています。その理由を、「まさしく新政を喜ばざる疑いあるが為なりという」というのは、要するに「これら全員が維新新政に内心反対している疑いがあるから」というのです。その後に、「これにおいて廟堂の上、公武合体派の影を止めず」と書き加えたのは、公卿たちの中で公武合体派と見られた全員が参朝停止ないし謹慎処分を受けたという意味です。
ところが、その処分を受けた公家の中に、四か月後に立場が一転して参与兼権輔に抜擢された者がいました。

   『明治史要』と『会津戊辰戦史』の相異点
  『会津戊辰戦史』は本来、『明治史要』慶応三年十二月九日条と内容において完全に一致すべき筈ですが、下記に見るように異なる箇所が二点あります。第一は表現の違いです。『明治史要』は合計二十九名を、処分の差異によって下記の五組に分けています。
A・罷免組(将軍慶喜及び中院・倉橋・池尻・錦織・交野の六名)
B・罷免且つ朝参停止組(朝彦親王及び二条・九条・大炊御門・近衛忠煕・近衛忠房・鷹司・一条・廣幡・徳大寺・柳原・葉室・日野・飛鳥井の十四名)
C・朝参停止組(広橋・六条・野宮・久世の四名)
D・謹慎組(豊岡・伏原・裏辻の三名)
E・罷免帰藩組(会津・桑名の二名)
  以上合計で二十九名ですが、『会津戊辰戦史』が挙げた処分者がこれより二名少ない理由は、幕府方の三名すなわち将軍慶喜・会津容保・桑名定敬を除いているからです。この三侯をリストから除いたのは分類上の扱いに過ぎず、実際は逆に、『会津戊辰戦史』に名があるのに『明治史要』にはない公家が一名いるのです。その一名とは、正三位右兵衛頭堤哲長です。
『明治史要』は政府の正式機関の修史館が編纂したもので、ことに慶応三年十二月九日条は、世上で「王政復古の号令」と呼ばれる天下周知の重大事ですから、記載の誤りなぞ有りようもありません。
他方、『会津戊辰戦争史』は、監修者の山川健次郎が事実上の編者とされています。健次郎は専業史家ではないものの明治期を代表する教育者で、「王政復古の大号令」の解説に際し表現上の彩りを施しはても、内容を変改ないし捏造するような浅墓な行為はあり得ません。とすると、両書の処分者リストの違いは編集時期の違いから生じたと考えられます。つまり、史実としては、王政復古に際し堤哲長に何らかの処分が下されたことは間違いなさそうです。
  十二月九日の処分者リストの中に堤哲長の名を記した原典が当時どこかにあり、それを閲覧した山川健次郎がその内容を写し、『会津戊辰戦史』に堤哲長の名を掲げたと観るしかありません。
ところが、堤哲長に関する処分が早急に取り消され、処分そのものが当初からなかったと看做す取扱いとされたため、『明治史要』には哲長の名がないのです。堤哲長が一旦受けた処分がいかなるものだったかは、『会津戊辰戦史』が処分者を一括して「参朝を停め謹慎を命ず」としまったことから、今も不明です。

堀川御所に秘かに出仕した堤哲長
王政復古に際して堤哲長に一旦下された処分は、その子の松ヶ崎萬長に堂上家を創立させる孝明天皇の遺詔と密接に関連していることは容易に推察されますから、以下その所以を究明していきます。
まず慶応二年末に天然痘で急逝した(とされる)孝明天皇が、遺詔を以て「堤哲長の次男萬長を堂上に班するよう」に命じたとされること自体、最期の御病状に照らす奇異に感じられます。理由の判然としないこの遺詔が史家の憶測を呼び、「萬長は孝明の隠し子であった」とする説さえありますが、下衆の勘繰りで、とうてい首肯できません。公金で養われる学校史家が、揃いもそろって井戸端会議的な史実探究しかできないのは、真実情けないというしかありません。
孝明天皇が“崩御”された慶応二年十二月二十五日から半月後の正月九日に長州藩奇兵隊士大室寅之祐が践祚して新天皇になりますが、新朝廷はとくに新方針を出さないま、十カ月余りを経過しました。孝明の”崩御”から大政奉還までの約十カ月、奇兵隊天皇の朝廷は目立つ動きを慎んでいた理由は、國體(うら)天皇との関係です。
大政奉還を受けた朝廷が、孝明天皇から勅勘を受けたままの公家衆を宥免したのが十二月八日で、九日には孝明側近に参朝停止ないし謹慎の処分を下します。この朝廷人事が奇兵隊天皇の践祚後十カ月も経ってから行なわれたのは、その機会を待っていたからで、その機会とは大政奉還や王政復古でなく、國體(ウラ)天皇の許可です。
これに先立つ十一月二十四日、当時朝廷を仕切っていた中山・正親町三条・中御門の公卿トリオは、孝明の遺詔として哲長の次男萬長に新堂上家を興させました。この遺詔は哲長の薨去を前提とするもので、堤哲長に向けられていたのです。つまり、「そなたの子息萬長に堤家と同じ家禄の新家を興させるから、そなたは堤の家を甘露寺に返し、堀川御所へ入って朕を支えてたもれ」という國體(うら)天皇の勅命だったのです。(慶応二年十二月の孝明天皇の崩御が偽装で、実は本圀寺境内の堀川御所に入った経緯と詳細は、拙著『明治維新の極秘計画』をお読み頂くとして、本稿では省略します)。
堤哲長は先帝孝明より四歳年上で、孝明の最側近として幕末の朝廷で実質侍従長を勤めていました。先帝の傍を片時も離れることのできない立場だったので、先帝が堀川御所に入って國體(ウラ)天皇となった後にも、輔佐を命じられたのです。
堀川御所ではその準備として、甘露寺分流堤家から当主の哲長を切り離します。すなわち、本家甘露寺から養子を迎えた哲長が堤の家督を本家に返還する一方、哲長の次男萬長が新たに堂上松ヶ崎家を創立したことで埋め合わせとしたのです。

松ヶ崎萬長は波動・幾何系シャーマン
後世に残る史実の確証として典型的なものは、何と言っても人事記録で、公的明治史は慶応三年十一月十四日の慶喜の征夷大将軍の辞表呈出を以て始まります。慶喜の将軍辞任は予定通りですが、『明治史要』の同日条に記された「甘露寺萬長ヲ堂上ニ班シテ松ヶ崎氏ヲ称セシム」という取るに足りない一文が、大政奉還と同時に進行しつつある「堀川政略」の一工程を暗示しているのです。
公的な明治史の開幕が慶喜の将軍辞職なら、ウラ明治史の嚆矢は「甘露寺萬長に家禄三十石三人扶持を賜り、新しく堂上に任じた」ことです。禄高四百五十万石の徳川将軍家の辞表と、家禄三十石三人扶持の貧乏公家の創立が対応しているのが象徴的です。
ここで、当時の武士と公家の家禄について簡単に説明します。武士や公家の家禄には「知行」と「俸禄」があり、上級武士および公卿の家禄の形態は「知行」で、采邑といわれる知行地の徴税権を与えられます。下級武士の下士・卒族および下級公家の平堂上・諸大夫の場合は「俸禄」で、その家に給される「禄」と職務給の「俸」とを併せて家禄と表現します。三十石三人扶持といえば、一人扶持が一日に付き玄米五合の三百六十日分で一・八石となる計算で、三人扶持は五・四石ですから、〆て三十五・四石となります。そのような貧乏公家の誕生と、四百五十万石の天下人の去就が匹敵する歴史的な意味を、以下に明らかにしていきます。
『明治史要』が「左中弁甘露寺勝長の義子」と記す萬長は、堤哲長の次男として安政六(一八五九)年十月に生まれました。予め本家甘露寺家の養子にされた九歳の萬長は、実父哲長と同等の家禄・扶持および松ヶ崎の姓を賜り新たに堂上家を興します。この優渥な恩典を孝明天皇の遺詔としたのは、例の公家トリオが奇兵隊天皇の周辺公家の目をかすめたものと考えられます。
明治四(一八七一)年十三歳で岩倉使節団に加わった松ヶ崎萬長は、そのままプロイセンに留学し、ベルリン工科大学のヘルマン・エンデの下で明治十六年から建築学を学びます。明治十七年七月の華族令で、家格が名家の公家は子爵か伯爵に叙爵されますが、松ヶ崎家は大政奉還後に興された新堂上のため、男爵に停められます。留学中に男爵になった萬長は、同年十二月に帰朝して皇居造営事務局御用掛に任じます。
折しも鹿鳴館外交の一環として官庁集中計画を建てた外務大臣井上馨が、これを推進するために同十九年、内閣に臨時建築局を設置して自ら総裁に任じ、副総裁を警視総監三島通庸の兼務とします。この時、臨時建築局工事部長を拝命した松ヶ崎萬長は、ドイツから師匠のヘルマン・エンデと建築家ヴィルヘルム・ベックマンを招いて都市計画及び主要建造物の設計を依頼し、日本からは建築家と職人たちをドイツに留学させました。
来日したベックマンは、築地から霞が関に掛けて引いたラインを東京市の中心軸とし、中央駅・劇場・博覧会場・官庁街・新宮殿・国会議事堂などを配する壮大な都市計画を立てましたが、その実現は財政上とうてい困難で、水道計画技術顧問のホープレヒトがこれを縮小し、遅れて来日したエンデがホープレヒト案に基いて計画を修正しました。
条約改正に失敗した井上が明治二十年に外務大臣を辞めたために、官庁集中計画は頓挫し、臨時建築局は内務省に移管されてドイツ留学生は帰国を命じられました。大幅に縮小された官庁集中計画の遺産は、結局エンデとベックマンの設計による司法省(現在の法務省本館)で、現在は国指定の重要文化財となっています。

 波動・幾何系シャーマンの遺伝子が潜む坊城系
男爵松ヶ崎萬長が明治二十六年に、裁判所から「家資分散法」による「家資分散宣告」を受けたの理由が、浪費か投機の失敗か判りませんが、強制執行を受けても弁済する資力がない債務者とされたのです。このため萬長は同二十九年十月に爵位を返上しますが、建築設計の分野では目覚ましい実績を挙げました。代表作として第七十七銀行本店や台湾総督府鉄道局の基隆駅があり、中でも外務大臣青木周蔵の那須別邸は、今は国の重要文化財に指定されています。その後も建築設計家として多くの優れた仕事を残して大正十(一九二一)年に六十三歳で他界しました。
萬長の実弟(哲長の三男)は、津和野藩四万三千石の旧藩主亀井家を継ぎ、伯爵亀井玆明となります。玆明は日清戦争に志願してカメラマンとして従軍し、わが国初の戦場カメラマンとして知られています。玆明の孫の保子が嫁いだのが朝彦親王の孫の伯爵東伏見慈洽で、今年(平成二十六年)の元旦に薨去しました。また曾孫が参議院議員・国土庁長官亀井久興で、その娘が政治家として活躍中の亀井亜紀子です。
萬長が興した松ヶ崎男爵家の本家の堤子爵家は江戸中期に男系が絶え、堤輝長の女婿として坊城家から入った代長が中興し、以後の堤家は男子血統が坊城系です。坊城家を遡れば、藤原北家閑院流から出た勧修寺系の庶流で、この家には波動幾何系シャーマンの血が流れていると考えられます。
因みに、現在の坊城家の当主俊成氏も東大卒の工学博士で建築史学者です。堤代長の四代孫の哲長は孝明天皇の実質的侍従長でしたが画才に恵まれ、泉涌寺所蔵の孝明天皇肖像を描いたことが伝わっています。これも勧修寺系の数理幾何系シャーマンの一端が顕れたものと観て善いのでしょう。