護良親王の事績が判明した加太春日神社(1)

平成26年6月、海南市大野中の春日神社で執行された大野十番頭祭で、護良親王の末裔として祭主を勤めた私は、かねがね和歌山市加太の春日神社も、正体は奈良春日大社の末社ではなく、和邇春日氏(大春日氏)の神社ではないかと見当をつけていた。
ちなみに、『紀伊続風土記』名草郡大野荘中村条は、同村と隣接する井田村の粟田大明神について、下記のように記す。
(往年「日方之乱」の時に同社の古文書を)高野山南谷花王院へ預け、高野火災の時みな焼失すとあり、両社の来由詳らかにしがたし。
『南紀神社録』に、『古事記』・『姓氏録』等によりて曰く、当社は祀神「大春日姓」の祖国(くに)忍人(おしひと)命なり。今誤りて南都春日と同神とするは非なり。当社は(第五代)孝昭天皇の皇子天足(あめのたらし)彦国(くに)忍人(おしひと)命にして大春日朝臣等の祭る所の祖廟なり。
粟田の社は国忍人の三世の孫彦国葺(ひこくにふく)命にて、これ粟田姓の人この地に居る(「所以なり」の字を欠くか?)。因ってその祖を祀り、大春日社をもて上の宮と称し、粟田の神祠を以て下の宮と称するなりと云へり。今これを以て正説とする。

藤原北家による諸豪族の家名と姓の簒奪と源平藤橘四姓の欺瞞性に、以前から漠然と気付いていた私は右の説にわが意を得たが、さらに同書の同条に興味を惹かれた。
相伝えて、本社三扉中(なか)殿(どの)空位なりと云へり、元弘年間に大塔宮護良ノ親王熊野潜行の時、この春日山に暫く隠れまし、当荘十番頭の者を頼み給いて年を越して座(おわ)しまししかば、この神殿を作りて御座所とす。これに因って、今に中殿は設けたるままにて祀神なしとぞ。然れば、本社一座にして外一座は即粟田明神なるか。
また末社に年越明神あり、祭神詳らかならず。『明暦記』に年越明神の奥ノ院は中村菩提寺とあり(菩提寺の事は山田村の条にあり)。されば古はまた、本社に配して著しかりし社と見えたり。思うに、是はた後人大塔宮を祀りしならん歟。ここに年越えるまで座(おわ)ししかば、しか称へたるなるべし。

右には大塔宮の滞在場所を「中村菩提寺」としているが、これは大野荘幡川村禅林寺末の同荘山田村菩提寺のことで、大野荘春日神社の奥ノ院(または年越明神の奥ノ院)であった。大塔宮はここでしばらく滞在したわけである。
これに興味を覚えた私は大塔宮の紀州における事績を捜してみたが、官庁文書と地方史家の説くところはことごとく『太平記』の記す通りであった。すなわち「熊野大社の新宮別当を頼らんとして切目王子まで往ったところ、新宮にはすでに鎌倉方の手が回ったと聞き、行く先を吉野に切り替えて野迫川村に入った云々」とあるばかりで、大野荘春日神社の社伝のごとき異説はなく、大塔宮が頼りにされた大野十番頭の中の井口壱岐守がわが実家と同姓なのに興味を抱いたのである。
平成九年になり、六年前に知り合ったK氏がわざわざ紀州の僑居に尋ね来て、少年時代の写真二葉および実家井口家の家伝略記を提出せよという。提出先は明言しなかったが、最近になってK氏の素姓が京都皇統代の舎人と判明したから、今思えば京都皇統である。
ともかく、家伝を調査してみて井口壱岐守との関係が分かれば、井口家伝略記に入れようと考えた私は、当地で知り合った博覧の中谷哲久氏に話したところ、『野上町史』にあると云われ、送ってくれたコピーをみると、大野荘春日神社の十番頭のひとり井口壱岐守の子孫の家伝が記されているが、ここに出てきた大塔宮護良親王の事績は、『太平記』に基づく今日の教科書歴史とは全く異なるものである。
春日氏は本来、人皇第五代孝昭天皇の皇子天忍人命から始まる海人系の古代氏族で、祖神を祀っていた奈良の春日野の地を天平年間に藤原不比等に召上げられたのは、渡来人のために氏神も姓氏もなかった不比等が中臣の姓を奪ってこれを称し、鹿島の神を奪って奈良春日野へ移して中臣の祖神とし、春日大社と称したのである。そもそも春日野は、春日氏が祖神国忍人命を祀っていた土地であるが、同族の中納言粟田真人の斡旋で、春日野の代地として与えられた紀伊国名草郡大野荘に御神体を担いで移った十人が、その地に祖神国忍人命を祀る春日明神と、三世孫の彦国葺命を祀る粟田明神とを建てたのである。その際、藤原氏を憚って大春日氏と改称し、また和邇氏とも称したが、やがて春日氏に復したという。当時、権門の強請により家系・姓氏・祖神を強奪された名門が自ら改称した例は、大春日氏のほかに大中臣氏・凡部氏がある。
  そもそも、全国には春日の名が付けられた地名がやたらに多い。しかも春日谷・春日山とか春日川とか、都会からも離れ、また稲作荘園の跡とも思えないところに春日を冠した地名がある。
これらをすべて藤原氏が祖神とする南都春日大社に関連した地名とする不合理を疑っていた私が、大春日氏家伝に接して翻然と覚ったのが、源平藤橘四姓の欺瞞性とこれに基づく日本史の偽造であった。この観点から南北朝対立の背後事情に関する調査を進めた結果、私は今日の「海人史観」を建てることができたのである。右の経緯で、全国の海辺にある春日神社は、すべて大春日氏(和邇氏)の観点から洗い直す必要があると睨んだが、その最初が加太春日神社であった。
  さて、『紀伊続風土記』海部郡加太荘加太浦条には春日神社につき下記のように記す。
「本社   祀神 天照太神・春日明神・住吉明神 
庁     二間八間
末社 二社  稲荷社 八王子社
村中馬場町に在り、粟島社の摂社にして一村の産土神なり。村民相伝う。この地創造の時、当社を勧請すという。按ずるに、其の初め天照大神一座を祀り奉り、後に住吉・春日両社を合わせ祀りしなり。国造家旧記に曰く、「道根命二種の神宝を奉戴し紀伊国名草郡加太浦に到る云々」は即ちその頓宮の址なるべし。
住吉社は中世に合わせ祀りしや。文保元年の文書に住吉社寄進状あり(向井家蔵)。
また春日神社は藤原姓の人この地を領せしゆえ(日野左衛門藤原光福という人なりという。詳らかに日野村の条に見ゆ)その祖神を合わせ祀りしという。(向井家蔵むる所の文書に嘉吉二年春日神社御神事日記あり。又享禄三年の日記に春日社の神巫粟島社へ年中出仕の事見えたり)。
地頭の祖神にして新たに祀りしゆえに春日社をもって総名となし唱へ来れるなり。
    神主なく巫女ありて社に奉仕す。村老十人年預を定め社事を掌り、神事は淡島神主執り行う。
    四月廿日を祭日とす。この日神供および村中飲讌にみな龍蝦を用ふ、土俗因って海老祭といふ。祭の日村老みな素襖を着し、庁に集まりて座をなし献酬などすべて古風あり。

 これに関連するのが『紀伊続風土記』海部郡加太荘日野村条で、「向井氏嘉元三 (一三〇五)年
の文書に日野の名見ゆ。昔時日野左衛門藤原光福という人あり」として、当地の地頭だった日野氏
が柴薪を取らせた郎党たちが住みついて一村をなし、領主の名を冠した」としている。
鎌倉時代末期の文保元(一三一七)年に、地頭の日野光福が住吉社(の建物など)を寄進したこと
はたしかで、その日野氏が藤原姓の祖神の奈良春日社をも祀ったので、社名が春日神社となったというのである。
これを読んだ私が半ば諦めたのは、『紀伊続風土記』で、大野荘春日神社については「その祖を
祀り、大春日社をもて上の宮と称し、粟田の神祠を以て下の宮と称するを以て正説とする」と断定したうえに、「然れば、本社一座にして外一座は即粟田明神なるか」、つまり「三殿のうち中殿を大塔宮を祀る空殿とし、左右は国忍人命を祀る一座が本社で、他の一座は粟田明神である」と考証した編者仁井田好古が、加太春日神社については、地頭の日野氏が古来の天照大神社に奈良春日三神を合祀したと判断しているからである。しかも、その仁井田好古はたまたま加太浦の住人で、加太の地縁からして加太春日神社の古伝承を充分知ったうえでの右の考証なのである。
  ところが先月(平成26年9月)になってたまたま耳にしたのが、摂政時代の昭和天皇が加太へ上陸され、大正11年12月2日にわざわざ当社に立ち寄って参拝されたことで、桐蔭高校の数学の教師だった若林先生からたまたま伺ったのである。
私が京都皇統代から告げられた日本史の真相は、教科書歴史とは大きく異なるもので、建武元年の「大塔政略」により、①南北両統が強制統合して一本化したこと、②以後の皇統は護良親王の男系子孫に限るべきこと、③護良親王は鎌倉で薨去を偽装して西大寺に入ったことである。
この歴史真相を京都皇統代から教わっていた私は、摂政殿下ご参拝と聞いた途端、加太春日神社を放念して居てはいかんと直感し、旧知川口氏に案内を頼んだところ、早速十月五日の参拝となったのである。
ところが社頭に置かれたパンフレットの記す由緒書きには藤原氏が勧請したとあり、見当外れを感じて落胆したが、迎えに出られた当社の事務長井関暢二氏に川口氏が祭神を尋ねたところ、「三部明神で、一の宮に春日三神、二の宮には天照大神」と、ここまでは予想通りであったが、「三の宮は護良親王で・・・・」との答えに、思わず全身の血が逆流するのを覚えた。それも、「護良親王がここにお泊りになり、伽陀寺から食事を運んだ」というのである。
これには驚きとともに安堵を感じた私は、当社と大塔宮の関係を考えてみた。当社の創建年代は明確でないが、『紀伊国造家旧記』によると、「神武東征の際、国造紀氏の家祖天道根命が神鏡と日矛の二つの神宝を奉じて加太浦に上陸して天照大御神を祀るために造営した頓宮に始まる」という。神宝を奉じたアマノミチネが紀伊国に入り、加太→木之本→浜の宮と転々したことは他の神社にも伝承があるが、その背後の史実が日本建国に絡むことは当然である。ともかく当社は、延喜式の式内社ではないが、『紀伊国神名帳』には「正一位春日大神」と記されている。
加太浦は修験道の根本道場の「友ガ島」を海上に望む紀淡海峡の要地で、役行者を迎えたことから「行者迎の坊」と称し、古代から修験者のために「坊」(ロッジ)を経営していた旧家向井氏が、その関係で厖大な古文書を蔵し、右に出てきた「向井氏文書」もその例である。
加太浦を本拠とする修験道が当社を勧請して守護神としたのは当然で毎年旧暦四月二十日の海老祭(今は新暦5月20)日)には、聖護院門跡が大勢の山伏僧と共に当社に参拝しているが、聖護院門跡が当社の祀神のうち、どの神位を重要視しているのか大いに気になるところである。
古来重要な漁場である当地に古くからあった当社に、航海安全と大漁祈願の住吉大神が合祀され、中世には「住吉神社」とも称されたので、文保元年向井家文書の「賀太庄住吉社」は当社である。それ以前から祀っていた神名は明らかでなく、仁井田以来アマテラスを祀ると推定されているが、原住民春日氏(和邇氏)の氏神の国忍人(大春日明神)であった可能性が高いと私は考える。
『紀伊名所図会』によると、当社の社地は、もと東の山の中腹(南海電鉄加太駅の山側)で、豊臣秀長の和歌山城代桑山重晴が天正年間に現在地に遷した。現に重晴が寄進した社殿の慶長元(一五九六)年の棟札が存在、社殿とともに重文指定を受けている。当社は元弘年間に伽陀寺に隣していたから、護良親王が滞在したとの伝説は正しいと観られる。
大野荘春日神社および別当幡川村禅林寺に軍事的支援を求めて山田村菩提寺に滞在した護良親王は、加太荘でも加太十番頭支配の春日神社および向井氏支配の加太寺に支援を求めたのである。伽陀寺の属する聖護院は天台修験の本山だから、前天台座主の護良親王を温かく迎えたのは当然のことであった。
大正12年12月の摂政宮裕仁親王と久邇宮朝融王の加太訪問については、次回に。

加太春日神社の境内に在る樹齢92年の樟は、社伝によれば「某宮様」の御手植えです。 大正11年12月2日、海草郡西和佐村(現在和歌山市)の実業補習学校の教員養成所で、小松をお手植えになった摂政皇太子裕仁親王が、同時に樟種を播かれたとあり、後日その苗を加太春日神社へ移植したものとみられます。

  その時の「奉迎」の絵馬で、加太春日神社の社殿(重要文化財)の裏に、ひっそりと掲げられています。


                                         平成26年11月12日         落合莞爾