八事山興正寺における講演
                          落合莞爾

以下は、平成二十七年四月十八日の八事山興正寺での講演録に、四月二十六日に加筆したものです。

― なぜ歴史を研究するようになったのか?
本日をもって満七十四歳になった私が、近代史の研究に深く関わるようになったのは、丁度二十年前の平成七年に、京都紫野の大徳寺から、吉薗明子という方を通じて間接的に依頼された、とある調査がキッカケである。
その調査とは、佐伯祐三という画家について書かれた、元帥陸軍大将上原勇作の個人付特務吉薗周蔵の膨大な手記を解読する作業であった。
依頼の趣旨は、「特定の佐伯祐三絵画の真贋を書簡等の関係資料から判断してくれ」というものであったが、その時から二十年経った今では、吉薗明子氏の背景も、その真の目的も背景もほとんど分かった。背景は京都紫野大徳寺の立花大亀和尚で、その目的は、私に関係資料を解読させることで、その中に潜む日本近現代史の真相を研究させ、その結果を世間に公表させることなのである。
この佐伯祐三という画家は、もともと大阪北区中津の浄土真宗光徳寺の次男坊で、西本願寺の法主大谷光瑞から本願寺の忍者となることを命じられていたのである。日本でも、一部の寺院は西洋の教会と同じで、本山やその背後勢力のために諜報活動を行なってきたが、光徳寺が戦国時代に真言宗から浄土真宗に改宗した目的が、高野山のためか本願寺のためか私には判らないが、ともかく、佐伯祐三の父や兄は、大谷光瑞門主の指示を受けて諜報活動を行ってきたのである。
そもそもスパイというものは、どこにでも出入りするにも怪しまれぬように、音楽家や芸術家などを看板に掲げるのが普通のやり方で、その目的で一芸を磨くのであるが、それ以前に知力が必要なのは言うまでもない。大阪一の秀才校であった大阪府立北野中学に入ったことで頭脳が注目された佐伯祐三は、普通科の学習の傍ら、本願寺の諜報員になるために赤松麟作の画塾で絵画を勉強させられたのである。
上野の東京美術専門学校(美校・今の東京芸大)を受験した祐三は、北野中学で普通科の勉強をおろそかにしていたため不合格となり、浪人して上京するが、祐三の画家としての促成を急ぐ大谷光瑞師は、美校に裏口入学をさせようとした。
当時の美校は海軍薩摩閥が支配していて、ある意味では海軍のスパイ養成機関であったが、海軍に伝手のなかった光瑞師は、話の通じる参謀総長上原勇作の叔母の吉薗ギンヅルが海軍大将山本権兵衛と親しいことから、祐三の美校裏口入学を依頼したのである。
同じ薩摩人ながら、陸軍の総帥上原勇作と海軍総帥の山本権兵衛は仲が悪かったが、ギンヅルが間に入った形で、佐伯祐三は難なく美校に裏口入学することが出来たが、祐三の画家としての成長はそこからで、光瑞師はその後も、祐三の技量向上のために工作を必要とした。
その工作を実行したのは、ギンヅルと公家堤哲長の間にできた吉薗林次郎の子の吉薗周蔵であった。大徳寺の立花大亀和尚は、吉薗周蔵の親友であったことから、その娘の明子氏を通じ、吉薗家が所蔵する佐伯絵画の真贋鑑定のための資料研究を名目にして、「吉薗周蔵手記」を私に届けさせたのである。大亀和尚の目的は、実は、私に日本史の真相を研究させることにあったのである。そのことに気付くまでにかかった十五年の歳月が、私にとっていかなる意味があったのか、複雑な心境である。
大谷光瑞師の配慮で画才に長けた池田米子と学生結婚した佐伯祐三は、周蔵の支援で二度もフランスに留学し、米子の祐三売り出し工作と吉薗周蔵の支援によって、有名な画家になり、その作品は戦後の高度成長時代に価格が高騰した。しかしながら、彼の作品を所有している人間にとっては、佐伯がスパイだと表立って言われることは歓迎できない。佐伯がスパイだったことが分かると、美術品としてのその絵の価値が下がることを畏れるからである。
私が研究を始めてすぐ、『月刊ニューリーダー』という雑誌から連載執筆を依頼され、平成八年三月の第一回から連載を始めたが、それと同時に、新聞記者で後に日銀総裁になった作藤原作彌氏から勧められ、当初の研究成果をまとめて平成九年に『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真相』として公刊したが、これは非常に好評を博し、古本市場で永い間三万円を付けていた。
『月刊ニューリーダー』の方は百十八回もの長期連載を果たして一旦は終了したが、一年もせぬうちに再び連載を求められ、再開した第二部もすでに百近くに回になった。二十年近く連載しても、ネタがまったく尽きないのは、歴史というものは、研究すればするほど書くべきことが表出するからである。
今回、八事山興正寺の研究を開始したのも、私が命ぜられている歴史研究の一環である。立花大亀和尚は十年も前に百五歳で遷化したではないかと言われるだろが、御想像の通り、大亀和尚にはさらに背景があったが、その御名を言い表せないので、目下は「京都皇統」とするほかないのである。

― 八事山興正寺の寺号の由来は?
さて次に、なぜ八事山興正寺が「八事山」という名前を付けられたのであろうか?
答えから先に言えば、「ヤエコトシロヌシのみこと(八重事代命)」が由来で、これを詰めて「ヤコト(八事)」としたことを、京都皇統の関係者から先日聞いたばかりである。
この「ヤエコトシロヌシ」は、日本神話の出雲の国譲りに出てくる神様で、大国主の息子である。天孫アマテラスの代理の「タケミカヅチ(建御雷命)」が、大国主に国譲りを要求した際に、息子のうち兄のヤエコトシロヌシは鯛釣りの最中であったが、即座に承諾して青柴垣に隠れてしまう。ところが弟の「タケミナカタ(建御名方命)」がタケミカヅチに力比べを挑み、負けてしまって逃げ込んだ信濃国で諏訪大社に祀られることとなった。諏訪大社の主祭神は、上社・下社ともに「タケミナカタ」とされ、下社には「ヤエコトシロヌシ」が合祀されている。
これは本来の形ではなく、上社がタケミナカタを祀るのは良いが、下社は兄のヤエコトシロヌシを祀っていなければならない。下社の主祭神は本来はヤエコトシロヌシで、弟が合祀されてい形が正しいのである。
国譲りの話の冒頭で、「ヤエコトシロヌシが手を打つと、青海原が青柴垣に変わり、その裏に隠れた」とされるが、これに平仄を合わせて、ほんらい下社の主祭神として祀られるべきヤエコトシロヌシを合祀としたのであろうか。
京都皇統から伝えられたのは、このヤエコトシロヌシこそ日本の本来の皇統で、その後も日本史の進行を裏から支えてきたキイ・パーソン(キイ・ゴッドか?)であり、これを知ることが、日本書紀だけでは分からない本当の歴史を理解するための第一歩である。
その際、チラリと仄聞したのは、「青柴垣隠れの意味は海外移住」ということだが、その詮議は後回しにせざるを得ない。

― 正しい歴史に基づく皇統系譜
右のような歴史理解が、一般の歴史書とどう異なってくるかの話だが、まず最も大きいのは天皇の系譜に対する理解である。
第二代綏靖(すいぜい)から第十代開化までの八代の天皇は、記紀の両書に事蹟の記録が乏しいことから「欠史八代」と呼ばれ、戦後の史学では、「この八代は架空」という説が有力になってきた。
九代開化以前の事蹟の記録に乏しいのは、開化から十代崇神に対して行なわれた「国譲り」すなわち皇統の交替を、史書が通常の親子相続と装ったためで、国を譲られた崇神側からすれば、素性の異なる九代以前の事績は、あまり詳しく書いて貰いたくないのである。つまり、自分たちより前に八代の天皇が存在していたことは認めるが、その事績をあまり詳しく書かれると、国譲りのことが表出して、これを強要した自分たちの立場が悪くなるからである。
『古事記』の成立経緯は、文中の「序」によれば、天武天皇が舎人稗田阿礼に「誦習」させていた「帝王日継」と「先代旧辞」を、元明天皇に命じられたた太安万侶(おおのやすまろ)が編纂したもので、和銅五(七一二)年に元明天皇に献上された、とある。
太安万侶は、欠史八代天皇のひとりの綏靖天皇の兄ヤイミミ(八井耳命)の末裔の多(おほ)氏であるから、欠史八代(広義の春日氏)の事蹟を十分に知っていたが、自分の編纂した『古事記』にその事蹟を書けなかったので、近代の史家から「欠史八代」のそしりを受けることとなったのである。
海洋民史観に基づく史書の編纂を命じていた天武が六八六年に崩御すると、その妻で後継天皇の持統が天智の娘の本性を表わして編集方針の変更を命じ、文武天皇を経て元明天皇の下で編纂された書『古事記』の史観は、天武が抱いていた海洋民史観から、天智系の渡来騎馬民史観に変更させられたのであった。
百済貴人系天智の皇女に生まれた元明は、文武崩御後に男系皇統が絶えたため、中継ぎ天皇として建てられた。元明の姉で養母の持統(鵜野讃良)が重用した不比等(=史)は、天皇系図を捏造するために百済貴人中臣鎌足が招聘した渡来人の歴史専門家であった。
元明の諱の「豐國成姬」が渡来人秦氏の本拠であった「豊の国」すなわち宇佐地方との関係を暗示していることと併せてみれば、元明は百済貴人色を匂わせる女帝と言わざるを得ない。しかしながら、不比等だけでなく海人系皇統の天武の血を引く長屋王をも重用し、また県犬養三千代に本姓橘氏を名乗らせて海洋民系橘氏をカミング・アウトさせたのも元明であるから、政体担当種族の交替を中継ぎした女帝ともいえるのである。
元明が後事を託したのは、藤原不比等と蘇我温子の間の藤原北家の房前で、その室は橘氏の牟婁女王である。その間にできた藤原真楯が、結果として以後の藤原北家の単独祖先となったが、その系譜は下記の通りである。

            藤原不比等(渡来人の系図専門家)
  房前
              蘇我媼子(両親とも蘇我氏)真楯

 

            美努王(父栗隈王は春日・橘氏系・母は大伴氏)
  牟婁女王
              橘三千代(橘氏=県犬養氏)

 

右で見る通り、藤原北家は藤原・蘇我の新古百済貴人が混血した房前と、橘・春日の新古海人系の牟婁女王との混血血統である。
このことは、「男系を大陸騎馬系とし、女系(外戚)を縄文海人系」とする皇統の「万世一系原理」にも符合している。結局、藤原氏が皇室外戚の地位を固めるために、房前は橘氏系皇統の牟婁女王を娶り、橘・春日氏を己が外戚として取り込んだのである。
春日氏の王朝の「欠史八代」は、「古事記」にも「日本書紀」にも詳しい事蹟の記録はないが、各代の血族関係の記述が両書で微妙に食い違うため、何が本当で何が作られた部分なのか、が分かるところに価値がある。
古代史の基礎史料となる史書が、「古事記」と「日本書紀」の二通りあるのは、そもそも歴史学が矛盾する二つの要素を包含していることを反映するから、面白いのである。二つの要素のうち、一つは「正しい事実を後世に伝えること」で、もう一つは、「時の政権の正統性を強調することである。前者が『古事記』で、後者が『日本書紀』であるとする理解は、そろそろ世間に浸透してきた。
元明天皇が春日族の太安万侶に『古事記』の編纂を命じたのは、中継ぎ天皇として、橘・春日族の古伝承を記録せしめて『日本書紀』編纂の参考資料とするためであるから、太安万侶もすべての事実を書くことは遠慮したのである。
養老四(七二〇)年完成の『日本書紀』は、百済貴人鎌足が史書編纂(歴史捏造)のために、大陸からわざわざ招聘してきた不比等(六五九~七二〇)が実質上の編纂者である。
どちらにも時の政権が関与していて、『古事記』の内容が絶対に正しいとは言えないのは、正しいことだけ書いている史書は、そもそも陽の目を見られないからである。

― 国体を決める要素としての日本の宗教
国家を語るうえで、「国体」と「政体」という概念がある。政体とは、成文・慣習を問わず時の法律により定められた政治機構で、古くは大和朝廷の豪族連合政府から始まり、大化改新以後の律令体制を経て、平安時代に荘園制度が広がり、やがて武士が台頭して鎌倉幕府が成立し,室町幕府、江戸幕府を経て、近代国家の明治政府へと連なった。
これに対し国体(國體)とは、文章・法律で定義されるものではなく、国民の「集合無意識」として存在する国家社会の在り方である。國體の要素として私が考えるのは、「国土」「人民」「宗教」「文化」で、これら要素を結節する中核が「天皇」という存在である。
日本社会には宗教がないと思われがちだが、国民精神の奥底には「日本教」というものが潜んでいる。言いかえれば、日本には宗教として、「日本教」しかない。カソリック、プロテスタント、ムスリムなどの一神教の国が多いなか、日本は、ヒンズー教などと並び、神道と仏教を奉ずる多神教の国である。
大和の昔、物部守屋と蘇我入鹿が、国教にするのは仏教か神道かで争った歴史もあるが、結果的に、密教が従来の神道を吸収してできた修験道により「日本教」が成立した。現代に至るまで、結婚式を神道、葬式を仏教という形で、細かな分類での宗教が混ざっているような形態は、一神教を奉じる他国民から見たらおかしいかも知れないが、日本人の観点からは全くおかしいことはなく、むしろ当たり前の話である。これが「日本教」として位置付けて良い理由である。

― 「日本教」の崇拝対象と日本人のこころ
では、「日本教」が崇拝する対象とはどんなものかを宗教的に考えてみる。
それは「天地人」である。その第一は、万物を包含する宇宙そのもので、これを「天」という。第二に「地」すなわち「自然環境」である。私たちの生存が環境に依存している以上、昔から水や太陽といった存在=自然環境に対して畏敬の念を抱くのは当然である。第三は「人」すなわち「祖先」で、自分たちが今存在するのは祖先あってのものと分かるから、これら「天地人」が崇拝の対象であった。これが日本人の心を形成している。
ちなみに、今は「和食」がブームだが、和食は右の日本教的思想を取り入れた食のスタイルであるからこそ、今から全世界に受け容れられるのだと思う。「日本教」の精神が、「日本列島」で「日本人」により、様式・行動として発現したのが「日本文化」であるが、これを成り立たせた媒体は「天皇」の存在であるから、天皇が日本のアイデンティティと言っても過言ではない。
古来、天皇陛下の仕事は国体(國體)を守ることであった。國體を護る至高の存在は、太古は政体のカシラであるオオキミ(政体天皇)であったが、政治体制が整い社会構造が複雑になり、そこへ外国勢力の侵入が生じると、これに対抗するために軍事機構を整備せねばならず、傭兵を招聘して国防に当たらせざるを得なくなる。
これには、世界史的レヴェルでの地政学的な変動が影響していた。世界史に、大陸騎馬勢力が海洋貿易勢力と衝突し、これを一時的に武力で圧倒する流れが一時的に生じたのである。ローマとカルタゴの軍事衝突の結果たるローマの勝利とカルタゴの滅亡がその典型であるが、東アジアでも例外でなく、海洋的要素の濃い日本列島でも、国体を護持するためには政体を変更せざるを得なくなった。つまり、國體を護持するために最小限の範囲で國體に変更を加え、ないしは告知概念を複雑・高度化したのである。
こうして、天皇自らが政治を司ることはなくなり、傭兵勢力と結びついた朝廷貴族に大政を委任するという政治慣習が生まれ、政体天皇が形式化して実権を宰相が握る形式が新しい「政体」として確立された。
これが摂関政治で、政体のカシラとしての天皇の権威が、外戚となった政体権力者に左右されることになり國體に危機が生じたので、國體を護持する役割を担う存在が政体天皇とは別に誕生した。これを私見は國體天皇と私は呼ぶが、その走りが白河上皇である。
國體天皇の起源は、実は開花天皇から崇神天皇への「国譲り」にある。欠史八代の海洋民皇統が、崇神の騎馬民皇統にオオキミの座を譲った際、開化の皇子彦坐王(ヒコイマスのオオキミ)は、自らは外戚族になり地方首長となって、日本社会の下部構造を支えることとなった。
すなわち「青柴垣に隠れた」ヤエコトシロヌシとはヒコイマスのことと、私見は考える。ヤエコトシロヌシこそが、國體天皇の嚆矢なのである。

― 経済発展史の見方
日本においても、政府の存立する経済基盤は、租税によって成り立つ。大陸国家に軍事的に対抗できる政体をめざして推古天皇と中大兄皇子(のち天智天皇)が取り入れた律令制は、公地公民制の天皇制社会主義体制である。これにより農業国家としての収税基盤が整ったが、開拓奨励のために農地の私有を認めたため、私有財産概念が生まれて荘園が見られるようになった。
ところが、土地の開拓と外部からの侵奪は不分離であるから、荘園を攻防する護衛武士の勢力が強まり封建制度へと移行していく。当初の荘園では武力と農業生産活動が一体化していたが、開発領主が武力専門の「武士」に特化し、農業生産にあたる「農民」と機能および役割が分かれたのである。
このような土地の所有形態すなわち生産と所有との関係を説いたのがマルクスで、土地の所有形態の変化を見ながら、こうした関係性により歴史が必然的に変化するという考え方が「マルクス史観」である。日本においても、紀州藩士伊達宗広〔千広ともいう〕人物が、「マルクス史観」に近い歴史区分を説いた『大勢三転考』を著しているのは、非常に興味深い。その発展段階は次の三つである。その三段階とは、
①姓(かばね)の代 …社会的職能を分担する豪族が、存在の基盤とする土地・人民に固く結びついた職能社会。
②司(つかさ)の代… 律令官僚が法律にしたがって生産機能を管理し支配する社会。
③名(みょう)の代 … 荘園の自給自足社会。私有財産の考え方から、荘園の名を自分の名字(苗字)とする必然性が生まれる。苗字は、家族の名字の基になったが、本来は荘園の名であることを理解るべきである。
明治政府が行った「戸籍制度」では、出身や所有地の手がかりとなる苗字と家の出自を示す姓の、どちらか一つを選ばなければならなくなった。

―「負けるが勝ち」の諏訪(みなかた)軍法
出雲の国譲りの神話に出てきた「タケミナカタ」は、力比べでタケミカヅチに負けて、諏訪大社に祀られたが、その後にも軍神として祀られてきたのには、かなり違和感がある。軍神となっている「タケミナカタ」が、負けからスタートしたからであるが、これには実は深い味がある。
日本には、「負けるが勝ち」という特殊な哲学があり、実は、負けた方が勝った方を誘導し、制御しているという裏があることを知らなければならない。要は、故意に八百長を企んで負けているわけだ。負ける気になれば八百長は簡単に実現できる。
古来の戦争を見ると、有名な戦争の半分くらいは八百長と思われる。戦争などは、次段階を政治的に作るために起こすわけである。例えば、江戸幕府末期の大政奉還が最たる例だ。徳川家(江戸幕府)の人間は、大政奉還をしてから鳥羽伏見の戦いをして、わざと負けた。しかし、幕府官僚はしっかりと生き残り、明治政府のなかで、藩閥政府を誘導していったのである。
こうした歴史の見方をしている私には、司馬遼太郎などが書いた歴史小説により、間違った歴史観が定着してしまうことを危惧している。確かに、歴史ドラマとしては面白いかもしれない」が、明治維新の裏側は、司馬遼太郎が書いたような幕末の志士たちが動かしたわけではない。
「負けるが勝ち」の哲学で筋書きを描いた江戸幕府の人間が、最初から新政府をどう作るかを考えたうえで仕組んでいたのである。幕府官僚を動かしていたのは幕閣や将軍ではなく、その上にいた國體天皇の伏見殿邦家親王であった。
タケミカヅチに力比べを挑んで負けた「タケミナカタ」は、諏訪の上社で軍神として祀られているが、その裏に、青柴垣に隠れたヤエコトシロヌがいたのである。戦わずして勝つヤエコトシロヌシが建武新政をもたらした「大塔政略」によって、國體天皇たる伏見殿邦家親王として再来したのであった。

― 日本民族の成り立ち
八事山興正寺の由縁を紐解くために、敢えて日本の成り立ちるから解をしてきたわけだが、日本は、最初は縄文人の国であった。
縄文人は狩猟民族であり、主に海産物を取って暮らしてきた。当時の縄文人たちの人口と海の幸の比率を考えたら、自然と食料調達は海産物を取るのが効率的となる。しかし、人口が徐々に増えてくるにつれて、食糧調達手段も、漁業・狩猟から、牧畜。農業へと移行せざるを得ない。
人口が増えれば、生産力としての生産人口も高まり、食糧の増産によってさらに人口が増えるという、言うなれば(地)すなわち環境にとっての悪循環が生まれるわけだ。
現代では、この悪循環が環境を破壊したのが遠因となって、先進国では生活水準が維持できず、因って先進国人口が増えないから、消費と生産のバランスが狂って生産業者が困っている。
商品の消費を増やすために、各国で少子化対策が叫ばれているが、地球環境への負荷などを考えると、少子化の本質は、人口の自動的適正化と見た方が良いのである。地球にとって適正人口になるように、先進国から始まって人口が調整されるのは当然の話だろう。
と言っても、環境に合わせて人口を適正化(縮小均衡)すると、後進の人口大国から恰好な餌食として狙われることは明白で、これを防ぐために、軍事上の観点から人口を増やさねばならぬ悪循環に陥っているのである。

― 弥生人は雲南省から日本にやって来た?
さて、その縄文人はもともと海洋民族だったが、あとから日本列島に現れた弥生人は、どこから来たのであろうか。私の研究では、中国の山奥の雲南省に倭人と呼ばれた種族がいて、日本へきて弥生人となったのである。
痩せた山間の地に住んでいた彼らは、流水法で稲作していたが、しだいに増える人口を賄うために、水田稲作の適地を求めて揚子江を下り、河口で南シナ海の沿岸の「越」地方まで来た。
しかし、ここも流水法の適地とはいえなかったのは、彼らにも現地民にも、平地に流水水田を作る測量・設計技術がなかったからである。そこで日本に渡来してきた倭人が弥生人となったが、渡来後の彼らの日本での状況からすると、(すくなくともその一部は)、古イスラエル王国の東方流移民、いわゆる十支族に率いられてきたフシがある。
倭人が渡来した当時の縄文人が陸稲を作っていたのは、食糧事情からして水田をつくるほどの必要がなかったからであるが、弥生人に接して水田稲作を知った縄文人は、固有の測量・設計技術を生かして水田を作ってやった。
水田を作ることは、まず沼沢地に堤を作ることで川と平野に分け、次に川水を堰き止めるところから始まる。堰き止めたダムの上流の堤に取水口を作り、そこから用水に流して水田に導き、畔に沿って配水する形で水田地帯を作っていった。
これが平野における稲作水田の開墾法で沼沢地が水田に代わり、コメの生産量が飛躍的にあがった。縄文人と弥生人が一緒に暮らようになった日本列島の人口は、自然環境により自ずから定まっていた縄文時代の適正人口を突破してしまう。
アジア大陸の高山部に発祥した倭人は、ヴュルム氷河期をしのいだことで遺伝子が変化し、環境適応力を高めて病害に耐え、また繁殖力にも富んでいたので、人工増殖率は縄文族をはるかに上回って人口マジョリテイとなった。
古イスラエル族十支族に率いられて丹後半島に上陸したかれらは、アマベ氏の支配のもとに各地に水田集落を作り、イスラエルを意味するイセの宮を祀った、すなわち各地の元伊勢である。
倭人の増殖と共に、その指導者の古イスラエル族も勢力を延ばし,オリエント地方から奉じてきた多神教の神々を祀った。すなわち、エジプト多神教の牛頭神バールをスサノヲ神と称し、あるいは大陸経由で渡来してきたバールを牛頭天王と称した。
アマベ氏の祖神アマテルヒコ(天照国照彦)は、その名のごとく男神であるが、配下の倭人が女神信仰を固持するため、「彦」を除去して性転換し、アマテラス(天照大神)という女性神としたのである。
十支族は三種あるが、もう一つはモノノベ氏で、河内海(大阪湾)から上陸して大和盆地に入ったが、祖神ニギハヤヒを奉じる彼らは、軍事と祭祀に特化し、丹波地方に進出して同族のアマベと合流した。その証拠が、アマベ氏の祖神アマテル彦ホアカリ命を、物部氏の祖神ニギハヤヒと同体とする籠神社の“極秘伝”である。
一方、列島における人口比率の低下で、族種の社会的勢力が低下した縄文人は、倭人を顧客とする水産物や薬物の生産と交易などに特化し、頭脳作業では古イスラエル十支族と共同したが、そこへ大陸から騎馬民に率いられたツングース(エヴェンキ)が渡来して古墳時代となる。そこで、①縄文海人と、②古イスラエル十支続・、弥生倭人連合に、古墳騎馬民・ツングース連合を併せた三族種の融和を図ろうとしたのが日本國體の始まりである。なお、現代の私たちの血には、70%が弥生人、15%が縄文人、残り15%が大陸奥地から渡来した騎馬民族であると考えられる。
日本神話が、縄文人および弥生人を率いたイスラエル人と、大陸から渡来した騎馬族との民族間の争いや勝ち負けが神話に反映されているのは、縄文人が國體を保つために考え出した「融和のための思想」が神話の根底をなすからである。
冒頭に述べた出雲の国譲りの話で、負けた「タケミナカタ」と、青柴垣に隠れたヤエコトシロヌシは、縄文人たちが國體勢力となったことを意味し、勝った騎馬民は、列島国家の政体として、国防と弥生人の統治に従事することになった。倭人はどうなったかというと、その名のごとく温順で水田稲作に従事したが、政治的にはノンポリであった。
騎馬民との争いに負けた形の縄文人は、青柴垣の裏に消えたが、歴史の舞台から消えたわけではない。政治よりも経済活動に専念すべく、その役割を変えたのが神話の「タケミナカタ」や「ヤエコトシロヌシ」である。

― 海洋民族の出自を表す「八事」の山号
海洋民族である彼らは、日本各地に定着しているが、大別して三種ある。
海洋民族の中心概念をなすのは、北九州は筑紫国の一族で、糟屋郡志賀島郷を根拠とする安曇族である。海神神社〔ワダツミじんじゃ/ほかに「渡海」「和多都美」などとも書く(※編者註)〕なども有名だ。
次は、紀州の熊野に発祥した橘姓の一族で、田辺・和田・井口・堤・畑を称するものが多いが、すべて古来の水利技術者で、熊野から出て紀ノ川筋で繁殖し、それから北上して、泉南・河内・摂津方面に向かい巨大な地場勢力となり、摂津・河内では楠木氏や津田氏を名乗った。発祥が縄文時代に遡る橘氏は、列島に自然発生した族種でなく、シュメールに先行したウバイド文明の一部が東漸したものと、私見は考えている。
橘氏の分流が和泉・河内地方に遷って、泉州(現在の大阪南部)で水田耕地を開発した池田首(イケダのオビト)は、「大宝律令」で公地公民制度が施行されたため所領(私有地)を朝廷に取り上げられ、耕地の新規開発のために美濃国安八郡に移されたのは、橘氏族のノウハウたる設計・測量技術を活かすためである。その地は美濃国池田郡池田荘で、今の岐阜県揖斐川町・池田町である。
縄文海人の安曇族や橘族は、古墳時代の末から騎馬民の百済貴人が渡来して勢力を伸ばし、近江に新朝廷を建てたので、騎馬民勢力のそれ以上の拡大を抑止するために、吉野朝廷の大海人皇子を立て、近江朝廷の大友皇子を相手に「壬申の乱」を戦った。大海人皇子の本拠は美濃国湯沐邑にあり、ここの長官(湯沐令)の多品治(オオのホンジ)は太安万侶の先祖で、安曇族の分流で欠史八代(広義の春日族)から出て応神王朝では外戚を独占していた春日・小野氏(狭義の春日族)である。
翻って考えるに八事山興正寺の「八事山」の山号が「ヤエコトシロヌと」を標榜するのは、天瑞圓照による当寺造立が、海洋民族史観を引き継ぎ國體護持の象徴となる主旨とみるべきであろう。

― 寺号「興正寺」の由縁は?
話は変わり、「興正寺」の寺号はどこから来たのだろうか。
浄土真宗興正寺七世の了源が書いた親鸞の話から辿るに、承元元(一二〇五)年の念仏停止により越後に配流された親鸞聖人は、建暦二年(一二一二)年に越後から京都に戻り、山城郡山科郷に「興隆正法」のために一字を創建して“興正寺”と名づけた後、阿弥陀仏の本願をひろめるため関東行化に旅立った。その後、興正寺第七世了源上人は元応二(一三二〇)年、洛東竹中荘汁谷(渋谷)に寺院を移すが、後醍醐天皇が「東南から一筋の光が差し込むという夢」を見た場所に、興正寺から盗まれた阿弥陀如来の木像が出てきた霊験により、「阿彌陀佛光寺」の勅号を賜り、仏光寺と改め、一山で二号を称したが、その後、文明十三(一四八一)年に、第十四世蓮教上人(経豪)が山科郷西野村に興正寺を再興し、その弟の教誉上人が仏光寺を継ぎ、ここに両山に分かれたのである。山城国山科郷西野村に再建された興正寺の住持が、実は伏見殿から入ったため、寺格は本願寺よりも高くなるため、情報の公開が妨げられることとなった。
興正の名は名僧にもあり、南都西大寺の中興叡尊が一三〇〇年に大覚寺統(南朝)の亀山法皇と持明院統 (北朝)の後伏見天皇から、それぞれ興正菩薩の号を贈られている。天皇から「菩薩号」を贈られた名僧は史上五人しかおらず、弘法大師でも菩薩号を頂戴しておらないわけで、考えるに、弱者救済に著しい貢献のあった名僧に菩薩号が与えられていることは、天皇がヒューマニズムの観点から「菩薩号」を贈ったと考えられている。

― 古代中世における移民難民の存在
さて、そうしたヒューマニズムの観点から救済されるべき人たちを、当時は「ヒニン」と呼んだ。これは、江戸時代の身分制度の非人とは異なり、敢えて稲作に携わらない非農業民である。戸籍がないため律令制の仕組みである「租庸調」の枠内に入らず、納税をしなかった人たちのことである。自分たちの俸給のもとである納税をしない階層を、役人は「非人」と呼んだのである。
しかしながら、中世に入ると、日本社会の経済活動は貨幣経済の浸透により、商工業の生産額の方が農業を上回るようになり、荘園の外域である散所に集落を形成して暮らしていた。
その中で、他国では食糧事情から日本へ向かおうとする難民が増えていた。経済が豊かであれば、当然に周辺国からの民族移動を促す。
当時の非人は,食糧事情の悪かった半島国家の高麗(朝鮮)からの渡来した難民とその末裔で、族種的にはツングースと倭人の混血が主たるもの、とみられる。國體に馴染まないため、律令体制にも荘園にも入れられない難民たちは。農業以外の仕事に従事せざるをえず、その日からできる雑業として瀬戸内海で船の漕ぎ手となった。村上海賊の下層は彼らである。また、近江商人として薬などの行商を営んだ渡来人もいた。
つまり、日本の国柄は、國體になじむ限り、渡来人たちを排斥せず社会に取り込んでいったので、これが「和」と称する“日本民族”の特質で、日本の國體なのである。
倭人とツングースの混血の渡来人は、倭人と縄文人の混血の九州人とは共通する要素が多く、彼らをひっくるめて「環玄界灘民族圏」ということもできる。これが日本民族の血統的な歴史背景である。

― 名古屋の歴史と興正寺の開基
では、次に濃尾平野が広がる当時の名古屋の事情はどうだったのか。大河が流れる濃尾平野で形成された名古屋という都市では、江戸中期を過ぎて、ようやく大河川の普請が終わった。
関ガ原の戦いは、イエズス会の日本侵入を食い止めるための宗教戦争で、仏教勢力の東軍のカシラとして勝利した家康は、天台宗の高僧天海に指導されて江戸幕府を開く。江戸幕府がイエズス会の侵入に冒されないよう、見張らせるために水戸家を作った天海は、尾張藩をイエズス会から守護しつつ、その動向を監視するためにするために、八事山興正律寺を開かせたと聞く。
桂宮家が最近まで管理していた「真の皇統譜」によれば。八事山興正律寺の開山天瑞圓照は天海の子とある。天海と天瑞は推定で六十歳以上の年齢差があるから、実の親子とは考えにくいが、天海は伏見殿の一族の丹波国千年山の安藤家から出たから、その法嗣の天瑞も、伏見殿家の出であることは間違いない。
国体護持の意味において仏教の役割は大きく、その宗教施設たる寺院の役割は、現代の総合大学的な存在であった。天瑞が開山した興正律寺の宗派が、天海の天台宗でなく、鎌倉時代に全国に千四百か寺のネットワークを構築して散所商業民の拠点とした西大寺叡尊(興正菩薩)が建てた西大寺流律宗(真言律宗)であったことに、いかなる意図があったのか、まだ確言できない。
南都の西大寺について言えば、西大寺に入った護良親王は、散所民たちの稼ぎを吸収した経済力を海外進出に向けたのである。
元弘の後に発生したいわゆる「初期倭寇」が、計画したものか自然然発生かはにわかに判断ができないが、九州熊本の征西将軍府に関係があることはたしかである。
熊野の良材で世界最大級の巨船「大安宅」を建造した西大寺勢力は、八代湾を基地に、南朝武巣に守られた護良親王の王子たちを乗せた武装商船隊を海外に送り出した。
マルコポーロの帰路を辿った彼らは、アラビア海のホルムズでイリ汗国に上陸して、当面の目的地のヴェネツイアに到着し、最終的にはベネルックス三国ノ王室に入って、その他の欧州貴族社会と王室へ影響力を及ぼした。ゆえに、現在のオランダ王国やベルギー王室の系譜は遡れば、護良親王の血統に繋がっているのである。こうした歴史の裏側に興味関心のある向きは、私の著作をご覧いただきたいと思います
  最後に、八事山興正寺に関して、私見を述べることを許されれば、もと興正律寺と称した当寺の淵源に立ちかえり、この時代に塞沫しい律宗の本山となって頂きたいと願います。律宗と言っても、天平時代に律令制の官僧が従ったところの戒律ではなく。現代的意味を帯びた、しかも「日本教」の戒律です。それがいかなるものか、私も具体的に述べることはできませんが、それを考える場だけでも、寺内に設けて頂きたいと切望するのです。