天才佐伯祐三の真相     Vol.3

 

    第二章  贋作説の余韻とマスコミの姿勢

 

 第一節  TBSの報道が取りあげた吉薗佐伯

 昨年(平成十一年)十一月五日、十二月十日の二度にわたり、TBS放送は【裏側から見た名画たち】と題するハイヴィジョン番組を放映した。また同局は十二月十九日の「報道特集」でも、同じ題で放映した。これは前者と異なって、何しろTBSきっての人気番組であり、見られた方は多かろうと思う。どちらにも、画面には私の姿も出た。

 内容は、ハイヴィジョン番組と「報道特集」では多少異なっており、前者は「絵画の真贋鑑定」なる行為に焦点を当て、それが極めて主観的であることを暴く制作意図があるように思えた。端的には言わぬが、鑑定委員会などと権威づけていても、客観性根拠と科学性が欠落した作業であることを、画像を通じて浮き彫りにしようとしたと受け取れる。番組の後半で紹介する「日動画廊が東京美術倶楽部から脱退した」とか、「業者鑑定に関して美術界が割れた」との業界事件も、畢竟業者鑑定なるものの権威を疑うかにみえなくはない。後者は、かなりニュアンスが異なり、贋作事件の主役となった吉薗佐伯をめぐる真贋対立に焦点を当て、美術評論家朝日晃氏と私を並べていた。

 この二つの番組が、平成六年十二月二十五日、東京美術倶楽部鑑定委員会が吉薗佐伯に贋作の烙印を捺した事件を主要な柱にしたのは、当然といえよう。けだし近年あれだけのスケールの真贋騒動はなかった。ここでスケールという意味に三つあり、第一に佐伯祐三の日本洋画史における格付、第二に佐伯作品の市場時価総額、第三に美術評論家の大御所と画商鑑定機関東京美術倶楽部との対立、これである。

 第一について、武生市が一旦寄贈を受けた吉薗資料は、佐伯祐三の、従来の評伝とは甚だ異なる真相を明らかにした。これにより、佐伯に関する既成の評価論理は崩壊したが、従来の評伝は米子加筆品を対象に論じていたから、それも当然である。かくして、佐伯の画業の紆余曲折が明らかになったが、それでもわれわれは、佐伯祐三をやはり天才と認めざるを得ない。「周蔵手記」によると、わが国精神医学の草分け呉秀三博士は美校生の佐伯を例にとり「天才とは畢竟、成さざるを得ない境地に自己を追い込む能力を有する者の謂いである」と教えた。その意味で、極度の不安と精神的苦痛に耐えながら独自性を追求し、ヴラマンクの呪縛をほどき、米子流北画の蠱惑から逃れ得て、純然たる新境地「白にも黒にもとらわれないワシの絵」に悟入した佐伯祐三は、日本絵画史上でも第一級の天才と謂って過言ではない。

 第二について。武生市への吉薗寄贈品のうちに油彩は三十七点あったが、その画布はすべて下描き用の薄手画布を用いていた。元々下描き用の画布に描かれた作品は、絵の具も薄塗りで、「モンマニー風景」など数点を除いて、仕上げの段階まで到達していない。いかに天才の自筆であっても、下描きの市場価格は米子が加筆した完成品に及ぶまい。米子が夫の油彩下描きに加筆したのは、仕上げることで付加価値を増やすためであった。その目論見はみごとに成功し、「山発コレクション」と呼ばれて盛名を博し、億単位で取り引きされてきたが、最大の理由はそれが完成品だからである。逆にいうと、米子ほどの天才加筆者がおらぬ今日、油彩下描きは美術資料か未完成品としての価格設定がふさわしいのではないか。

 しかし今の問題は、寄贈品の値踏みではなく、吉薗佐伯の市場価値の総額にある。吉薗資料によると、佐伯祐三が吉薗家に渡した作品は合計数百枚あったことは確かである。そのうち昭和五年一月二十日から四月二日にかけて、藤根大庭が三回に分けて米子のもとに運んだ枚数は、合計百枚ほどであろうか。昭和八年十二月二十六日に、米子が義兄の分与の要求をかわす目的で作成した仮装「借用書」において、吉薗から借り受けたとしている百一点が、それに対応すると思われる。最後に吉薗巻の手元に残ったのは、二百五十枚以上あった。これは下描きも混じえた枚数だが、巻夫人が一枚づつ紙に包んで大事にしまい、その後もほとんど世に出なかったらしい。

 ところが、山発コレクションの米子加筆と見られる作品は、序章で明らかにしたように、画布がすべて薄手で、亜鉛華が検出されなかった。このことから観て、米子に与えた佐伯遺品の大半は本格画でなく、油彩下描きであったと推定できる。つまり、本格画はほとんどを吉薗家に残していたわけで、だからこそ周蔵夫妻は管理に意を用い、処分に関して明子宛の詳細な遺言を残したわけである。本格画は百枚を超えていたと考えられるが、その中から流出したものも多少あるようである。平成四年に明子の兄の熊田緑が死去したのを機会に、流出し始めた枚数は現在までに累計四十点を超えたようであるが、今吉薗家と周辺に残る正確な枚数を私は知らない。尤もどちらの品も、現状「未公開作品」であることに変わりはなく、これらを合計した未公開の本格画全体の時価総額は、どれほどのものか。

 前項に述べたように、鳥取県が購入した「オーヴエルの教会」は、寸法五八.九cm×七一.〇cmで、これは二十号Fに相当する大きさだが、県への納入価格一億三八六〇万円は一号あたり約七百万円となる。これが朝日晃氏の「ご意見」通り大正十三年の作品ならば、制作時期からして米子加筆品であるかとは明らかで(序章「佐伯祐三の画業」)、画風からしてもその公算が大きい。また、茨城県立美術館蔵の「コルドヌリ」は、米子作品に似せた真っ赤な贋作だが、十号F で購入価格六九〇〇万円(毎日新聞)というから、やはり一号あたり七百万円に近い。つまり、これが米子加筆品(公開佐伯作品)の近年の「上台相場」を示すわけだ。

 因みに、武生市真贋事件の直前に、大阪の一流画商T氏が吉薗明子氏から仕入れた十数枚は、すべて佐伯自筆の本格画で、大きさ二十号程度、価格は一枚あたり数千万円であった。このほかに武生市真贋事件の影響で破談になった一点があり、これも二十号程度で、内定価格は七千万円であった。一方、武生市の豪商山甚産業の山本晨一朗氏が、真贋事件の寸前に吉薗明子氏から仕入れた本格画は、二十号程度ばかり十一枚で総額四億円であった。これは、山本氏と小泉市長の間で、武生市へ五億円で転売の話が予めついていた、と報道されている(平成七年一月十九日毎日新聞)。これからすると、武生市への納入予定価格は一号二三〇万円程度ということになる。しかし、この取引は、吉薗佐伯の散逸を防ぎ、且つ武生市の美術館に目玉の良品を確保させる目的があり、納入予定価格もそれを配慮してサービスしたものであった。もし通常の画商納入価格とすればこの数倍、二十号で七〜八千万円としても、おかしくない。つまり、さきの大阪の画商T氏の仕入れ価格とだいたい同水準に帰するわけだ。

 また、吉薗明子氏は、山甚産業側から不動産取得費用の名目で借り入れた一億二千万円(これが東京地検から“騙し取った”とされている金額である)に対して、藤田嗣治作品一点に佐伯の本格画を二点加えて、担保提供していたが、そのうち一枚が序章に写真を載せた「郵便配達夫」(約二十号)で ある。これとポーズが少し異なるが同様な構図の「郵便配達夫」(七二.五cm×五〇.〇cm)の写真を拙著「天才画家佐伯祐三真贋事件の真実」に掲載してある。こちらは平成七年四月十四日に吉薗明子氏から武生市に一旦寄贈されたが、そのとき武生市選定委員会は、「一級品ないし並品」との評価を下した(福井新聞)。真贋騒動が生じたため、この作品の寄贈は撤回されたが、大阪の画商T氏の希望により、さきに価格七千万円ほどで仕入れていた一点と交換された。

 以上の作品と金額については、私自身が確認している。これをみると、平成六、七年ころ世上に姿を現した佐伯の未公開本格画に画商が付けた「仕入れ相場」は、一号三〜四百万円というところであろうか。T氏の目論見では、これらの本格画は、やがてその数倍で、美術館やコレクターに納まる筈であった(仕入れ倍掛けは、画商として決して暴利ではない)。これからすると、未公開の佐伯祐三本格画の相場のスタート・ラインは、米子加筆品に劣らぬ価格水準であったと観てよい。

 とすると、未公開の佐伯本格画の出現は、上台価格にして百億円をも上回る新商品が突然登場したことになる。それだけでも不況下で縮小した購入予算の奪い合いに腐心する大手画商連にとっては打撃であったろうが、それよりも、米子加筆品が美術館から返品を食らったり、相場に新たな異変が生じることの方に、画商たちの困惑があったらしい。いずれにせよ、それほどの大問題だったから、第三点すなわち、美術評論界の大御所と画商界の巨頭が対立する構図になった。一方は加筆品を擁し、他方は未公開本格画に拠る。日曜日に河北の私宅を訪問した三谷敬三ら東京美術倶楽部の幹部三名は、河北に窮状を訴える。その深刻さは河北の予想を遙かに越えていた。だからこそ、所有者を除外して、学者と業者の手打ちとなった。その間の事情は拙著「天才画家佐伯祐三真贋事件の真実」に詳しい。

 小泉武生市長はそんな学商癒着の雰囲気に、ただならぬものを感じてか寄贈を断り、佐伯から撤退した。それは政治判断だから仕方がないが、問題は、その際に武生市が小林頼子に奇怪な報告書を作らせ、これを悪用して、「吉薗資料に疑義」という形で寄贈話をぶち壊すという不当な方法を用いたことである。こんな野蛮な行為を、自治体が敢えてしたのは、武生市の委嘱した委員の誰かが業界から請託を受け、市の幹部職員と通じて、意図的に小林頼子を起用したものと推察される。あの時に武生市の職員が選定委員会に不審を抱き、小林頼子報告書の内容を落ち着いて検討すれば、とんでもないものであることを発見するのは、そうも難しくなかった。そして、真面目に吉薗資料を研究していけば、やがて佐伯祐三の真相が判明し、吉薗佐伯は順調に公開されたであろう。そうなれば、武生市民は大きな利益を得られたし、山本晨一朗氏も吉薗明子氏を詐欺で告訴する実益がなかった筈である(この条は、詳しくは拙著を参照されたい)。

 しかしながら、TBSの上記二つの番組は、そのような角度から吉薗佐伯を取り上げようとはせず、単に「画商団体が贋作と鑑定したアングラ美術品」としてのみ位置づけたのは、番組協力者として私は甚だ遺憾である。現在、吉薗資料の解読により、日本近現代史の研究を進める私は、吉薗佐伯を真作と認める以上、真作派と呼ばれてもちっとも構わないが、それは「佐伯がかわいそうだ」なぞといった小児病的な心情ではなく、また、「これが本物でないと金銭的に困る」商業的打算で、しゃかりきに叫ぶわけでもない。客観的な根拠により、吉薗資料と内容の信憑性を立証していくと、詰まるところ吉薗佐伯の真作性を立証することになるだけの立場である。

 それはさておき、TBSの番組における取り扱いは、どうみても公平とは見えなかった。その理由は、二つの番組とも、吉薗佐伯を頭から贋作と表現していたからである。いや、正確にいうと「贋作と鑑定された吉薗佐伯」と明言した。これでは、視聴者の多くは、文言通り「吉薗佐伯はすでに贋作と鑑定された」と受け取ったであろう。だが、それは断じて事実ではなく、明らかな誤報である。

 そういうと、「でも、東京美術倶楽部が贋作と断定した、このことは、それこそ、断じて事実ではないですか」との反論があろう。ところが、それは事実でないのだ。そこで五年前に起きた、武生市真贋騒動の要点を正確に振り返ってみよう。

 

 第二節 真贋問題の発端

 事態を正確にいうと、こうである。まず、そもそもの発端は、東京美術倶楽部鑑定委員会に阿王桂氏が吉薗佐伯十六枚を持ち込んだことである。同委員会は平成五年二月から四月にかけて、三か月にわたり慎重審議した。当初は「委員の意見一致せず」とのことであったが、結局は「ノー・コメント」とした。その際、鑑定委員会は「贋作」とは断言せず、理由も言わず、ひたすらノーコメントで通した。鑑定書を発行しないのに、鑑定料は規定通り一点五万円を徴収した。これについて、当時の鑑定委員長三谷敬三氏は、平成十一年公刊の近著「美術商五十年」の中で、美術評論家瀬木慎一氏と対談して、次のようにいう。

三谷「(贋作者は)なかなか名乗り出ませんからね。ですから、それはいろいろな面から悪いんですが、この前の佐伯祐三の問題もはっきり偽作だということを名乗りでないので、いろいろな参考資料から駄目だと判断したわけです。所有者が状況を明かさないような態度は、自信持って『いいんです』と言えないからです。自信があれば、ここにあったと見せれば良い」

瀬木「かかわった人間だけが見ていて、他の人には見せないんですね。これだけ問題が大きくなってきたのだから見せないといけないんです。近頃あんなに大量に、珍しいですね。あの中になにか少数の真実があるかもしれないが、それにしても公開してくれないとどうにもならないんですよ。発展しないですね」

三谷「ですから、私は最初見た時は、これはアイスキャンディーではないかな、と思ったんですよ。アイスキャンディーというのは、真ん中の心棒は本物なのです。周りは溶けちゃう。真ん中に棒かなにかあるために、周りに巻き付けたのではないかなと思ったんです。しかし、それもはっきりさせない。心棒があるようだけどはっきりさせない」

瀬木「心棒がわからないですね。昭和十年頃の春峰庵事件の浮世絵の贋作もはじめはそうでした。しかし、間もなく元が発覚して捕まったからいいですが、佐伯祐三の問題は元がわからない。我々は捜査権はないんだから。この種の問題でおかしいと思うのは、同じ偽物が何回も回ってきたりしますね」

 両所とも吉薗佐伯を頭から贋作扱いしている点では同じだが、まず三谷氏の論理は、どう見ても転倒している。

 第一点。贋作の場合も偽作者は名乗り出ることは少ない。まして本物の場合、存在していない偽作者が名乗り出てくる筈がない。それを、「自白してこないからインチキ」と判定するのは「魔女と自白しないから魔女だ」という異端審問官の論理である。それじゃ、たまたま偽作者として名乗り出しきたら、それを鵜呑みにするのか? それに第一、間違いなく偽作者と判定できる力が君たちにあるのか?

 第二点。「いろいろな参考資料から駄目だと判断した」というが、それなら三谷氏の方から、その資料を公開すべきである。自分らが公開しないでおいて、所有者に状況を明かせというのは不公平どころか非公正ではないのか。

 第三点。「所有者が状況を明かさない態度を状況証拠として、贋作判断の根拠とした」というのは、逆に「所有者が状況を明かせば再考する」という含みがある。つまり、君たちは「疑わしきを敢えて罰した」わけで、こうした場合、誤断のリスクは君たちが負わねばならないことを知っているのか?。 

 だが、人間まるまるの嘘は言えぬもので、落ち着いてその人の発言全体を積み重ねてみることにより、事の真相を再現するのは、そう難しいことではない。真相は、三谷氏のいう参考資料なぞどこにも存在せず、阿王氏(実質的に吉薗の代理人)が全面的に事情を明かさないので心証的に贋作とした、と見ていい。語るに落ちるというか、三谷氏のアイスキャンディー理論は、正にそれを自白したものである。三谷氏は、この後に自ら仕掛けて武生市真贋騒動に火を付けたが、その際ですら、「(吉薗)資料はたぶん本物だろう」と言っていた(当時の新聞)。つまり、吉薗資料が「アイスキャンディーの心棒」としての本物であると思うが、阿王桂が鑑定を依頼してきた十六点の吉薗佐伯は、それに「巻き付けた溶けかかったアイス」だと判断したことを、本人も認めているのである(この条は、詳しくは拙著「天才画家佐伯祐三真贋事件の真実」を参照されたい)。

 三谷委員長のもとで東京美術倶楽部鑑定委員会が鑑定した十六点のうち、武生市寄贈品と重なるのは四点しかないが、ほとんどが同類品(すなわち「油彩下描き」)であるから、以下両者をとくに区別しないで、話をすすめる。

 思うに、吉薗佐伯が今日際会している悲劇の根本原因は、「小出し戦略」にあったのではないか。それは、資料についても本格画についても言えることである。吉薗資料という心棒を見せられなかった東京美術倶楽部は、十六点を見て、従来の公開佐伯作品すなわち「米子加筆品」との余りの違いに呆然となった。そこで、山発コレクションの修復に当たった創形美術学校に訊ねたが、「自分らの修復したものとは歴然として違う」と答えてきた。山発佐伯は、序章で証明したように米子加筆品ばかりだから、当然のことである。それなら、誰が考えても、贋作と即決して回答すれば良い筈だが、三谷氏は直ちにそれを行わなかった。他でもない、実は、すでに業界の一部は米子加筆説を知っており、半ば公然の秘密となっていたからである。しかし、無加筆の佐伯なぞ、この六十年間どこにも出てこなかったから、そんなもの多分この世に存在しないのでは、と安心していた。それが遂に出てきた、すは一大事と色めきたった。そこからがまた問題で、だからといってこの十六点が、幻の佐伯真筆である証拠もまた無いのである。たしかに、無加筆の佐伯が出てきてもおかしくはないが、この十六点がそうだという証拠があるのか?

 結局は、資料の欠如が消極的判断の根拠となった。三ヶ月にも及ぶ慎重審議の末、三谷氏がこの対談で明らかにしたように、「(所有者に)自信があれば、ここにあったと見せれば良いのに、伝来を証明する資料を見せない以上、自信持って『いいんです』と言えないから」との理由で、鑑定結果を「贋作。但しノーコメント」とし、配下の画商に取り扱わぬようにとの回状を回したが、それはムラ内のことである。阿王氏に対しては「ノーコメント」で済ましたのは、所有者に向かって「贋作」と断定したときの法的リスクを避けたかったからだろう。業者鑑定組織とはいえ、いやしくも有料鑑定機関であるからには、鑑定不能の場合鑑定料を阿王氏に返還すべきは当然のことなのに、それをしなかったのは、たとい心証頼りにせよ、一応鑑定作業をしたからである。以上私の推察は、事実を隔たること、そう遠くはあるまい。

 

 第三節 真贋問題の発展

  A.奸策に満ちた記者発表

 ところが、平成六年十一月に至り、吉薗寄贈品三十八点のうち修復と額装の完成した五点が武生市議会で内覧されるに及び、東京美術倶楽部としても最早「ノーコメント」で放置することはできないと考えた。そこで急遽、鑑定委員会の名を以て新聞記者を召集し、「そのうち一点は、さきにわれわれが贋作と鑑定したもの」と発表した。しかし、これは世間を欺くものである。なぜなら、あの時阿王氏に出した回答は「真とも贋とも云わないノーコメント」でしかなかったからである。

 しかも三谷氏は、「今回の発表は、武生市の職員から問い合わせがあったから、それに答えるため」と、さらにきわどい嘘までついた。武生市はすでに数人の学者を招聘しており、今さら業者鑑定を頼むわけもない。実際には、東京美術倶楽部と通じた毎日新聞記者が、武生市職員から内覧品の写真を入手して、東京美術倶楽部に持ち込んだのである。三谷氏らは不法に入手したその写真をネタに、一方的に贋作発表するハラを決めたが、いかんせんきっかけがない。そこをムリヤリ新聞発表に持ち込むための、これは幼稚な作り話なのである(この条は拙著に詳しい)。

 この時の三谷氏の嘘はそればかりではない。記者から「贋作の証拠があるか」と聞かれるや、「画布にテトロンが混入していた。釘痕が新しい。絵の具が酸化していない」との三点をあげた(毎日新聞平成六年十二月二十五日)。むろん思いつきを並べたもので、とくに後の二点なぞ話にもならない。たしかに画布にテトロンが入っているなら贋作は決定的だが、修復に当たった杉浦勉氏の「画布は和紙で縁取りしてあり、糸を抜き取った形跡がない」との証言を聞いた武生市が、公立研究所二カ所に依頼して画布を徹底的に調査した結果、テトロン混入は真っ赤な嘘と分かった。それを新聞記者から追及された三谷氏は、「(記者会見の席上で)新聞記者から、たとえばテトロンでも入っていたのかと聞かれたので、そう思いたくば思え、と答えたまでである」と放言した(当時の新聞。なお掲載新聞名や日時については、拙著を参照されたい)。これは言い訳というより、ウソを自白したわけで、いかなる奸策を弄してでも贋作にしてしまおうとする明確な意図が露呈している(なお、事情通の推測では、東京美術倶楽部が百二十倍の拡大鏡で画布の繊維を検査したところ、亜麻の繊維に混じってキラキラと光る細い毛が見えたので、これをテトロンと速断したらしい。五百倍に拡大すると亜麻の繊維の一部と分かるのだが、百二十倍だとテトロンと誤認する。だからテトロン混入説も単なる思いつきでなく、一応の根拠があったというのである)。 

 いずれにしても、この動機不純、方法不当、内容不正な記者発表が、武生市真贋事件の契機となった。その後、真贋を巡って二転三転するその有様を詳しく述べるには紙数がなく、前掲拙著をご覧頂くしかない。ただ、三谷氏に関連していうと、吉薗資料はその後一旦武生市に寄贈され、市から委嘱された選定委員は全員これを観た。武生市が「はい、どうぞご覧ください」と、コピーを差し出しはしないが、その気になれば三谷氏が内容を詳しく知ることは容易であった。いうまでもなく、武生市委員の美術評論家の面々と東京美術倶楽部の間は、極めて昵懇だからである。

 

  B.三谷氏の詭弁

 ここで、さきの対談に戻る。三谷氏は「所有者が状況を明かさないのは自信がないからである云々」というが、これは、平成五年に彼らが鑑定依頼を受けてから、六年に例の奇怪な記者発表をするまでなら、一応は通用するが、七年に吉薗資料が武生市に提供されてから後は、明らかに通らない詭弁である。ことに、この対談の時点では、全く通用しない。

 これに対する瀬木氏の発言も検討に値する。対談に先立って、「図書新聞」平成九年七月十九日号に、瀬木氏による拙著の書評が掲載されている。それを要約すると

 武生市の真贋事件でいろいろ意見が出たが、(平成九年七月)現在、通念となっているのは、作品が幼稚拙劣で、付随している資料加療も贋造の疑いが濃く、所蔵者の人物と経歴も信頼しがたく、全体として、評価できない、ということにつきるが、この本は、疑問視されてきたほとんどすべての項目にわたり、ポジティブな答えを出し、委員会と市が到達した結論に、真っ向から挑戦を試みている。その実証を冷静に読み進めると、多くの事柄で納得がいくばかりか、未知の意外な事実が次々に提示される。この奇怪な人物(吉薗周蔵)の行動が想像を絶するスケールで、社会の各方面に広がっていることに、唖然とする。どうやら、吉薗周蔵という身元不詳にみえる人物は大正から昭和期にかけて当時の政治を支配した「軍」と密接な関係を以て、陰に陽に活躍した民間人のエージェントというのが、実体であるようで、まさしく時代が生んだ人物であり、その最も陰影の深い一人とみることが出来そうだ。

とある。著者(私=落合)の見解に冷静に耳を傾けて下さるのは、実にありがたい限りである。瀬木氏はさらに続けて、

 著者の筆はおのずから、最後には、そちら(吉薗周蔵)の方に行くのだが、佐伯問題に戻ると、論議の対象となった作品と資料をすべて果敢に肯定する著者に対して、それに関わった人々は、もう一度、振り出しに戻って、どう考えるのかを明らかにする必要に迫られている。否定するにせよ、肯定するにせよ、単純から単純へというのでは、人々の真の理解は得られまい。

 と主張される。要するに「著者の関心と方向が、佐伯でなく吉薗周蔵に向かうことは自然の流れ」と理解された上で、しかし、佐伯の絵ということに戻れば「真贋事件の関係者がもう一度、振り出しに戻って、どう考えるのかを明らかにする必要に迫られている」と結論して、その所以を説かれるのである。まことに達意の名文である。ここに関係者とは、まず武生市役所選定委員すなわち陰里鉄郎、富山秀男、西川新次ら諸氏と、特別学芸員の小林頼子氏らの武生市関係者全員。それに、外部から介入した東京美術倶楽部鑑定委員会である。

 瀬木氏のご高評は論旨極めて明快で、共感を禁じえない。実をいえば、私もそのような展開になることを期待して、くだんの拙著を発表したのであったが、あに図らんや、関係者は皆ひたすらこれを避けた。関係者が逃げ腰を決め込む原因は、真贋事件の発展段階を追ってみるとすぐに分かる。拙著に詳述したが、要するに、平成七年の中頃までは「資料は、たぶん本物だろう。ただ、絵の方は溶けかかったアイスだ」としていた三谷氏らの態度が、途中で一変したのである。理由は、吉薗資料のなかに、彼らにとって都合の悪い内容が見つかったからである。つまり、米子加筆の真相を吉薗周蔵に告げる佐伯祐三自筆の書簡、手帳や日誌のたぐいが多数現存した。例の謀略的な記者会見なぞしなければ、たぶん公開されなかった筈の吉薗資料の一部、ことに米子加筆の証拠がチラリと顔をのぞかせたのである。これで、画商たちの謀略が藪蛇になるおそれが出てきた。寄贈品の贋作化に成功すればいいし、失敗したところで画商の腹は痛まないが、こんな資料が公立美術館に寄贈され、真正面から研究が始まれば、やがて米子加筆が公に表面化してしまう。佐伯をさんざん取り扱ってきた大手画商の一部は、これには耐えきれない。

 そこで、業界の知恵者が、今度は吉薗資料つぶしを企む。その際、実行犯として選ばれたのが、慶応大学の通信教育課程から立身した小林頼子氏であった。美術評論界の重鎮が数人も首をならべて武生市委員会に入っていながら、さらに小林氏を特別職員として武生市に送り込み、資料に難癖をつけさせて偽作扱いにして葬り去る。そんな無理はいつかはバレようが、そのときは小林が罪を着ればいい。業界と美術評論界の上層部は手を汚さないし、将来も泥を被らないで済むというわけである。 

 こうして、「彼ら」は真贋事件の中途から、吉薗資料を葬り去ることに腐心した。つまり、武生市真贋事件の本質は、絵の真贋ではなく、資料の真贋問題なのである。瀬木氏の言われるとおり、私の筆がおのずから、絵より資料の根本的背景たる吉薗周蔵の方に向かうのは、その意味で必然なのであった。

 

  C.小林頼子の裏のスポンサーは誰

 問題は、当事者の武生市役所である。市は、絵については、当初は真作として美術館計画を推進してきたのだが、吉薗資料を入手したころから、態度が微妙に変転した。つまり、いつの頃からか逃げ腰になった。そこで、吉薗資料調査のためにわざわざ小林頼子を招聘したのは、本当のところ、だれの意思だったのだろうか。小泉剛康市長が考えを変え、佐伯から撤退しようとして、吉薗資料に泥を塗る役を募ったのか?

それとも、外部から謀られて小林学芸員を送り込まれ、市長の意図に反して資料を潰されたのか?

 もし、資料つぶしが市長の意に反したものなら、市長は獅子身中の虫に噛まれたということになる。だが小泉氏は当時、贋作派の立場で市民グループを率いていた三木勅男氏から、美術館問題で猛攻撃を受けていた。小泉氏がそれに耐えかねて、佐伯からの撤退を策し、その方便として資料つぶしを図ったとしたら、その陰険さは許されないが、果たしてそこまでやるだろうか。やったとしても、外部の資料つぶしの動向を、撤退の理由として利用した程度ではなかろうか。いずれにせよ、そこを判断する材料は私にはない。

 ただ一ついえることは、小林頼子氏の調査には、杉本次太氏を室長とする美術館準備室の数人のスタッフが一緒に行動しており、小林氏が独走できる体制ではなかった。それなのに、あれだけ偏った内容の報告書を市の正式文書として公表するとは、外部の誰かに牛耳られたにせよ、ちょっと信じがたいことである。そこで、全市をあげてとは言えぬまでも、市職員の一部が資料潰し工作に荷担していた可能性は大きい。寄贈が発表されてから謀略的贋作発表までには、かなりの月日が流れており、奸策に満ちた一部画商らは、その間に市の高級職員に対する工作の機会を窺っていたのではないか。

 因みに、これに関し、平成十二年二月十一日の「新美術新聞」のコラム「色いろ帳」に、興味深い記載を発見した。曰く「・・・武生市にとり新発見、佐伯作品は『資料の信憑性に疑わしきものあり』という小林レポートで決着がついているが、新市長、三木勅男は前市長時代の美術館支出について改めて洗い出しを行い早々に情報開示をするそうである(安井収蔵)」

 安井氏は、佐伯作品の取り扱いでは実績最多といわれる大手画商「日動画廊」の禄を喰んでいるから、この意見は聞き捨てならない。安井氏の云うように、武生市は小林報告書を以て佐伯美術館構想の撤回問題を行政面で決着した積もりなのであろうが、同報告書が吉薗資料を抹殺するために羅列した根拠のデタラメぶりは、前掲拙著と「ニューリーダー」連載中の「陸軍特務吉薗周蔵の手記」で、完膚無きまでに撃破している(本稿でも後に再掲するつもりである)。百歩譲り、仮に小林報告書に市役所をカサに来た多少の権威があるとしても、それは吉薗資料を否定しただけで、寄贈作品そのものを直接調査したものではなく、絵の真贋事件がそれで決着したとはいえない。以上の諸点を当然理解しておられる安井氏にして、かかる口舌を弄するのは、彼の食禄の出所の然らしむるとしか受け取れぬ。ここまで強引に小林報告書を悪用しようとするところを見ると、安井さん、小林頼子の真のスポンサーは、ひょっとすると、あなた方だったのかい?

 武生市ではその後、小泉市長を攻撃していた三木勅男氏が当選し、市長になった。前市長の失政の最たるものは、何と言っても美術館問題である。ただし、佐伯美術館構想が悪かったのではなく、小泉市長の過ちは、部外者の策動に踊らされて佐伯美術館を断念したことと、それによって善意の寄贈者に物心両面にわたる甚だしい迷惑をかけたことにある。後任市長三木氏の仕事は、その暴政の後始末をすることなのだが、この人は何しろ自ら贋作派のリーダーとなって小泉市長を攻撃し、贋作騒ぎに乗じて政権を手中にしたというまことに皮肉な立場にある。

 それでも、武生市そのものが事件当事者として、いまだ責任を抱えていることは、天下に明白である。故に三木市長は、自身の過去の言動をも含めて、瀬木氏のいわれる「事態の今後の発展に協力すべき立場」から逃れられない。小泉前市長時代の美術関連支出を洗い出して、市民に公開するのは、遅蒔きながら当を得たことであるが、ついでに、小林報告書の背景と真相を是非明白にしていただきたい。

 

  D.作品ならびに資料の公開が必要とはいうが

 瀬木氏は書評の結論として以下のようにいわれる。

 何といっても重要で肝心なのは、作品である。依然として、それを当事者だけが見ていて、美術界にいる他の専門家に実見する機会が与えられていないのは、異常であり、このままでは、先に進まない。もはや、一切が行政の手を離れたのだから、所蔵者は、作品ならびに資料の公開を自発的におこなうべきだ、という感想を強く抱く・・・・もし、この本に述べられていることが、事実だとしたら、存の佐伯作品のうちの少なからぬ作品が、未亡人米子の手で修正もしくは完成されて世に出た事になり、以前から漠然とした伝承であったものが、現実と見なざるをえなくなる。・・・未知の作品が出現した場合には、既存の作品をす基準として判断するのが常道である、とはいえ、この場合には、視点の取り方が簡単ではない。その迷路を探りながら、この画家の既存・未知の総体的な検討が必要となってきた。

 再び言うが、実に達意明快で、まるで文章のお手本のようである。ところで、私は平成七年の末、武生市から返還を受けた絵画と資料に加えて、さらに大量の吉薗資料を預かったが、決して資料を独占し、秘匿する積もりはなかった。そのことは、前掲拙著を読んで貰えば、おのずから分かる筈である。当方から「エライ先生をお尋ねし、資料を示して宜しくご調査を懇願する」という形にしなかったのは、吉薗明子が河北・匠の両先生に頼り、結局は大失敗をした例を眼前に見たからである(この条は拙著に詳しい)。だが、どなたにせよ、ご光来頂いたら絵も見せるし、ある限りの吉薗資料をお目に掛ける所存であった。瀬木先生とて資料の詳細を知りたければ、いつでも機会があった。つまり、美術記者を通じてなり、本人から私に訊ねてくれば、無条件でお見せしたことは論ずるまでもない。それに「見せない、見せない」と三谷氏は言うが、氏の配下は誰も一人として、見に来なかった。また、これまで何人もの新聞・雑誌記者には見せたが、結局、何も起こらなかった。

 いや、一つだけ大きな例外がある。それは福井テレビ(フジテレビ系)で、同放送のスタッフから平成八年春ころ私に連絡があり、吉薗資料を見たいとのことで、むろん私は快諾した。資料撮影はすべて落合事務所で行い、同年六月二十八日放送の「スーパータイム」となった。番組では、新発見の資料に焦点を当てて米子加筆説を紹介し、寄贈作品についても、真作説の修復家杉浦勉氏と贋作派の画商三谷氏を対比させた。

 私は、これがきっかけになり、研究者や専門家から、資料や作品を見たいと希望してくることを期待していたが、結局、専門家はおろか美術マスコミすら来なかった。こちらが見せぬのではなく、見に来ないのである。そのくせ、口先では「見せないから判断しようがない。見せないのは品が悪いからだろう」として、「所蔵者が見せない」と強調して、贋作との心証を誇張する。その論理を君たちにも適用すれば、「君たちが見に来ない」ことが、事態の解明を本当は嫌がっている、との当方の心証となるわけだ。

 これが実情なのだから、瀬木先生におかれては、せっかく関係者の中心人物三谷氏との対談の機会をとらえ、次のように確認して頂きたかった。端的に「石井三柳堂で扱っていた例の佐伯の絵は■■の■■■■ですか?」と。そしたら、どんな答えが帰ってきたか、知りたいものである。事ほど左様に、関係者少なくとも東美鑑定委員会は、三谷氏の口振りとは裏腹に、吉薗資料から逃げたがっている。 

 ところで、例の対談に戻るが、いかに三谷氏の著書に出演されたかといって、瀬木先生が「心棒がわからないですね。春峰庵事件の浮世絵の贋作も、はじめはそうでした。しかし、間もなく元が発覚して捕まったからいいですが、佐伯祐三の問題は元がわからない」なぞと、三谷氏にひたすら同調されるのには驚く。これはしたり、書評のご高見とは大きく矛盾するのではござらぬか。吉薗佐伯の「心棒」は、誰がみても吉薗周蔵です。そのことはすでに拙著で明らかにしたし、先生自ら書評でそのように、ご高評いただいているではありませぬか。私はその後も「陸軍特務周蔵の手記」を月刊「ニューリーダー」に連載して、この三月で四十八回目になります。いやしくも歴史理解力のある日本人で、周蔵の存在を疑う人は、最早いないとのことです。

 また、吉薗佐伯を贋作の春峰庵事件と対比させるのも、いかがなものか。私を笹川臨風博士に擬されるご所存か。それに、三谷氏のいう「心棒」は本物のことをいうが、先生のいわれる「元」とは贋造元のことではありませぬか。吉薗佐伯には、そんな贋造「元」なぞ、最初からどこにもおりません。瀬木先生にして、いつの間にか姦商の奸策に乗じられたか、と心配です。

 

  E.だから、TBSは誤っている

 私が、先にあげたTBSの二番組における吉薗佐伯の取り扱いを不当と叫ぶ理由は、以下の通りである。まず、武生市真贋問題の経過を要約すると、

1.平成五年、阿王桂氏が吉薗佐伯十六点を東京美術倶楽部に鑑定依頼。ノーコメントとの回答。

2.平成六年十二月、武生市議会で吉薗佐伯五点を内覧。二十五日、東京美術倶楽部記者会見にて、「そのうち一点をすでに贋作と鑑定」と発表。根拠は「画布にテトロン混入」。ただし「資料はたぶん本物だろう」。《これが、第一次贋作事件たる東京美術倶楽部の贋作鑑定事件》

3.平成七年春、武生市は「調査の結果、テトロン混入なし」と発表。《これで、東京美術倶楽部の贋作鑑定は正式に覆され、第一次贋作事件は解消して、振り出しに戻った》

4.平成七年五月、武生市、吉薗資料の調査を開始。小林頼子氏に委嘱。 

5.平成七年十一月、武生市、小林頼子報告を発表。「資料は偽造の可能性大、故に作品も贋作の可能性あり」。《これが第二次贋作事件たる小林報告書事件》

6.この頃、吉薗明子、落合莞爾事務所に調査依頼。

7.平成八年新年。共同通信は「米子書簡発見、加筆を告白」と配信。《これに対して有力反証は出ず。よって米子加筆説が確立し、寄贈品の山発コレクションとの相異性の説明がつく》

8.平成八年春、落合事務所より、武生市に通告「小林頼子報告はまるでデタラメ。その内容をすべて覆し証明することができる」と。

9.平成八年六月、武生市にて落合は記者会見し、落合報告書を配布。市役所で閲覧。《これで小林報告書は転覆し、第二次真贋事件は本来解消し、事件はまたも振り出しに戻る》

10.平成九年五月、落合著「天才画家佐伯祐三真贋事件の真相」発行。これに対し、瀬木氏、千葉氏等から好意ある書評。根拠ある反論は今にどこからも出ず。《これで、関係者には、作品と資料を再検討をする義務が生じた》

 以上に見る通りで、武生市真贋事件の内容は、実質的に二つに分かれる。第一は画商鑑定事件、第二は小林報告書事件である。画商の贋作鑑定は、その唯一の客観的根拠であったテトロン混入説が武生市によって覆されたし、実質的に最大の根拠であった「寄贈品が山発コレクションに似ていない」とする印象的な意見は、米子加筆説が立証されることで完全に覆り、再検討すべきこととなった。

 武生市の資料つぶし事件の報告書は、拙著によって完全にひっくり返ったことは、島根県議会の議事録にもある通りで、決して手前味噌ではなく、誰しも認めざるをえないと思う。つまり「資料が偽造だから、作品は検討に値しない」とした武生市の論理は完全に崩壊し、振り出し(つまり、作品そのもの)に戻ったことになる。つまり「吉薗佐伯が贋作と鑑定された」というのは、過去形としていうなら、それはそれで正しいが、TBSが、それを 現在完了形として用いたのは、とんでもない誤りで、不当なことなのである。

 

  F.振り出しに戻ろう 

 さて、私の周蔵研究は今やほとんど済んだ。そろそろ瀬木先生のいわゆる「振り出し」すなわち佐伯作品に戻らねばならぬ頃合いである。この項の最後に、「所蔵者は、作品ならびに資料の公開を自発的におこなうべきだ」とのご指摘に答えておかねばならぬ。

 まず、武生市寄贈品は三十八点のうち、一般の人に見すべきほどのものは、せいぜい十枚に満たないと私は思う。理由は、油絵とはいえ下描きで、それも出来の優れないものが多いからである。そんなものが遺品として存在するのは、佐伯祐三が短い画業人生のなかで、絶え間なく彷徨した証拠だからである。吉薗資料中にある周蔵宛の祐三書簡にも、「悪い物は捨ててくれ」とあるが、たしかに、本来は破棄すべきであったものも多い。そして、拙劣の評に甘んずべきこれら作品の印象が、武生市真贋騒動(その本質は「資料疑惑」なのだが)に輪を掛けたと考える私は、意図的に公開を避けた。尤も、さる修復家は「これを素材にして米子風の加筆をしたら、山発コレクション並の結構良いものになる絵が、相当ありますよ」と言われた。しかし、私がまさか今さら画商になって、それをやる訳にもいかぬ。

 吉薗佐伯を世間に見せる役目が、ある意味で私に回ってきた。しかし、修復しない絵では本当の姿が伝わらない。そんなもの迂闊に見せれば、とんでもない誤解を被ることを、私は「芸術新潮」の手口で知った。今日、三谷氏らの尻馬に乗って、見たこともない吉薗佐伯を、悪い悪いとけなす輩のほとんどは、「芸術新潮」平成八年四月号に掲載された十六点の写真を判断根拠としているのである。その十六点は、阿王桂が東京美術倶楽部に鑑定に持ち込んだ吉薗佐伯であるが、修復と額装がなされておらず、歪んだ原画を一堂に並べて斜め上から撮った写真を、「芸術新潮」は所蔵者の承諾もなく掲載して、「こんな佐伯があるものか」と天下に誹謗した。その写真を新潮社に渡して、その記事を書かせた勢力の正体は、読者もすぐに見当を付けられるであろう。

 吉薗家は、手元の本格画の一部を二年前から、「インターネット美術館」として発表してきた。吉薗家から本格画を十何枚か引き取った大阪の一流画商T氏は、平成十一年に逝去されたが、早くから公開を望んでおられ、武生返却品と吉薗資料も並べて一緒にやろうと何度も言われた。しかし、会場費用はともかく、修復、額装、運賃、保険等の費用をどうするのか。合わせると一点百万円では済まぬようで、返却された寄贈品に幾つかの未公開本格画を加えて四十点ともなると、四千万円を軽く超すわけだが、私にはとてものことにその資金を作るアテがなかった。もう一人の本格画の大口コレクターとして、山甚産業の山本晨一朗氏がおられるので、本当は三者が協力し合わねばならないのだが、山甚産業と吉薗家の間が金銭トラブルになっていたから、私としては傍観するしかなかった。実務的能力に欠けることを深く反省する次第である。

 私といえば、最近まで、武生市返却品の作品と資料を、吉薗家から担保として預かっていたが、その他にも「吉薗周蔵手記」が手元にある。これは、真贋事件とは直接関係はないが、根本資料として「ニューリーダー」紙上にすでに四年間、周蔵に関することを連載してきたから、ついでに佐伯の事績も随分明らかにしたと思う。武生市寄贈品の絵と資料は、先般の刑事事件に際し、山本晨一朗氏から吉薗明子に対して強い要求があったので、私がこれらを吉薗に返還して、以て債務弁済に充当せしめた。

 そんなわけで、あの吉薗資料、佐伯のデッサン・メモ等は、今はほとんど山甚グループの所有に帰した。おそらく山本氏が、今や吉薗佐伯の最大のコレクターではあるまいか。ゆえに今後は、山本氏が自発的に作品の公開を行うことが、期待される。ただし、吉薗資料については、幸い写真があるので、私の研究と発表には事欠かない。

                                  (続く)

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