天才佐伯祐三の真相    Vol.5

 

    第四章  佐伯祐三の生涯(1)−−−結婚まで

 

 第一節 出生から美術学校入学まで

 佐伯祐三の生涯はすでに幾つかの評伝に著されている。彼の生活には裏があったが、俗流評伝はその表側しか観ておらず、真相に迫ったものは一つもない。ここで私は、佐伯の生涯の真相になるべく簡潔に接近したいので、従来の評伝家が知らなかった事実、つまり吉薗資料により新らたに知り得た事項に限って述べることにした。

 佐伯祐三の出生や北野中学卒業までの学歴、少年時代のエピソードなど、表側については、従来の評伝の年譜(その最も詳細なものは朝日晃「佐伯祐三のパリ」)を大きく否定するほどの新事実はない。だが、それでも、以下の点に付いては、佐伯祐三の真相を知ろうとする者は、予め心得ておかねばならぬ。それは、佐伯祐三自体が一つの歴史だからである。

 まず佐伯氏は古来の大姓で、大伴氏から別れたとされる。ともに弥生系の渡来人と思われるが、由来軍事に携わり、参謀総長に比される大連の職を世襲した大伴氏の下で、諜報活動や資源探索に従事していたが、やがて白山はじめ日本各地に勢力圏を築き、密教を将来した弘法大師空海も、四国のこの一族から出た。渡唐した空海のための仏具購入費として、白山産の砂金が渤海使に委託されたが、これも佐伯一族の尽力によるものである。爾来、佐伯氏は密教に傾いたが、鎌倉宗教改革の折りに、浄土真宗に改宗した者も出た。

 佐伯の生家光徳寺は、浄土真宗本願寺派の名刹とされるが、天文年間の開基で、歴史と規模のわりに檀家が少ない。「密教」という語には、「他宗に潜入して本来の教義を遂げる」という意味もあるらしく、父の祐哲は地方布教に寧日がなかったとされているが、実は主として山村を徒渉し、加持祈祷ならびに特殊な活動を行っていたと伝わる。長男祐正とともに、西本願寺門主大谷光瑞師の配下として、諜報活動にも携わってもいた。

 

  西本願寺22世門主 大谷光瑞

大谷光瑞の別荘 二楽荘 (神戸市東灘区岡本・甲南大学の北側)1916年(大正5)久原房之助の手に渡るが、その後不審火にて消失
 

 そのような家系に生まれた祐三は、名門北野中学に入学して大谷光瑞師の注目をひき、中学時代すでに諜報を命ぜられ、抜群の成績をあげた。本願寺の諜報員として将来を期待された祐三は、その道を確保するために、得意の画業で名を挙げることを命じられ、ここに東京美術学校への入学が当面の課題となった。

 とりあえず新卒での受験はあきらめて、受験浪人の身で美校を目指すが、一般学科に身の入らぬ祐三には入学試験を無事通過する保証はなかった。光瑞師は美校側に手を回そうとするが、当時美校は帝国海軍ことに薩摩人の勢力範囲であり、光瑞はその平常帝国陸軍に近すぎたため、海軍に道を持たなかった。そこで、かねて昵懇の陸軍参謀総長上原勇作大将に相談し、海軍工作を依頼した。上原勇作はこれを引き受け、配下の「草」たる若松安太郎(本名は堺誠太郎)を通じ、自身の従兄弟の子にあたる吉薗周蔵に、一件の善処を命じた。周蔵の祖母ギンヅルが戊辰戦争の時、京都の薩摩屋敷で面倒を見た少年兵山本権兵衛が、今は帝国海軍の総帥となり、周蔵に目を掛けていることを、上原は利用しようとしたのである。

 大正六年八月の初め、上原の命で築地本願寺を訪ねた周蔵は、佐伯祐三の美校裏口入学の工作を引き受ける。祐三本人は八月末に上京して、しばらく築地本願寺に起居していたが、九月二十一日に、府下豊多摩郡中野村字小淀九六番地に在った、周蔵が経営する精神カウンセラー施設「救命院」を訪ねてきた。現在の地名は中野区中央だが、救命院の跡は神田川の改修のため、今は川底となっている。

 佐伯は今後、表側では画家として大成してゆかねばならないが、裏では諜報活動を怠れないから、裏作業の痕跡を隠すためのアリバイが必要になる。そこで二人は、佐伯の以後のアリバイ作りのために、佐伯を救命院の患者ということにして、その診察日誌を記録しておこう、と決めた。これが「救命院日誌」で、その内容はすべて佐伯が文案を作り、記帳を周蔵にさせたのである。

 こうして、自分の下宿が(実は二カ所に)ありながら、日夜救命院でごろごろしていた佐伯は、そこで藤根大庭や布施一、医師牧野三尹、それに日本共産党の草分け徳田球一らと知り合う。メニエル氏病の因子を持つ佐伯は、たびたび発作で苦しむが、これを救ったのは、周蔵が作った阿片チンキであった。その間にも受験の日が迫り、佐伯は不合格の不安で狂いそうになるが、結局、大正七年三月二十九日、第四位で美校に合格した。元首相山本権兵衛の政治力で、入試の点数が幾らか嵩上げされたものであろう。

 

 第二節  独身画学生時代

  A.業界に奉仕した米子流佐伯伝

 大正七年春、佐伯は首尾よく美校に入学した。それ以後の美校時代の行状に関しては、さすがに学友たちの経験や観察が、かなり残されている。しかし、それらは相互に矛盾していて、以前から評伝作者を悩ませていた。

 佐伯の評伝者として早く現れたのは、阪本勝と朝日晃である。この両人はともに米子未亡人からの伝聞に基礎を置いたから、事実が米子風に改竄されているところに致命的な欠点がある。だが、米子加筆品が業界の主商品となるや、米子流の佐伯伝は、業界にとって却って都合のいいものとなった。ところが、米子は時間的観念が粗雑だったため、時日の記憶に誤りが多く、甚だしきは自身の年齢を違えたり、一人娘の生年を間違うなど、論外の撞着が見られる。朝日晃ら米子の祖述者たちがそれに振り回されたことは、彼らの作になる現行の評伝をみれば、すぐに分かる。

 そこへ平成七年、これらを総括して修正する新資料が忽然と現れた。すなわち吉薗資料である。なかでも「周蔵手記」は、吉薗周蔵が後年の自分を守るために、備忘的に記したもので、自身の思い違いや聞き誤りはともかく、本質として事実に即したものである。また、「救命院日誌」は、佐伯祐三のアリバイ作りのためのもので、その必要な限りでの虚構はあるにせよ、他に不必要なウソはない。そこで、上記二つを照らし合わせると、自ずから真相が浮かび上がる。

 吉薗資料から判断すると、評伝として朝日・阪本より信頼できるのは、佐伯の無二の親友だった山田新一の「素顔の佐伯祐三」である。山田にも時日に関する記憶の混乱が幾つかあるが、米子ほどではない。「救命院日誌」と「周蔵手記」には、親友の身を案じた山田が、佐伯が日常口にする周蔵を訪ねてきたことが、一再ならず記録されている。周蔵と同郷の山田は陸軍と関係があったといわれ、自らの判断か周蔵の口止めによるのか、周蔵のことを外に語らず、また佐伯の評伝にも一切触れることをしなかった(それが結果として、武生市真贋事件の際、吉薗明子には祟った)。

 朝日晃が近著「佐伯祐三のパリ」(平成六年公刊)で、従来の年譜のうち美校時代の部分を根本的に改めたのは、昭和五十五年に山田のが著した「素顔の佐伯祐三」によって米子からの伝聞の誤りを覚り、おそまきながらこれを修正したもの、と推察される。

 

 B.九州宮崎への旅行

 山田の著をも含めて、従来の評伝に全く出てこないのは、大正八年の暮、実家に帰った周蔵を追って、佐伯が宮崎県小林まで往った事実である。同年六月、ケシ栽培の推進のために北海道の巡回を計画をした周蔵は、佐伯に「宮崎に帰郷する」とウソをついて、別れを告げた。実際は北海道には逝かなかった周蔵は、東京にいながら、中野小淀の救命院にまったく顔を出さなかった。当時の救命院には、佐伯のほか徳田球一や布施一など、得体のしれぬ怪人物たちがゴロゴロしていて、危険を感じたからでもあった。

 ところが十二月十八日、在京の周蔵に宛てて郷人前田治兵衛から電報があり、「急ギ指宿ニ来イ。宿ドコデモ善シ」とのことで、早速発つ。指宿の旅館には、周蔵の父林次郎、前田治兵衛、南郷次助とともに佐伯祐三がいた。つまり、周蔵の帰郷を確かめるために、佐伯はわざわざ宮崎県小林の実家まで訪ねて往き、周蔵の留守を預かる形の父の林次郎は、これを一種の査察と心得、女婿南郷次助と前田治兵衛に依頼して、小林から遠く隔たった指宿まで佐伯を連れだして貰い、ここで迎撃体制を整えたわけである。

 

 C.佐伯のメニエル氏病

 佐伯の突飛な実家訪問で、一ヶ月の九州滞在を余儀なくされた吉薗周蔵が、帰京したのは大正九年の正月十七日であった。指宿の旅館に体よく軟禁された佐伯は、周蔵に連れられて青島、知覧を見て、帰京した。その帰路、佐伯は大阪の実家に帰らず、周蔵も小林の実家に帰らなかったらしい。

 さて、当時の「救命院日誌」には、

◎留守中の経緯

◯級友山田ナニガシト、伊東熱海方面ニ写生ニ行キ、海ノ波ヲ見タダケデ酔ッテ吐イタ。

ソコヘ加ヘテ 舟ガ浮ヒテ グラグラシテイルノヲ見ルト 余計酔イ、食ベテモイナイノニ、吐イテシマッタ。

と記されている。これに対応するのが、山田新一の「素顔の佐伯祐三」である。

 僕は佐伯と二人きりで、たしか一週間か十日位、網代へ写生旅行に出かけた。(中略)桟橋で船に乗る段になって、途端に佐伯は「どうしても船に乗るのはいやや」と言い出した。「どうしてだ」と訊くと、「わしはもう、船はよう乗らんね。あの桟橋に浮いとる船が、波にゆられて、ゆうらゆうらしているのを見ただけで、胸がむかむかしてくんのや。いまにも吐きそうや」と言って、どうしても船に乗ろうとしない。

 「救命院日誌」には、行き先を伊東熱海方面とし、山田は伊豆網代とするが、これは同じ旅行のことで、山田著に掲載する写真からみて、大正八年の季節は秋だったようである。

 山田の評伝のこの箇所は、佐伯が持病メニエル氏病に悩まされていたことを明らかにしており、重要である。すなわち、俗流評伝はまったく触れないが、佐伯は短い一生を通じ、常にメニエル氏病に悩まされていた。「救命院日誌」大正八年五月九日条に、佐伯が酷いめまいを訴えるので、周蔵は牧野医師を呼ぶ。牧野が来る前に、カルテを取り出すと、「彼ハ馬ノ目デハアル」とある。牧野はメニエル氏病と診断した。母親の遺伝であるらしい。

 夫のメニエル氏病を当然知っていた米子が、忠実な祖述者の朝日晃にもそのことを教えなかったのは、それなりの計算によるものだろう。つまり、芸術家の持病は当然作品に影響を与えるが、佐伯の場合はむしろ意識的にそれを活かし、晩年「フォービズムでもアカデミズムでもないワシの芸術」として結晶させた。このゆえに佐伯の原画には、当然メニエル氏病患者の特徴が強く出ていたが、米子の加筆により、それはあらかた消えた。夫の作品からメニエル氏病的特徴を意図的に消した米子にとって、夫のメニエル氏病は、自分の加筆と同様に、絶対に隠さねばならなかったのではないか。

 これと逆なのは、佐伯の結核である。俗流評伝は佐伯の結核を重大視し、甚だしきはこれを栄養失調と並べて死因の一つとするが、明らかに誤解である。たしかに、周蔵に初めて会った日、佐伯は「ワイハ肺病ヤネン。セヤヨッテ長生キデキヘンネン」と言い出して驚かせるが、実際は佐伯の生涯を通じ、結核はさほど重いものではなかった。確かに、幼児性結核に罹って家族から隔離されたのは事実であるが、それは治り、中学校では運動好きの活発な学生であった。つまり、佐伯の結核は、「病弱にして薄幸の天才」という境地に自分を追い込むために、自分で作り出した妄想なのである。「救命院日誌」には、毎日必ず脈拍と体温を計る場面があり、実際にも自分で計ったりしていたが、これはアリバイ作りのためであり、記載の数値は大袈裟で、信ずべきものではない。

 米子に源発する俗流評伝が佐伯の結核を強調するのは、その文学的・悲劇的要素によって佐伯芸術の価値が高まるという意図と錯覚がある。前者はむろん、それで高く売ろうとする画商的動機によるもので、米子ですら晩年の周蔵宛て書簡で、そのことを指摘して笑っている。後者は、俗的感覚を以て佐伯芸術を理解したがる、佐伯ファンの自分勝手である。従来佐伯を論じてきた者は、もし夫れ画商の宣伝機関に非ざれば、必ずや浅薄な俗流鑑賞家といわざるを得ない。

 だが、メニエル氏病こそは、佐伯芸術に本質的な関連を有している。吉薗佐伯は山甚産業や阿王氏らの手で、間もなく世間に登場するであろうから、当世気鋭の評伝者には、本物の佐伯芸術とメニエル氏病の関係を実証し、佐伯のいう「馬の目を持ったワシの絵」の本質を解明して頂きたいと思う。

 

 D.池田米子との出会いと紀伊勝浦旅行

 人には必ず運命の分岐点がある。佐伯祐三の場合、それは、何と言っても池田米子との遭遇であった。「救命院日誌」にも「周蔵手記」にも、佐伯が本郷弥生町の大谷家に下宿を移り、その娘キクエの紹介で池田米子に知り合ったことが、大正九年四月四日の条に出てくる。これが、吉薗資料における米子の初出であるが、佐伯は二人のそもそもの出会いを、どこにも記していない。けだし、二人の出会いはもっと古く、遅くとも大正八年の春を下ることはあり得ない。

 米子は戦後、「婦人の友(四十九巻八号)」で自伝を語るが、「私が佐伯に初めて会いましたのは、祐三が紀州に写生に行くというので、百号位のキャンバスの巻いたのと、絵具箱を肩から下げて、ホームに立っている時でした」と云う。朝日晃著「佐伯祐三のパリ」には、祐三の兄嫁千代子が「紀伊勝浦で描いた百号の絵があったが、世話になった医者に贈り、戦災で消失した」と語ったとあるが、その絵は、間違いなくこの時の作品である。これついて、山田新一も前掲著で、「大正九年の秋だったか、和歌山の勝浦に行って、大いに頑張り百号の大作「夕陽の海」(戦災で消失)を描いた。これは我々友人から見るとクラスで最高の傑作で」と記している。正確には大正八年夏で、つまり同じ絵なのだが、渦巻く波濤を描いたのなら、この時はメニエル氏病は治まっていた筈である。

 紀勢線が開通していない当時、南紀に逝く佐伯が東京から直行する手だてはなく、汽車で大阪に帰り、大阪から船で南紀に向かった筈であるから、「紀州に写生に行く」というのは、端折った言い方である。『ふりかえって見る関西洋画壇』で米子が言う「夏休みに帰阪する折、新橋まで見送った云々」が正しい。

 また米子は、谷中の下宿に一度ならず佐伯を訪ねたことを語っており、米子は、新橋駅の見送りより以前に、谷中の下宿に何度となく佐伯を訪ねたようである。こうして見ると、「婦人の友」よりも、後者の方が正確で、それなら初会も新橋駅頭ではなく、どこか他所であったろう。そして、その後佐伯の下宿を訪ねて往っていたに違いない。つまり、旧知の仲だからこそ、新橋駅頭の見送りとなったわけである。

 佐伯の南紀行と米子との出会いについて、「周蔵手記」にも「救命院日誌」にも、直接何も触れていない。周蔵自身の手記に触れていないのは、佐伯と離れていた時期の事だから、当然である。佐伯の文案になる後者は、周蔵留守中の半年分を大正九年正月にまとめ書きしているが、そのとき勝浦行を意識的に削った理由は、おそらくこうだ。「救命院日誌」大正八年の春と秋の条において、メニエル氏病をやけに強調した佐伯は、夏の勝浦で逆巻く波濤を大作に仕上げた事実には言及したくなかった、のではないか。

 

 第三節 下宿とアトリエ

  A.大谷家と佐伯の関係

 まず、佐伯と米子の仲を取り持ったのは誰か、という問題がある。

 俗流評伝によれば、象牙商の池田家は、元は大阪出身で光徳寺の檀家であり、東京でも築地本願寺に通い、そこで佐伯の父祐哲の法話会に出ていたが、親しい信者仲間に本郷弥生町の大谷家があった。大谷家の娘キクエは祐三の兄祐正と恋仲で、父兄の関係で大谷家に下宿した佐伯は、キクエの紹介で池田家の娘ヨネと知り合った。これが従来の定説で、山田新一の評伝もほぼ符丁を合わせている。朝日の近著「佐伯祐三のパリ」には、佐伯の父兄と大谷、池田両家は元々知り合いなのだから、だれが紹介するとなく、自然に知り合ったかのごとく、述べている。

 大谷家も光徳寺の檀家で、大阪に住んでいた時代があり、祐正とキクエは幼なじみであったとする朝日晃の説は正しいかどうか。これについて、米子の回想(「婦人の友」前掲)にも、「大阪に住んでいるころ災害に遭い、家を亡くして、佐伯の寺に一家で泊まった関係」と極めて明快であるが、米子には文飾が多いため、俄に信じられない。しかし「周蔵手記」後日の条にも、「大谷は光徳寺にとって大事な檀家」としているから、寺と密接な関係があった家であることは間違いない。ただ周蔵のいう檀家は、通常の菩提寺と信徒との関係ではなく、寺と在家の「経済的・経営的に密接不可分に結ばれた関係」を意味するらしい。

 大谷家は女系家族で、俗流評伝の唱える所では、当主の作は新橋で芸者置屋を経営していたというが、きれい事に過ぎる。以下は、京橋区新栄町五丁目三番地に事務所を開いていた堺誠太郎から、実際に聞いたという現存人物の話である。「実のところ、大谷作は栃木県から上京し、墨東の某所で働いていて、祐哲と知り合った。新橋芸者といえば政財界人の相手をする一流芸者だが、大谷作が開いていた芸妓置屋は、新橋でなく新富町にあり、いわゆる枕芸者を抱えた旅館であった。自分の事務所は近くだったから、よく知っている」。これで、「キクエがその家業を嫌い、クラスメートにも隠していた」という意味も理解できよう。寺にとって大事な壇家というのは、芸妓置屋の収入が寺の財政に深く寄与していた、という意味なのである。

 佐伯の兄祐正は、母親も認めていた大阪娘と別れてキクエと婚約するに至った事情を、次のように周蔵に告白している(「周蔵手記」大正十五年六月の条)。「告白すると、自分は弟の妻と関係があった。結婚も考えなくはなかったが、寺の裏方に向いていない恐ろしい所があると思い、勇気がなかった。弟は下宿すると、その壇家の娘キクエとすぐ恋仲になった。自分が曖昧にしていたので、米子は『弟ト 下宿先ノ娘トノ間ニ割リ込ミ 実弾攻撃ニテ 弟ニ移ッタ』。ところが、光徳寺にとって大谷家は、財政的に特に重要な檀家であったから、自分が気を利かして、キクエに積極的に出た」。

 いずれにせよ、米子と佐伯の出会いは遅くとも大正八年の初夏以前、もっと云えば、後に下宿の項で述べるように、四月以前でなくてはならぬ。明治三十年生まれで、時すでに二十二歳の年増娘米子は、何度か谷中の下宿に佐伯を訪ねていた。この間一年ほど、根津局の局留郵便で密かに文通していたのは、家族に隠れてするデートの連絡のためであろう。それが「実弾攻撃」に発展したのかどうか、その辺りを佐伯は「救命院日誌」には、意識的にまったく隠した。

 ただし「周蔵手記」の大正十五年六月条に、周蔵は推理して、以下のように思う。すべては大谷光瑞師の密命で行なわれたもので、計画の骨子は、「米子を佐伯の妻にして、画業を指導させる」ことにあった。祐正は光瑞の命令通り動き、米子をあきらめる。佐伯は命令にしたがって、キクエをあきらめて米子に移り、兄は交代にキクエに移った。その真相を漏らすわけにはゆかぬ祐正は、周蔵をごまかすために、恋愛事件として説明したと。さすれば、「実弾攻撃」は、計画の円滑な進捗のために実行せられた、ともいえる。

 佐伯が「救命院日誌」に、米子とキクエについて唐突に書き出すのは、大正九年四月四日条である。「周蔵手記」に記されたその実状は、奥多摩でケシの種蒔きをしていた周蔵の所に、四月二日に手伝いに来た藤根大庭が、「佐伯が色気づいて困っているから、一度救命院に戻ってくれ」と訴えたので、あわてて中野へ戻って、佐伯に会ったのである。

 以下は「救命院日誌」(周蔵の口調だが、文案者は佐伯である。かな・漢字は適宜改めた)。

四月四日  日

  体温 37度

  脈拍 78

住所変更

  本郷  弥生町   大谷方

「キクエはん云う娘さんが いるんや」と唐突に話しだす。

◎そのせいで  浮かれてるなと からかう。

「キクエさんの友だちが遊びに来はって、ワシに会わせてくれたんやけど、こん人もきれいな人や」

 佐伯は四月十二日、米子から恋文を貰い、狂喜して周蔵に見せに来る。内容は「絵を見せてくれ。これからつきあって欲しい」というものだが、その翌日には、早くも米子との結婚を言い出す。二十日には酔っぱらって救命院に夜襲をかけ、結婚させろとわめく。その間わずか数日では、なんぼ何でも性急すぎる。

 これは、米子が「下宿訪問を重ね、一年も文通し、駅頭に見送り」と回想するところとは、様相が全く異なる。山田新一前掲著も、米子との仲を父兄に知られたくない佐伯は「自然に長い間、文通のみの愛情が交換されていた。お互いに新橋と根津の郵便局に局留にした手紙を取りに行くような間柄であった」「文通による愛情の交換は、およそ一年ほど続いたように記憶する」としている。山田は、佐伯の下宿先の移転ぶりを「九段坂上→谷中→高田馬場→本郷弥生町」と回想している。谷中真島町を根津八重垣町とも表現するが、根津は谷中の隣であり、佐伯が谷中で密かに文通していたことは事実と見て良い。後に明らかにするが、佐伯は高田馬場と谷中の二カ所に下宿を持っており、米子にはその両方を教えていた。どちらもデートに利用していたのであろう。

 つまり、どう見ても米子の回想の方が自然で、したがって、「救命院日誌」の記載の急速な恋愛展開は虚偽なのである。佐伯が「救命院日誌」に、前年初夏からの経緯をまったく端折り、四月四日条に「唐突ニ話シ出ス」と記したのは、周蔵を前にして、極めて唐突に米子を持ち出したことをも意味する。そもそも、それまで約一年間(いや正確には二年間)も周蔵に女性問題を隠してきたのは、それが重要な秘密事項だったからである。やっと表に出すべき時機が到来して、ここに「佐伯ガ急ニ色気ヅイタ」という熱愛芝居を自作自演したと見る他ない。隠してきたからこそ、このような運びとなったわけだが、そこまで隠蔽したのは、光瑞師の指示による機密事項だったからと見るべきであろう。そうすると、藤根や周蔵というただ者でない連中の前で、これだけの芝居を打ってきた佐伯祐三は、その道の大物と見て、間違いない。

 また、佐伯が大谷家に下宿してすぐキクエと恋仲になった、と祐正は言う。その下宿入りが大正九年四月とすると、時間的に筋が通らない。大正九年には、佐伯兄弟と米子・キクエの四人のねじれた男女関係は、それぞれパートナーを取り替えて収まっており、しかも、局留文通や下宿デートにみるごとく、その状態がすでに一年も続いていた。祐正の言の通りなら、佐伯が最初に大谷家に下宿した時点は、大正八年よりさらに遡るものでなくてはならぬ。これについては、下宿の項に明らかにするが、佐伯が大正七年六月に下宿した「本郷帝大ソバ」こそ、大谷家ではなかったか。

 

 B.下宿の真相は

 上京した佐伯祐三は、結婚まで、どこに下宿していたのか。

 朝日晃の著書「佐伯祐三のパリ」は俗流佐伯評伝の代表であるが、同時に瑣末主義の見本でもある。それには、佐伯の下宿先について、以下のように述べる。「最初の九段上から、川端画学校、美術学校入学前後の上野の谷中、そして、高田馬場、さらに山田の記憶する本郷へ移ったのが本科三年生のとき、と四回動いている・・・・ただ、谷中にいた期間と、高田馬場での位置期間は明確を欠く」と。甚だもどかしがり、さすがの瑣末主義者も、匙を投げた感がある。

 思うに、朝日晃氏にとって、下宿の位置と期間が明確を欠くのは、「佐伯が美校へ提出した入学願書の現住所が谷中である」(同著)ことに由来するのではあるまいか。ところが、この願書の一件こそ、下宿先の不明確さの原因であると同時に、解明の手掛かりとなるのである。そこで、朝日氏はじめ佐伯評伝家の研究に資するために、以下に佐伯の下宿の問題を解明してみよう。これには「救命院日誌」に、時々の住所変更を報告してあるのが、何より参考になる。それは、以下のようなものである。

  大正六年九月二十一日  九段田中方

    七年四月十四日  九段坂上ヤマシタ方

      六月 九日  本郷 帝大ソバ

      十月十二日  高田馬場 カイヤ方

     十二月 一日  谷中真島 タバコ屋二階

    八年四月三十日  夜逃げ、行き先は前の下宿(高田馬場)

   九年一月二十一日  谷中

      四月 四日  本郷弥生町大谷方

 これが問題解明のカギになるのだが、それはしばらく忘れて、俗流の評伝が解明できなかった佐伯の下宿の矛盾を見てみよう。問題の焦点を絞ると、美校に入学願書を提出した佐伯の住所が、山田の回想通りなら「九段坂上」の筈なのに、願書には「下谷区谷中真島町一の三 荻野権兵衛方」としてある点の解決が、根本的に要求される。

 上京直後の大正六年九月から翌春の美校入学までの佐伯の下宿について、一緒に川端画学校に通った山田新一が前掲で、次のように明言している。「九段上の坂を登った右手、靖国神社の大鳥居広場の前の、わりあい立派な下宿で、北野中学時代の少し先輩で、慶応に通っていた沢さんと同居していた。佐伯が上京の折りに、同郷の沢さんを頼って一緒にすむこととなったのか(中略)佐伯は、この下宿からダラダラと九段坂を下り水道橋を経て、春日町の川端画学校に徒歩で通っていた」

 これだけ明確な記憶だから、信じるほかない。そうすると、願書の提出時期(大正七年末か八年の初頭)には、佐伯は九段坂上にいたことになる(これをとりあえず、「救命院日誌」のいう「九段田中方」と見ておきたいが、「九段」と「九段上」はやはり違うのではないか。あるいは、「九段坂上ヤマシタ方」の可能性がないでもない)。それなら、谷中真島町のたばこ屋は、一体何なのか?

 もう一つ、朝日晃が前掲に「祐三が東京生活に慣れ始めたのは谷中時代で、上京して布教する父祐哲に同行した兄も、弟の下宿生活を見に谷中のたばこ屋の二階を訪ねた」という。住所を明言するのも、遺族からの伝聞があるからであろうが、そこは山田新一によれば、谷中坂町を根津八重垣町の方へ降りていった角のたばこ屋であった(山田「素顔の佐伯祐三」)。美校に近く、いかにも新入生の下宿にふさわしい地区である。「ふりかえって見る関西洋画壇傑作集」には、帰省する佐伯を見送りに新橋駅に行った米子が、その夏を挟んで、何度か谷中のたばこ屋の二階の下宿に佐伯を訪ねた時の情景をつぶさに物語っている。

 こうして、少なくとも大正八年の秋までは、佐伯は谷中のタバコ屋の二階で米子を迎えていたが、翌年四月までに本郷の大谷家に移った。ところが、山田新一は前掲で、佐伯の下宿先を「九段坂上→谷中→高田馬場→本郷弥生町」と回想しており、大谷家の前の下宿は高田馬場だったことは間違いない。米子も、高田馬場に近くの戸山ケ原の林のほとりの一室を借りて、ここから美校に通っていた頃の佐伯も知っているという(「日本近代絵画全集」)。しかしながら高田馬場にいた期間が短かすぎて、何となく不自然なばかりか、佐伯の実家には高田馬場の下宿に関する資料が何もなく、だからこそ「位置と期間が明確を欠く」とて、朝日氏も匙を投げたのだろう。

 

 C.解明された真相

この 問題の解明に資するのが「救命院日誌」の記載である。もう一度、上記の一覧表をご覧頂きたい。佐伯は高田馬場と谷中の下宿を交互に出没している。私は、これを佐伯が同時に二カ所の下宿を借りていた、と推理した。下宿というより、諜報に携わっていた佐伯にはアジトが必要であったのだろう。そこで、若干の推察を敢えてして、佐伯の下宿問題を以下に推定してみる。

大正六年九月

 「九段田中方」と「救命院日誌」に記帳する(以下、単に「記帳」とする)。同時に「九段坂上ヤマシタ方」に、沢なる先輩と同居(これを見ても、佐伯の結核は問題にするほど重くはなかった)。

大正六年 秋

 九段田中方を引き払い、「谷中真島町タバコ屋二階」に移り、此処から美校に願書を出す。しかし九段上の下宿はそのままで、ここから川端画学校へ通い、友人山田を招く。

大正七年四月

 「九段坂上ヤマシタ方」と記帳。

大正七年六月

 「本郷帝大ソバ」と記帳。ここは、学友の山田も、遺族から聞いた朝日晃も、触れていない。おそらく、これは帝大の近く本郷弥生町の大谷家のことで、父の紹介で、臨時のアジトにしたものではないか。

大正七年十月

 「高田馬場カイヤ方」と記帳。佐伯は高田馬場に新らたにアジトを作ったが、学友と家族には知らせなかった。以後一年半は、谷中と高田馬場の下宿二本立てが続くが、実家や池田米子には、高田馬場カイヤ方を教えていないので、谷中しか知らない実家は、谷中時代の佐伯をしきりに回想するのに、高 田馬場について は伝えていない。

大正七年十二月

 「谷中の下宿」を初めて記帳。

大正八年 四月

 夜逃げした話を記帳。行き先は、前の下宿すなわち高田馬場。実際には高田馬場のアジトも以前から借りており、夜逃げは何かの芝居であろう。この頃から局留の手紙で文通を始めた米子は、春頃から谷中の下宿へ訪ねてくるようになる。級友にも周蔵にも米子のことを隠していた佐伯が、谷中を夜逃げして高田馬場に移ったと記帳したのは、米子に関わる何かの理由があるのだろう。尤も、周蔵は、この頃から帰郷すると称して佐伯を避け、救命院にも近寄らなかった。

大正九年 一月

 谷中に戻った旨の記帳。一月十七日に帰京して、二十一日に引越しとは、手回しが好すぎる。もともと谷中の二階を借り続けていたからこそ出来たわけである。

大正九年 四月

 「本郷大谷家へ移る」と記帳。周蔵から見れば、谷中から移ったことになるが、山田は高田馬場から移ったと回想している。これこそ、佐伯が二つの下宿を使い分けしていた決定的な証拠である。山田は親友として当然高田馬場カイヤ方を知っていた。しかし、佐伯の実家を情報源とした朝日晃には、そこが分からず、米子の言は今更信頼性が低いとあって「谷中の期間、高田馬場での位置期間が明確を欠く」と、嘆くしかないのであろう。

 そこで、問題は大正七年六月の「帝大ソバ」である。私は、これを本郷弥生町の大谷家と見ており、この時が佐伯と大谷キクエの出会いと考える。すなわち佐伯は、美校入学直後、おそらく父の指示で大谷家に下宿し、すぐにキクエと恋仲になる。後に、キクエを通じて佐伯は米子と知り合うが、二人の出会いは、大谷家への二度目の下宿入りから一年以上遡る時期と見ると、つまり大正八年四月以前と決定する。佐伯が米子との関係を表面化させるのは、キクエとの出会いから二年、米子と文通しだしてから一年以上経った後になるが、四人の男女の関係が収斂するためには、この程度の年月が必要ではなかろうか。

 

  D.アトリエの敷地事情

 美校生時代の佐伯の所業で、結婚と並んで最も有名なのは、自宅の新築とアトリエの増築である。増築には大勢の学友たちが参加し、後日それぞれに自分の思い出を語るが、これまた相互に食い違っていて、俗流評伝家を悩ませてきた。

 さいわい、吉薗資料はこの問題の解明にも資することができる。まず、家を建てるには資金も要るが、何よりもまず土地が要る。そこで、現在新宿区立佐伯公園になっているあの土地を、誰がどう手当したかという肝心の問題を、これまで評伝者が誰一人として論じていないのが不思議である。あれだけ瑣末主義を極める朝日晃にしても、この点については、何も明らかにしていない。米子と光徳寺を情報源にした朝日がこれを知らないということは、光徳寺は詳しく語らず、米子は遂に口を開かなかったからである。

 結論をいえば、この土地は元は借地で、地主は酒井億尋という人物であった。ここにいたる事情が、吉薗資料には明快に記されている。すなわち、「周蔵手記」大正九年九月十日条によれば、救命院にたびたび借金に来る佐伯に、周蔵は云われるままに貸していたが、これを見ていた会計係の池田巻が一つの提案をした。それは「一生の賭だと思ってこのまま絵を買ったり、後で絵を貰う約束で陰の援助をしてやってはどうか」というものであった。そのとき、巻は佐伯を分析して「佐伯サンテ 病人ニナリタヒノデセフ ト思フ」と云う。つまり、「病人ガ 病気ヲ押シテ絵ヲ書ク トイフコトデ、絵ニ対スル真剣サニ 自分ガ満足デキルノダト思フ」とのことで、これを聞いた周蔵には、俄然覚る所があった。佐伯は芸術的心境を自分で作るタイプと分かった。これこそ正に天才の境地と、日本精神科医の草分け呉秀三博士から、かねがね教わっていたからである。

 その直後、「救命院日誌」九月十五日条には、婚約者米子を伴って来た佐伯が、「どうしても中村彝の側に住みたい。知り合いで家を売ってくれる人がいないか」と言い出す。中村のアトリエを訪れるのは初めてではないが、今回は甚だ感激してきたらしい。米子も横から口を出して「私カラモ オネガイシマスハ。佐伯サンノタメニハ 中村先生ノ近クニスムコトガ 大切ト思ヒマスノ」なぞと云う。その夜、一人で出直して来た佐伯は「米子はお嬢さん育ちだから借家住まいはさせられん」と、周蔵に迫り、協力の約束を取り付ける。翌十六日条には「朝、大谷家ニ電話ス。待チ合ハス。一時。藤根サンニ電話ヲシタラ 布施サンノ スグ近クガアル由」とある。周蔵は、佐伯の新築に甚だ乗り気で、早速土地を探し始めるが、藤根も布施一のすぐ近くに格好の物件がある、と言い出した。地代は年払いで二十円にしてやれるが、「ソノカハリ、クハシク キカンデホシイ」とのことであった。道は付いてないが、隣もその隣も同じ地主で藤根の抵当物件だから、どこにでも付けられる。

 しかしながら、「救命院日誌」は元来佐伯の作文で、虚実半ばする「ツクリモノ」の日誌である。真実は周蔵自身が記録した「周蔵手記」に在るのだが、その当日条には何も書かれていない。逆に周蔵は、大正九年九月末日条を「佐伯ハ 金ヲ工面シテ家ヲ建テタヒ ト云ッテイルヤフダ」と、甚だクールに書き出すしまつである。周蔵によると、米子との結婚が決まった佐伯は、「資金を工面して家を建てたい」と言い出した。周蔵の知人藤根大庭は、常々佐伯に眼をかけていたが、応援することに決め、酒井ナニガシから土地を借りられるように、計らってやった。藤根は当時小金をため込んで金融を始めていたが、酒井は藤根の妻の同族で、当時は藤根の金貸しの代理を内職にしている人物との噂であった。荏原製作所の創業者畠山一清の女婿で、後に同社の社長・会長になる酒井億尋の名は、意外なことに美術史の片隅に残っている。田中穣著「中村彝」によれば、当初画家を志望しており、中村の友人であったが、眼を悪くしたので実業へ転身したという。たまたま私の知人三国陽夫(債券格付けで知られた三国事務所代表)の岳父でもある。

 佐伯が中村彝の近所に住みたい、と希望する点について、「周蔵手記」は

 「自分ガ今思フニハ 佐伯ハ 自分ヲ見張ッテイルノデアラフ ト思フ。犬ヲサセラレテイルガ 徳田サンヲ見張レバヨイモノヲ 自分ノ方ガアヤシイト 思ッテイルノデアラフ。佐伯ノ思フママニ サセテオクシカナイ」

と記している。本願寺の密偵は構わないが、それなら共産主義者の徳田球一を見張るのが筋だろうに、この男、事もあろうにこの俺の方が怪しいと思い、中村をダシにして近傍に住まい、俺を見張るつもりなのだ。そう見破った周蔵の呆れが伝わってくる。

 佐伯がアトリエを建てた府下豊多摩郡落合村字下落合六六一番は、大正年間の住宅地図によれば、隣と合わせて一筆で、地主は酒井億尋。今は新宿区中落合二丁目四番二一号と住居表示されるその地は、たしかに中村のアトリエに近く、直線距離で五百メートルしか離れていないが、周蔵の自宅の幡ヶ谷や救命院からは多少距離がある。いずれにせよ、佐伯がその後中村を訪ねたとの記録はない。

 藤根は、地主は酒井といったが、まことは金融を始めていた藤根が、抵当流れで入手したこの土地を、妻の親類の酒井の名義にしてあったものらしい。

  E.陰の応援者

 「周蔵手記」によれば、大正九年五月、周蔵は参謀総長上原勇作大将の密命を帯びて、満洲に渡ったが、その留守の間「救命院日誌」を記帳してくれたのは、藤根大庭と布施一である。両人とも風変わりな人物だが、佐伯のことは常々「彼は天才である」と批評しあい、佐伯との交遊を楽しんでいた。ことに、藤根がわが子以上に佐伯に入れあげるので、周蔵はいささか心配になったが、藤根の親類にあたる池田巻は、どうせ養子の太郎さんが使い果たしてしまうお金だから、と平気であった。

 藤根は大久保の全竜禅寺の塔頭の地内で、土木建築請負師をやっていた。その藤根が応援するとなれば、建築費は半値で済むかも知れぬ。また、周蔵が小山建一名義で開いている煙草小売店の大家の小川左官が、経師屋も引き受けてやろうと申し出た。八代某が大工と決まったが、藤根配下で叩き大工もしていた八代の本業は運送屋であった。角刈りの風貌は、山発コレクションの佐伯画集で偲ぶことができるが、市ヶ谷の二階建て長屋に、同僚の大工らと住んでいた。彼らの女房は内職に下宿屋を開いており、若き日の周恩来はその一軒に下宿していたという。

 「救命院日誌」十六日条には、前に続いて

 「材料費六〜七百円デ デキル由。佐伯ノ兄ガ ソレナラ自分デト言ッタ。池田家ハ光徳寺ニ 三百円タシタ由」とある。直ちに新築工事に着手したらしく、九月十八日条には、「ダフモ体温ガ高クナッタ。ガ、今日カラ突貫工事デアル。布施サンノ妻君ガ、職人ノ茶ノヤフイ(用意)ヲシテクレルトイフカラ タノンダ。布施サンガ 生活ノ面倒ハ 見テクレルダラフカラ 米子嬢ノ不自由ノコトノ 心配ハ無用ト伝ヘル」

とある。さて、私(落合)はいつもこの「布施サン」で引っかかる。歩行しかなかった当時として、大量の茶を沸かして現場に届け得る距離は数十メートル以内である。また、足の不自由な米子に代わって生活の面倒を見るためには、ごくごく隣近所でなくてはならぬ。そして、実は新宿区立佐伯公園に隣りして現在も布施家がある。この辺りは戦災を免れていて、その家も戦前の建築である。とすると、ここにいう「布施サン」は、この家の二代ほど前の当主ではないのか。先年佐伯公園を尋ねた私は、たまたまその家の家人と顔を合わせて立ち話をしたが、先代は清掃局に勤務していた、ということしか分からなかった。

 一方、「救命院」の文脈上「布施サン」と呼ばれるのは、布施一以外にあり得ない。上原大将が、上京したての周蔵に、若松安太郎(本名堺誠太郎)を通じて近づけた布施一は、巣鴨病院の事務長を辞めて当時はブラブラしていたその実体が警視庁特別高等課の密偵だったことを、周蔵はずっと後まで知らなかった。  布施は、戦後は周蔵を頼って千葉の花島に移り住んだから、佐伯の隣の布施家ではない。だが、両家には必ず何らかの繋がりがある筈で、佐伯旧宅の隣の布施家は、布施一の後裔ないし支流ではないかと思うのだが、今のところ定かではない。

 

 F.アトリエ建築

 以上で、佐伯祐三がアトリエ兼自宅の建築に取りかかった経緯が、よくお分かり頂けたと思う。ついでというと何だが、従来の評伝が明らかにし得なかった着工日が、大正九年九月十八日であることが確定した。佐伯は十一月二十一日に一人で新居に入居した。その経緯を「救命院日誌」にいう。

 「十一月二十一日 マダ出来上ッテイナイガ、住メナイコトハナイトノコトデ、佐伯君ハ一人引越ヲスル。引越ヲスルヤフニ ススメタ。新婚デアルノニ ダフモ一緒ニ暮ラシテイル日ガ 少ナイヤフダ。佐伯君ハ ホトンド診察室 ニ寝テイタシ、昼間モココニイル方ガ多イ。夫人ハ実家ニイル。佐伯君ハ 時々泊マルヤフダガ ダフモ 不自然デアル。早メニ引越ス方ガ良イヤフニ 思へル。藤根サンガ手伝フ」

 これは入居の事実を除き、ほとんどが佐伯の創作である。周蔵は、その十一月は極めて多忙であった。帝国針灸漢方医学校への通学、甘粕憲兵中尉や伊達順之助との応対、東北地方でのケシ栽培の勧誘などで、寧日がなかった。それに、親代わりの藤根がついている佐伯に関与したくもなかった。それなのに、佐伯が「作リモノノ日誌」の中に周蔵を登場させるのは、「新婚生活の前途の多難さを演出し、周囲の都合に翻弄される薄幸な自分を、優しく見守ってくれる周蔵」という幻想にドップリ浸かっていたい願望を、そのまま文章化したものである。実際に佐伯の相談に乗り、また手伝っていたのは、藤根であった。

 

 第四節 従来の年譜の誤りとその原因

  A.従来の評伝

 以上で、私は吉薗資料によって、佐伯の美校時代の主たる所業について、真相を確認してきたが、これについて、従来の評伝の説いたところを簡単に一覧しておく。今更そんなもの取り沙汰しても、意味がないかも知らぬが、俗流の評伝がなぜ間違ったのか、背景を含めて検証したので、一応は見ておいて頂きたい。

 ここに掲げる従来の佐伯祐三評伝は、時間的に並べると、次の七つである。

  1.昭和四十三年 朝日晃「佐伯祐三展カタログ」 朝日新聞社 

  2.昭和四十五年 阪本勝「佐伯祐三」長谷川徳七(日動画廊社主) 

  3.昭和五十三年 朝日晃「没後五〇年記念佐伯祐三展カタログ」朝日新聞社

  4.昭和五十三年 匠秀夫年譜「カンバス日本の名画」中央公論社  

  5.昭和五十五年 山田新一「素顔の佐伯祐三」中央公論美術出版 

  6.昭和五十八年 朝日晃年譜か? 「佐伯祐三」朝日グラフ別冊

  7.平成六年  朝日晃「佐伯祐三のパリ」大日本絵画 

 以上の七点の内容を比較すると、互いに相違点があるので、事項別に整理した上で、それぞれ比較した方が理解し易いだろう。その上で、私がこれまで明らかにしてきた真相と突き合わせて見れば、興味深い。

 

  1.昭和四十三年 朝日晃「佐伯祐三展カタログ」

      大正九年春、御宿へ写生旅行

      大正九〜十年(美校三〜四年生)、木下勝治郎と家作りに熱中

      大正十年五月、米子と結婚

      大正十年七月、木下勝治郎と勝浦に写生旅行し、百号を制作

      大正十年七月、下落合にアトリエ新築。直前は戸山カ原に下宿

      大正十年秋、箱根強羅へ山田新一と写生旅行

 

  2.昭和四十五年 阪本勝「佐伯祐三」

      大正十年五月二十一日、池田米子と結婚

      大正十年五月、目白近くに仮住まいの後、下落合に引っ越し。家は建っ

      ていたが増築中で、木下が手伝わされていた。

 

  3.昭和五十三年 朝日晃「没後五〇年記念佐伯祐三展カタログ」

      大正九年春、御宿へ写生旅行

      大正十年五月、米子と結婚

      大正十年七月、下落合にアトリエを新築して住む

      大正十年、木下勝治郎と勝浦に写生旅行し、百号を制作

      大正十年、山田新一らと箱根強羅へ写生旅行

      大正十年、家作りに興味を持ち、木下勝治郎も泊まって増築を手伝う。

 

  4.昭和五十三年 匠秀夫年譜「カンバス日本の名画」

      大正十年五月、米子と結婚。初め目白に住み、

      大正十年七月に、下落合にアトリエ付新居を営む

 

  5.昭和五十五年 山田新一「素顔の佐伯祐三」

      大正七年秋、伊豆網代と前後して、御宿へ写生旅行。

      大正八年夏、勝浦へ写生旅行、百号を制作

      大正九年秋、築地本願寺にて挙式

      大正十年七月に新居の母屋とアトリエができた。

      大正十一年二月、弥智子が生まれてアトリエを増設することとなり、木

      下勝治郎が手伝った。

      大正十一年八月の終わりから、箱根強羅へ写生旅行

 

  6.昭和五十八年 朝日晃による年譜か? 「佐伯祐三」

      大正十年、五月に結婚(掲載の結婚式写真には大正九年とある)

      大正十年、新築した家に住む

      大正十年、箱根で写す写真(これをDは、伊豆網代で写すとして掲載)

 

  7.平成六年 朝日晃「佐伯祐三のパリ」

      大正七年秋、山田新一と御宿へ行く

      大正八年夏、紀州勝浦の海(百号)を描く

      大正九年十一月、築地本願寺で挙式。直前は本郷弥生町大谷方に下宿

      大正九年 初め落合村に仮住まいをして、やがて下落合にアトリエ付の

      家を新築する

      大正十年、家作りに興味を持ち、木下勝治郎も泊まって手伝う

      大正十一年八月、山田新一らと箱根強羅へ行く

 

  B.山田だけが正しい

 上の表で、ゴジック字体の部分だけが正しく、残りはすべて誤りである。前に、従来の評伝のなかで山田新一だけが正しいと言った理由は、これでお分かりであろう。これに対して、朝日晃の1と3は、大正十年に木下勝治郎が家作りを手伝ったことを除いて、全滅である。朝日晃がこれほど手酷く間違った理由は他でもない、米子未亡人からの伝聞を信じ込んでしまったからである。家作りの一件は、ニュースソースが米子ではなく、木下だったから、辛うじて正鵠を得たわけである。

 ところが、昭和五十五年に山田新一の5が出版された。山田の説明によると、朝日が山田に強く勧めて書かしたとあるが、とにかく朝日は、山田の話を聞いて(ないしは山田新一の5を見て)、これまで信じていた米子からの伝聞のデタラメさに、やっと気がついた。そこで、7においては、山田の説に従って、これまでの誤りを修正した。だからその内容が、かなり正しくなったのである。

 そこで微妙なのが、山田の著書が出た三年後に書かれた6である。朝日新聞社は、従来の関係からしても、この年譜にも朝日晃説を採用したはずだが、ここに大正九年撮影と明記した築地本願寺での結婚写真を載せ、わざわざ大正十年と説明してあるのが面白い。これこそ朝日晃氏が自説を改変する途中の、不完全変態の姿ではなかろうか。

 ところが、山田にも記憶違いがある。佐伯のアトリエの建築と増築の時期である。山田は増築について「大正十年の二月かと思うが」と書き出す。山田によれば、そもそも佐伯が家作りに興味を抱いたのは、新築をした大工(すなわち八代)が歳暮に一丁の鉋を届けたことに始まる。「救命院日誌」大正九年十二月六日条に、「妻君新居入リ。十一月末ニ本願寺ニテ結婚式ヲ済マセタラシイト 藤根サンカラキク」とあるから、大工の八代が、自分が建てたばかりの新居に鉋一丁を持って歳末の挨拶に来た。これは明らかに大正九年の暮れであり、したがって増築時期は大正十年二月で間違いない。

 山田著は、書き出しが正しいのに、その後の辻褄が合わなくなる。つまり、鉋を貰った佐伯は、喜んで新築の家の柱を削っていたりしていたが、「そのうち、この年二月に生まれた弥智子を入れて揺り動かす、ゆりかごをこしらえることになった」。弥智子の誕生は大正十一年二月だから、これだと丸一年狂ってくる。山田は新築の季節を七月(本当は九月)と誤って覚えていたために、年度を結婚(大正九年十一月)の翌年とせざるをえなくなり、増築はその翌年だから、弥智子の誕生(大正十一年二月)と関連づけざるを得なくなって、二重の誤りを犯したものと思う。

 本当は、前節に述べたごとく、挙式に先立つ大正九年九月十八日に着工し、突貫工事で完成し、佐伯は十一月二十一日、米子は十二月六日に入居した。その年の歳暮で貰った鉋がきっかけで、翌十年二月にはアトリエを増築することになり、木下勝治郎が泊まり込みで手伝わされた。弥智子の誕生はその翌年である。 

 山田が佐伯の評伝を出したのは、米子に発祥する幾つかの誤伝を修正したい、との誠意であったろう。ただ遺憾ながら、山田の修正は不徹底だった。米子の周蔵宛書簡には、山田に対する警戒心と嫌悪感がかなり強く現れている。これは、真相を握られてしまった悪女の心情であろう。だが山田は米子の心を汲み、旧友の名誉をも思慮してか、加筆問題には触れず、今日に遺憾を残したのである。

 朝日晃にも、佐伯年譜の作成に対する熱心さは認めねばならぬ。ただ、米子の誤伝に気付いて年譜を修正したからには、さらに一歩を進んで加筆説を真摯に検討し、佐伯の画業の真相に到達して貰いたかった。そうすれば、朝日氏の名は美術評論史に輝くことになったであろうに、百尺竿頭一歩のところで功罪を違えたのは、朝日氏のために之を惜しむと云うほかにない。この二人に比べると、阪本・匠の両氏は年譜にまともに取り組んでおらず、佐伯研究家として論外である。阪本のごときは、本宅の新築とアトリエの増築を一緒くたにしてしまい、新築住宅に泊まり込んだ木下勝治郎が増築を手伝わされた時に、自分も立ち会ったという、いわば己が体験(大正十年)だけを主軸に、その直前の「新築」、さらにその前の「結婚」と、すこぶる観念的に組み立て、一連の事項をすべて大正十年春にしてしまったフシがある。

 ところで、新婚の二人が新居に入る前に一旦仮住居に入ったとあるが、吉薗資料からすると、そんな様子はまったくない。また必要もなさそうである。なのに、これは一体何を意味するのか。それも、仮住居の場所が、「戸山ケ原」、「目白」、「目白近く」、「落合村」と、評伝家によってすべて違うのも怪しい。

 これを考察してみよう。まず、次章に掲げる山田の回想に、「新婚の翌日、美校の授業が終わると、鶯谷駅から省線に乗り、自分は池袋駅に、佐伯は目白駅に」とある。従来の俗流評伝は、新婚の時期を大正十年五月と解し、新居建築はその後と考えていたから、新婚所帯は当然間借りか借家ということになり、その場所はといえば、学友の回想からして、「目白駅」に近いところでなくてはならぬ。これにより、創造力に富む先生方は「戸山ケ原」「目白」「目白近く」「落合村」などと、ありもせぬ下宿を捏造したのであろう。

                                  (続く)

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