天才佐伯祐三の真相     Vol.7

 

    第六章 佐伯祐三の生涯(3) 第一次渡仏

 

 第一節 初めてのパリ

 大正十二年の歳末を船中で過ごした佐伯一家は、正月にパリの土を踏んだ。第一次パリ留学の始まりである。この時期の佐伯については、同時代をパリで共有した大勢の画友たちの証言が残されている。従来の佐伯評伝はがそれらを適宜にちりばめて華やかな時期を讃えるが、皮相しか見ていない。朝日晃著の「佐伯祐三のパリ」はその最たるものである。

 本稿は、新発見の吉薗資料によって、従来の評伝の見落としを補い、誤解を修正する立場にある。資料には、「周蔵手記」「周蔵遺書」「佐伯祐三書簡」「周蔵・薩摩千代子宛メモ」「黒革表紙のパリ日誌」「第二次パリ報告」「救命院日誌」などがあるが、その順番に内容が信頼できる。ことに「救命院日誌」は、佐伯が出航を前にして大阪の実家に行った後の部分は、帰国後の大正十五年に記帳されたものである。解読に際してはそれを心得て置く必要がある。

 さて、私は今般それらをほとんど解読した。解釈論理の厳密さを伝えるために、ここに詳細を並べることもできるが、紙数を増しては却って読者に煩わしさを強いると思い、要約を述べるだけにしたい。それでも「救命院日誌」の引用が一番多く、冗長にわたるかも知れないが、「救命院日誌」は、創作的要素が濃いとはいえ佐伯の心理を知る上で最も重要性があること、また、部分的な事実がちりばめられているため全体を窺う上での情報源となることから、割愛しなかった。資料名は逐一掲げておくから、研究者は将来作成する予定の資料集によって、直接確かめられたい。

 大正十三年の初頭、周蔵はひとまず厄介払いをした気分にあった。今の関心は、大金を付けてパリに送った佐伯でなく、パリに住み着いて国際秘密勢力の走狗となりかねない薩摩治郎八にある。

 「周蔵手記」大正十三年正月条、及び二月末ピ条の要約と解説。

 佐伯の渡仏を利用して在仏の薩摩治郎八を調査しようとしていた周蔵は、佐伯渡仏の世話を甘粕に頼っていたが、大杉栄殺害事件のために甘粕と連絡がつかなくなり、弱っていた。獄中の甘粕に連絡がつき、二月に入り千葉刑務所を訪ねると、甘粕は元気そうで面会を喜び、「時間ガアッタラ ヰラッシャヒ」と云ってくれた。甘粕から「佐伯はフランスへ行ったか?」と聞かれて、去年十一月の頭の頃に行ったと答えた(実際の出航は二十六日だったが、佐伯は大阪で時間を潰しており、周蔵は錯覚した)。すると甘粕は「知らない人間から手紙が来るかも知れないから、その時は持っていらっしゃい」と云う。「行った人間の様子によって、手紙は来るから。疑問なくば来ない」とのことであった。

 一方、フランスの佐伯はどうか。「救命院日誌」大正十三年四月二十日条に、「余程パリに感激したらしい。手紙くる。まづは元気さふだ」とある。この手紙はクラマールから中野町の周蔵に宛てた三月十一日付のものである。これが武生市寄贈品の吉薗資料の中に入っていたことを、私は最近になって知った。山本晨一朗氏が詐欺事件に関わる示談要求(債権回収)の資料として、武生市役所から貰ってきた「佐伯祐三書簡および関係資料」に品目明細が掲載してあったから、分かったのである。同書簡が武生市から無事吉薗家へ返却されたかどうか知らないが、吉薗資料を一括して私に渡された中には、含まれていなかった。「佐伯祐三書簡および関係資料」とつき合わせると、吉薗資料中にそうしたものが他にも何点かある。さいわい同文書に、コピーが添付されていたので、偶然にも、書簡の内容が分かった。

  原文(カナ使いと漢字は改めた)。

巴里というこの古い町は、画を描くのに、実にふさわしく出来ている偉大な町だ。壁には広告が所狭しと並び、その様相は俺の気持ちをそそる。

別便にて丸めた絵を送ります。画布、下塗り、絵の具そしてフォービズム。今俺が囚われているものだ。画の解せない医師が、送った画からどのくらい解して下さるか、楽しみだ。

巴里につくといろいろな事が起こり、それを身体で受け止めている内に日が過ぎて、手紙を書くのも、後になってしまいました。ご無沙汰しました。

画の方はあれこれと模索中です。画布一枚にもいろいろ試みています。日本と異なって、画布の布も多く、また下塗りのやり方も試行錯誤です。繰り返し繰り返しています。(中略)

     吉薗様       大正十三年三月十一日     佐伯祐三

(追加)送金お礼申しあげます。一萬六千八百円になりました。当分金の心配の事ありません。

 きっとやり抜きます。巴里に来て下さい。

※これは貴重な資料である。第一に、佐伯が、最初からフォービズムに関心を持っていたこと。つまり、ヴラマンク訪問を当初から望んでいたが、里見が紹介を遅らせていたのである。

 第二に、佐伯の特有の画布の誕生した経緯がよく分かる。第三に、作品の前渡し金が、今回の送金で合計一万六千八百円に達したことを明確にしているからである。

 

 「救命院日誌」大正十三年四月三十日条の要約と解説。

 手紙で送ったと云って来た画が届いた。画布もの八枚、デッサン二十五枚、墨絵水彩七枚などだが、牧野さんと中村屋に持って行って、見せる。居合わせた画家たちに酷評され、藤根が怒る。

 「救命院日誌」大正十三年九月十一日条。要約と解説。

 「フランスヨリ手紙届ク。ブラマンクナル画家ノ教示ニ 不安ヲ抱ヒタタラシヒ。熊谷サンヲ訪ネテ 指導ヲ乞フ」から始まる長文の記載あり。文中で、熊谷守一は云う。「繪ニモ流行ガアッテ サノ時ノ群衆心理デ 流行ニ合ッタモノハ ヤク見ヘルラシヒガ、サレハ流行デアルカラネ。(中略)世ノ中ガダフ変化シヤフト 自分ノモノハ 自分デ作ルシカナクテ、自分シカ デキナイノダヨ(中略)帰ッテオイデト 話スノガ良イヨ」

 「周蔵手記」には対応記載がないが、後日の書簡や「救命院日誌」記載と関連させて観ると、手紙の件は事実と見て良い。周蔵が、パリの佐伯宛ての手紙に「魚の目、馬の目、ハエの目」の話を書いたのは、「救命院日誌」によると、このころ出した手紙らしい。美校の先輩里見勝蔵に連れられた佐伯夫妻が、オーベール・シューズ・オワーズに住む野獣派(フォービズム)の巨匠ヴラマンクを訪れたのは、大正十三年初夏の頃であった。佐伯がパリに来て描いた、自信作の「裸婦像」を見せたところ、「アカデミック」と面罵されたので、一旦はひどく衝撃を受けた。

 発憤した佐伯がここで画風を変え、以後フォービズムに邁進したとするのが従来の佐伯評伝で、ここにその俗流たる所以がある。実際は冷静な米子の指導でヴラマンクを脱却し、ゴッホ、ユトリロ、アンソールなど先輩大家を渉猟しながら、最後には独自のメニエル氏病の「馬の目」を生かした「白にも黒にもとらわれない」自分の作風を立てる。尤も、それは昭和三年の死の直前のことで、現実の佐伯はその時までを苦悶のうちに過ごさなければならない。

 「佐伯祐三書簡」大正十三年十一月二十二日付。要約と解説。

 「急ぎ一筆御手紙申し上げます。実は貧しきこと苦しく、金の工面の電報をうとうかと思っていたところに、今朝小包みがつきました。大変うれしく 何といって返事したらよろしいか 分かりません。大阪を出る時ニモ 餞別を貰ゐましたが いまだ返事もしてゐないのに・・・」

 神戸を出航するとき、「こんな大金巴里に十年ゐても困らんのとちやうか」というほどの大金を貰っておきながら、返事もしていない。これは渡仏後の書簡(三月十一日付ほか)に、ろくに礼を書かなかったことを云うのか。続けて「画は次から次へと描くだけ描いて、もう三百(デッサンも)をかぞへます中で 誰も見てもくれないものだが 俺は心があると思われる(人が何と云をうと 俺はきにいってゐる)ものなどまとめて送ります。よくないと思うものは 焼きすてて下さい」という。

 ここに大事な意味がある。餞別の大金や送金は、佐伯がパリで描く絵に対する前渡金の意味があり、つまり、絵との交換というわけだ。書簡は、ヤチが羊羹ほおばって喜んでいる。医師(周蔵)も一度パリへおいでなさい。と結んでいる。この内容はそのまま信ずべきであろう。

 

 第二節 金送レタノム

 「救命院日誌」大正十三年十二月十八日条。

 「毎月二百〜三百ヅツハ 送金シテイルガ、外地生活ハ 何事モ金頼リデアラフカラ、送金依頼ノ手紙有リ、私ニマデ 言ッテクルトナルト 余程ノコトカ、二千円送ル。一女ニ 菓子ナドヲ送ル」

 「毎月二百〜三百ヅツハ」というのは、光徳寺側の送金のことで、これは実家の回想とも符合している。周蔵がこの時、実際に二千円を送金したのかどうか判らない(「周蔵手記」に対応記載がない)。

 「救命院日誌」大正十三年十二月二十日条。

 「Necker氏から連絡アリ。私ハ フランス誤ガ苦手ナノデ デキレバ独語デ ト依頼シタラ 応ジテ下サッテ助カル。彼ハマタ 独語ガ苦手ノハズデアッタガ。佐伯ハダフモ ウマクヤレテイナイヤフダ。氏ハ 私ニ文通ヲ依頼シテキテイル。デキルダケ応ジルコトニスル。一昨日出シタバカリダカラ 暮レニ出スコトニスル」

 これも「周蔵手記」には対応記載なし。ネケル氏のドイツ語書簡は確かに存在する。そのうち一通は、12.11.1924、すなわち大正十三年十一月十二日の日付で、差出人は、23 PLACE VENDORE PARIS GEORGES NECKER 、 宛先は NAKANO TOYOTAMA SHUZO YOSHISONO。用紙は和紙を用いている。筆跡も心なしか、日本人のようにも思える(自信はないが)。到着スタンプをみると、十二月二十日がはっきり読みとれる。

 文面は、佐伯についての診断が記されている。翻訳。

 

 まず現在の病状と診断結果について報告します。結核については病状は軽いです。心配なのは生活環境です。隣人や同業者との関係に調和が欠けています。さらに、ホテルでの暮らしが劣悪なようです。この状況が変わらなければ、彼の性格は異常なものに変化していくと予想されます。その解決策は、彼が他の人々と文通させることです。彼に必要なものは、自信や周囲への信頼であり、また安心であります。敬具。         ジョルジュ・ネケル

              ヨシソノ様  12.11.1924

 

 ジョルジュ・ネケル医師はフランス人で、父は有名な小児科医、その息子が周蔵がケルン大学で知り合った内科医だと「周蔵遺書」にある。ただし、もう一人ジョルジュ・ネケルと名乗る精神科医がいて、これは作家コレット女史の夫で、本名をモーリス・グドゲという。「救命院日誌」に、渡仏する佐伯にネケル医師への紹介状を持たせてやったとある方は、本物のネケル医師だろう。本物のジョルジュ・ネケル医師とグトゲとの間にも、隠れた且つ強固なつながりが感じられるが、さらに、グドゲは日本人特務ネケル氏とも親しかったことは間違いない。佐伯は本物のネケル医師を訪ねて、病気を診て貰ったのだろうが、ネケル名のこの手紙は佐伯祐三の現状と必要な処置を述べるだけで、暗号が隠されているとは、とても思えない。独語が苦手な本物のネケル医師の佐伯に関する診断書を、誰かが周蔵のために独訳したものと思われる。暗号手紙は別で、この手紙に同封されていたのであろう。

 さらに、一枚の漫画が同封されていて、藤田嗣治の漫画化した自画像とすぐに判る。「周蔵手記」昭和九年条に「自分がパリに訪ねたとき、ネケル氏が誰であるか、知っていた」とあるが、ネケル氏は藤田嗣治のコード名であり、その文脈で「佐伯」といえば、薩摩治郎八を指す。

 それにしても、自分が利用されている暗号文書について、佐伯本人がこういう形で文案したのはなぜか。ドイツ語利用のことや佐伯との文通を勧めたことなど、ネケル診断書の内容を、佐伯がある程度知っていたのは、周蔵から教えられたとしか考えられない。あるいは、諜報でも才能のあった佐伯は、薄々ながら裏の事情を探知していたのか。だとすれば、ここに記したのは、周蔵への脅迫の意味かも知れない。

 「救命院日誌」大正十四年一月九日条。

 「モンパルナスノ 城ノヤフナ名称ノ所ニ、移転シタ由。昨日、薩摩サンガ來テ 話シテクレル。ドフモ、落チ着カナイヤフダ。友人ヤ知人ニ ホラヲ吹キスギテ 諦メテクレナイヤフダ。

 M o n t p a r n a s s e R u e d e c h a t e a u 13

 熊谷サンノ 言ハレルトオリ カモシレナイ。小包ミ手紙ハ 毎月一〜二通ヲ 出スコトニスル」

 周蔵がこのところ会っていない薩摩が出てくるのは、完全な虚構記事である。無論「周蔵手記」にも対応記載はない。ただ、佐伯がモンパルナスに移転したのは十二月上旬で、その移転を一月早々日本で知ることは、不可能ではなかった。移転の理由は、後に出てくる。

 「周蔵手記」大正十四年二月二十日スギの条。要約と解説。

 周蔵は、朝一番で甘粕に、面会に行った。ネクル氏(日本特務の方)から来た暗号手紙を見せに行ったのである。甘粕は暗号の解読の仕方を教えてくれたが、手紙の解読そのものは宿題とされた。甘粕の指示通り、周蔵は帰りに憲兵隊に寄り、手紙を見せて押印して貰った。

 「周蔵手記」二月末ピの条。

 「例ノ宿題ハ百点ヲトル。サノ場デ 追ッテ來タ次ノモ 開ク。ヤッテ見ナサヒト 云ハルル。三十分ハカカッタト 思フ。然シ満点ヲ貰フ。カレデ カノ問題ハ自分デヤルヤフニ 云ハル。先ノ人間ノコト 聞キタヒガ 問ハヅ。トニカク質問ハ シナヒコトダ」

 ネケル同志からは次の手紙も来たので持参し、甘粕に宿題を報告するために面会に行く。宿題は満点と云われた。文言には、佐伯がどうしたこうしたとあるが、佐伯とあるのは薩摩治郎八を意味するのである。持参した次の手紙も開き、三十分ほどかかったが、やはり満点を貰う。これだけやれるなら、後は自分一人でやりなさい、と甘粕は云った。周蔵はネクル氏すなわち藤田嗣治のことを知りたいが、聞くのを我慢した。

 同条の続き

 「佐伯カラモ手紙ガ來ル。大谷サンニ届クルモノカ 迷フ。兄貴ニアヘテカラニシヤフ。佐伯ハ 海ノムカフカラマデ 借金ノ手紙ラシヒ。ツクヅクト金ノ忙シヒ男ダト思ユ。アレデ ダノクラヒノ仕事ガデキルノカト 怪訝ス」

 この佐伯の手紙は現存している。次に掲げる。

  

  東京豊多摩郡中野町 吉薗周蔵様

   裏  モンパルナス 佐伯祐三

  米子ハンが 次々と思いめぐらしてくれはって 大分のって來て ゐますが   

  出る金がよけいで困っています。千圓くらい送って下さい。ほんま すんません。

            S a i k i 祐三

 

 周蔵は、この手紙を大谷光瑞師に見せたものかどうか迷ったが、とにかく祐正に会ってからにしようと考え、海外からまで借金に奔走しているのではろくな仕事もできまい、と周蔵は案じた。ここで仕事とは、画業よりも諜報のことではなかろうか。

 さらに同条は続く。要約すると、その足で大森の上原閣下を訪ねると、七〜八月に中佐に昇進する軍人の内定の前祝いをしていた。二時間も待たされたが、珍しく茶室に通されて、抹茶を振る舞われた。閣下から「甘粕ノ所ニ行キモシタカ」と問われて、周蔵は正直に答えた。「甘粕さんに会うと、沈んだ気持ちがシャンとなる」というと、「何か迷うことでもあるのか」とさらに聞かれ、そこで、「大谷さんから云いつかっている佐伯の性格には、やや参っております」と云い、「救命院日誌」のことを例として出した。

 すると上原閣下は、「おまんは 日誌をつけもすか?」と聞かれるので、「自分は 加藤君に云われて日誌をつけている。しかし自分の日誌だから 他人が見たとき分らんように 後で日時をずらしたりするし 行を空けておいて 重要なことは 前の部分の中に書き込んだりして 訂正をしておく。自分の日誌は 基本的に記憶を補うための日誌であるが、佐伯君の日誌は 基本的に他人に見せるための 創作の日誌であるところに不可解がある」と説明した。

 上原元帥は「他人に見せるための日誌は 宇垣も 罫紙につけちょる と聞いている。いかにも誰かが見るように 机の上に開いてあったりも するそうだ。宇垣の日誌も 見せるための日誌であろうから 体裁をつけてをるであろう。日誌たりとも 他人を意識したら体裁になる。真とは 馬鹿であり悪人でをられることだ」と教えてくれた。宇垣一成中将は、大正十三年一月陸軍大臣となり、前陸相田中義一大将と組み、その勢力は今や上原元帥を凌がんとしていた。宇垣日誌は公開されて有名であるが、他人に読ませるための日記で、そんなことは偽物のすること、という評価に上原の宇垣に対する感情を見ることができる。

 「周蔵手記」大正一四年三月ハヂメの条。要約と解説。

 佐伯兄ト銀座ニテ會フ。手紙見セル。何ノ意味モナヒ ト云ハル。大谷サンノ話ヲ聞ヒテヰル ヤフナ氣ガスル程 同ヂコトヲ云ハル。社会事業ノ一環ヲ 引キ受ケルトノコト(中略)。

 周蔵は銀座で、佐伯の兄祐正に会った。金の無心の手紙を見せて、その意味を問うたが、何の意味もないと云う。兄は光瑞師と、言葉遣いも内容もそっくりであった。猊下の社会事業の一環を委せられる、と大言壮語して得意がっていた。周蔵は兄の話を聞いて、佐伯が心配になった。かなり頻繁に送金を頼んでくるらしい。思慮があるのかないのか、兄にもつかめないようで、兄も大分困っているように見えた。

 サレカラ十日タタヌ内 佐伯ヲ迎ヘニ行クト 訪ネテキテ云ハレタ(後略)。

 やはり祐正は、周蔵の見せた手紙で決心したのか、十日も経たぬうちに訪ねてきて、佐伯を迎えに渡仏する、と告げた。光瑞師の指示と、周蔵は推量した。光瑞師は鷹揚な人物らしいが、上原元帥と同様半面細かく、気に入らぬと許さない所もあるようだから、佐伯の不始末は兄としては辛いだろうと思った。

 

 第三節 薩摩治郎八の帰国

 周蔵が薩摩治郎八の帰国を知るのは、三月のことである。

 「周蔵手記」大正十四年三月末ピ条

△薩摩ハ帰國シテヰルト 憲兵隊カラ知ラセヲ受ケル。嬉シカッタ。自分ノ解読ガ正シカッタ コトニナル。

甘粕サンガ満点ヲ下スッタノダカラ 誤リハナヒ ト思ッテイタガ 薩摩ノ 帰国ガ分ッテ 安心ス。後ハ カレカラノ動キダケダ。

△ツヒノ金時計ヲ買フヤフニ ススメラレテヰル。サレカラ 高ヒ山ニ登ル 楽シミヲ覚ヘタヤフダ−−→同志ハ 大金ヲツカハセル情報=示唆ヲ与ヘタ。

サレハ 莫大ナ金額ヲ必要トスルモノダ。−−−→要ハ 金ヲ使フ道ヲ作ッタ コトダラフ。

カノ人物ハ 金ガ無ケレバ 百姓ノコセガレヤリ 始末ガ悪ヒ。

裸ニ 金ヲ着テヰルダケダ。

△自分モ返事ヲ書ク。今回ノ地震ハ 下町カラ 特ニオ茶ノ水上ノ旧大名屋敷ガ 被害ニアッタサフダ。初台ノ櫻ガ美シヒト 初台ノ下屋敷ニ移ッタ新大名ト 知リ合ッタ。立派ナ庭デ 苔ムシタ所ニ ナメクジガ増ヘタトノコトデ 番頭ト下男ガ 慌テテ 家ノ周囲ニ塩ヲマヒタサフデス(中略)。

△サチラノ方モ 金持トナレバ 独自ノ愛國ナド強ク 同ヂデセフカ ト書ク。カノ所ニ広ヒ意味。

△甘粕サン 十分ニ意味通ヅ トノコト。安心ス。

 憲兵隊から周蔵に、薩摩治郎八が帰国しているとの知らせが入った。甘粕の後任者が周蔵に連絡してきたのである。ネケル氏の三通目の手紙を独力で解読した周蔵は、やや不安だったが、正解のはっきりした証拠を見て、嬉しかった(この文章で、「救命院日誌」一月十九日条の内容が、佐伯の創作だと分かる)。

 同志ネケル氏は、薩摩に大金を使わせるように、示唆を与えた。薩摩は裸に金を纏っているだけで、金が無くなれば、貧農よりも無力になる。周蔵もネケル氏に返事を書いた。駿河台の薩摩邸は震災に遭い、初台に引っ越した。ナメクジ云々とあるが、意味は分からない。千葉刑務所に行くと、甘粕はこれで十分通じると云うので、周蔵は安心した。

 「周蔵手記」六月

ナル程 薩摩サン來ル。見違ヘル程 太ッテヰタ。

△毎日芸者ヲ伴ッテ 古典ヲ タノシンデヲル トノコト。根ッカラノ遊ビ好キナノカ?

サレトモ 救命院ト同意ナノカ。トニカク 華ヤカナ話題ガ ヰロヰロアルラシヒガ 金ヲ使フトイフノハ 理解デキタ。

駐仏大使ガ フランストノ間ニ 日本館ノヤフナ建物ヲ 建設スルト 約束シタラシヒ。サレガ カナリ豪勢ナ モノラシク 調印マデシタトヰフコトダ。

大文化事業トイフコトデ 薩摩家ハ ヲダテニ乗ッタラシヒ。資金調達ヲ 政府ハヤリクレナヒト云フサフダ。然シ 話ノ様子ハ 自分ガヤリタクテ仕様ガナヒ ト云ッタ風ダ。

何 マフ現地デハ サンナヤフニ 云ッテキテヰルノダラフ。

△同志ノ力量ハ 優レテヰルヤフデ 当人 サフナルヤフニト シ向ケテヰルノデアラフ。

△何ト云ッテモ 自分ト考フルコト 一致シタコトニ 心踊ル。

カフヰフ人物ハ 日本ノタメニ 何ラカノ形デ 金ヲ使ハシテシマフコトダ。金ヲ使ヒ果セバ終ル。

何代モ続ヒタ古ヒ商家ト違ッテ 上野ノ彰義隊相手 荒稼ギシタ商人ハ セヒゼヒ一代、二代ノ成金ダカラ 使ヒ切ルノモ 訳ノナヒコト。同ヂコト考フルハ 同志トシテ親シミヲ抱ク。

△キット立派ナ 日本館ガ 建ツコトデアラフ。

 薩摩が周蔵を訪ねてきたのは六月になってからであった。当時、芸者を連れ歩いて下町情緒に耽っていたことが、薩摩の自伝「わが半生の夢」にも記されている。周蔵は、これを自分の救命院と同じで、世を韜晦するための看板かと推量した。周蔵は、同志ネケル氏が自分と同じことを考えていたのを知り、嬉しくなった。しかしこれは、二人とも上原元帥の下に居る以上、当然のことであった。すべて、陸軍参謀総長の上原元帥の発想で、上を読めば元帥が薩摩治郎八に対して打った手が、はっきりと分かる。

 パリ日本館は、大正九年十月十二日に着工し、この当時は五年目であった。九年がかりで、昭和四年五月十日に完成する。

 「周蔵手記」大正十四年七月条。要約と解説。

 薩摩が現れたおかげで、大杉事件以来沈鬱だった周蔵の活動も、活発さを取り戻した。当時、周蔵は東京市電に潜入して運転手をしていた。労働問題に関する情報収集のためだが、運転技術が下手で、乗客からの苦情が多く、車掌に勤務替えを願い、許された。因みに、武生市真贋騒動の際に武生市美術館準備室が作成公表した「小林報告書」には、「周蔵は市電の運転手であったから、医者でなかった筈」としての論理で、吉薗資料偽作説の一根拠とした。「他の可能性」を考える力がない人は困る。

  △外國語學校ハ 怪シヒ奴モ多ヒガ、情報モ拾ヘル。

   然シ、本当カダフカ。情報トヰフヤツハ 九割方偽ダカラ。

  ○芥川龍之助ガ 海軍 発信号係。

  △薩摩治郎八父子ハ 海軍ニ働キカケテヰル。

   芥川ノ話ハ 本当デアラフト 思フルガ、薩摩ノ話ハ 一見サノヤフニ見ヘテ

   薩摩ハ少クトモ 目ガ外國 向ヒテヰルト思ユル(後略)。

 上原元帥の命令で、周蔵は外国語学校へ通っている。ここには怪しい奴がゾロゾロいるが、情報も結構拾える。尤も、偽情報が九割を占める。そんな情報の中に、注目すべきものがあった。芥川龍之助が海軍の発信係。これは、海軍のために、情報を発信して世論を誘導する役目である。もう一つ、薩摩治郎八父子が、海軍に何かを働きかけている。

 周蔵は、芥川の話は事実と判断し、薩摩の方は皮相に過ぎぬと見た。薩摩の目は外国つまり国際的勢力に向いている。パリは掃き溜めみたいな所であり、国際人と言えば聞こえは良いが、寄せ集めの国民で、川に浮いている藻みたいに根がなく、その時々で仕える主が変わるということだろう。白樺派の集会で、周蔵が上のような意見を述べたら、偏見甚だしいと呆れられて、行きにくくなった。

 国際人なんて川の藻だと云ったら、前田公(陸軍中佐前田利為侯爵)に殺されるよ、と薩摩に怒られたところを見ると、自分は大分偏っているのかも知れない。そこまで考えた周蔵は、ふと前田侯爵(大正十三年八月、陸大教官)のことを頭に浮かべた。前田利為は薩摩治郎八とは関係が深い。ネケル氏の手紙の中の対象も、前田利為のことだろうか?

 末尾に、「藤根サンハ 佐伯ノ留守宅マデ 様子ヲ見テヤッタリシテヰヤフダ。鈴木ナニガシガ 留守宅ヲ使ッテヰルラシヒ」とある。

 

 第四節 祐正の渡仏

 祐正は、イギリスにセツルメント事業の視察に行くことが決まり、そのついでに、フランスに立ち寄り、佐伯夫妻に帰国を促すことになった。これを知った佐伯は、慌てて周蔵に手紙を出す。これらの手紙は武生市に一旦寄贈された吉薗資料に含まれていたが、最近、山本晨一朗氏の強い要望で、吉薗明子の債務弁済に充当された。

 

   豊多摩郡中野吉薗(イシ)様  消印 TOKYO  14 JUL 1925  JAPAN

   裏面13Rue(後は不明) シャトウのアトリエにて Uzo S(後不明)

    兄サンがエゲレスのセツルメント視察を理由ニ むかいに来ました。

    理由ハ 金のいきづまりだと思います。三四カ月−−日を稼ぎますから

    たすけて下さい。金のこと 心パイナイコト 電報か手紙下さい。

    金のコトさゑはっきりきまれば 巴里にゐられます。はっきりしたこといふて

    返事はやめに頼みます。すんません。佐伯。

                         六月二日  Uzo

 

 祐正の乗った白山丸は五月に船出して、六月中旬にマルセイユに着いた。そこからパリへは汽車で行くのである。要するに、六月二日にはまだ船上なのだが、佐伯は「迎えに来た」と表現した。これに対応する記載が「救命院日誌」大正十四年七月十五日条にある。要約と解説。

 フランスカラ手紙届ク。大阪ノ兄ガ 迎ヘガ目的デ行ッタヤフダ。と記しながら、周蔵は別のことを考える。「目的は迎えとは限らず、米子に会うこととも考えられる。祐正ははったり屋だから、金銭的に困っているかも知れんが、佐伯に仕送りを控えても佐伯が困らないことを、よく承知している筈だから、米子に会うことが目的の第一とも考えられる。佐伯の手紙の申し出は、とりあえずできることから遂行する。金は手元に八百円あるので送金し、残りは十日後になると書き添える。修業のための留学費用の保障の件は、急ぎ電報を打つ」。

 これで見ると、周蔵はまるで佐伯の言いなりのように記すが、例によって文飾である。周蔵は連れ戻しが光瑞師の意向と知っている。だからこそ光瑞師のセツルメント事業のための視察に引っかけて、兄が来たわけである。それに周蔵は、前年三月に祐正と銀座で会い、無心の手紙を見せて相談したくらいだから、甘い対応をする筈がない。しかし、電報を打ったことは事実で、「周蔵手記」には記載はないが、「周蔵遺書」に「イツマデモ資金心配スルナ」みたいな率直な簡単な電報を打った、と記載している。

 「救命院日誌」大正十四年七月二十一日条。

 巻サンガ金ヲ用立テテクレタノデ 急ギ二千円送ル。マヅハ、金デ済ムコトナラバト思フ。

 「救命院日誌」大正十四年八月二十日条。要約。

 フランスから荷物を送ったとの手紙が着いた。家庭内でもめ事があるらしい。それは兄の滞在が原因しているのか?

 これらに対応する記載は「周蔵手記」に見当たらない。というより、「周蔵手記」は、大正十四年分の記載を七月条で終わってしまい、佐伯に限らず、一切記してない。送金はおそらく事実であろうが、「巻サンが金を用立てた」という点は虚偽記載である。池田巻は、母の病気を名目に大正十年四月、下北半島の大畑の実家に戻った。それを伝えにきた藤根から巻との結婚を勧められたが、周蔵は断ったので、二度と戻ってこないと藤根から告げられていた。後に周蔵の呼びかけに応じて救命院に戻って来るが、それは大正十五年九月であって、この当時はまったく縁切れになっていた。佐伯は大正十二年十月まで東京に居て、巻の帰郷を知っていたのに、こんなデタラメを書いたのはなぜか。結局、登場人物をふやすために、時々こういうデタラメをするのである。

 マルセイユで祐正を出迎えた佐伯夫妻は、友人を連れて、祐正とアルルなどフランス各地を周遊する。朝日晃は、祐正がリュ・デ・シャトウの佐伯家に着いたのは七月二十二日であったという。祐正は佐伯夫妻のアパートに寝泊まりし、弟に帰国を督促したが、ミイラ取りがミイラになり、しばらくは一緒にパリを遊び回った。

 周蔵は佐伯に請われるままに送金したのか。資料だけでははっきりしないが、佐伯に渡した金額と日付を記入した大福帳が吉薗家に現存しているという。私は未見だが、それを見れば一挙に解決する問題だから、本稿では送金問題には立ち入らないこととにする。

 大正十四年九月二十六日から十一月二日まで、第十八回のサロン・ドートンヌに、佐伯夫妻は出品した。この時の出品は、佐伯が十二月二十四日付周蔵宛て書簡で、「米子ハンが何枚も画いて 実はワシが画いた小っこいもん一枚と 三枚 サロントートレヌの展覧会 出品したのですが 全部入選してしまいました」と云う所からすると、出展品三枚のうち佐伯名義は二枚で、うち小品一枚が自作。米子の作品は二枚出し、本人名義は一枚だけであった。つまり、佐伯名義の「コルドヌリ(靴屋)」は実は米子の作品であった(後出)。とにかく、三枚とも入選してしまい、ことに「コルドヌリ」はドイツ人に売れた。このために祐正も寛大になり、帰国を数ヶ月延ばした。自身もそれを好都合にして、パリを遊び回ったようだが、光瑞師の指令がある以上、数ヶ月が限度だったのではないか。

 佐伯は十一月に山田新一に手紙を出し、「ヴラマンクより、ユトリロに近い作品を描いている。二〜三百点制作したが、気に入ったのは十点位」と云っている。確かに、佐伯夫妻の描くパリの建物の画趣は、ヴラマンクよりは、遙かにユトリロに近い。例の「コルドヌリ(靴屋)」の絵もそうである。

 問題は制作枚数のハッタリで、これは将来のためにとの米子の策謀であった。その構想力には恐るべきものがある。「周蔵遺書」に曰く。「この手紙は米子が佐伯に出すように命じたもので、後日、何故だろう理由が判るかと(佐伯が)父に質問しました。この時父には判りませんでしたが、今は理解できます。佐伯君の死後、妻君は絵を描いて売却しています。(中略)戦後も父の知る限り制作をしています。百枚、三百枚、ある人には七百枚とすら手紙を書いたのは、後年のためだったのではなかったかと父は考えます。しかし、そんなに、人間恐ろしい計略をする事ができるだろうか、とも考えます」

 

 第五節 加筆を報告

 「救命院日誌」大正十五年二月三日条

フランスカラ手紙ガ届ク。病気ノ悪化ハ考ヘラレナイガ、困難ナ内容ニ動転ス。

帰国スル由。熊谷サンニ相談シタヒ所ダガ(中略)。

◎然シ ギョーテンス。

 この手紙は大正十四年の十二月二十四日付のもので、現存する。日本到着印は二月二日である。まず手紙から見た方が、理解しやすい。重要な内容なので、区切りながら、ほぼ全文を掲げる。

 

里見サンが 心配してはって ブラマンクいふ画家に 會ワセテ くれはった。

里見サンの先生です。この人にワシの画 見てもらいました。その先生をゑらい をこらせてしまいました。ワシの画はアカデミックゐふのやそふや。

フォービズムゐふのが ゑゝのんや そふです。

米子ハンが心配して ワシ以上にベンキョウしよって 里見サンと二人でよけい 説明して くれますけど 俺ニハ ワカラヘン。

イシノゐわはる事思い出して ワシは毎日ノッパラでねてました。寒ふなってきて 仕方ないさかいヤチの子守してました。

米子はんが何枚も画いて 実はワシが画いた 小っこいもん一枚と 三枚 サントートレヌの展覧會出品したのです。全部入選してしまいました。

このこと知らすの 氣が重ふて 手紙書きませんでしたが 米子はんがどんどん 氣大きふしていってもふあきまへん。

里見サンニハ よけい世話をかけてます。イシ、里見サン、山田 ホンマニ世話に なるだけや。

報イトウテモ 報イラレカモシレン ワシにはそれほど 深い恩人ヤ。(中略)

 

 手紙の書き出しは、ヴラマンク訪問の回想である。美校の先輩里見勝蔵が、自分の師のヴラマンクに会わせてくれたが、持参した自信作の「裸婦像」をアカデミックとけなされて、佐伯の心は傷ついた。心配した米子はフォービズムを研究し、独特の黒い線が中国宋時代の北画の線と看破し、佐伯に説明するが、佐伯にはなかなか呑み込めない。米子は翌年、佐伯をヴラマンクから脱却させるため、「ヴラマンクも大した画家ではないが、一応は卒業しておかねばならない」、と佐伯を連れ、数点を携えてヴラマンクに見せ、今度は褒めて貰う。しかし、その絵は米子が描いたものであった。

 その頃の佐伯は、写生旅行の行先で絵はがきを買い占め、パリに帰るとこれを観ながら絵を描いていた。兄が資金問題を理由に夫婦を連れ戻しに来ると、米子は嫌がる佐伯を説得して、サロン・ドウトンヌに三枚出品した。全部入選し、しかも出品作にも他の絵にも、買い手が付いた。志気の上がった米子は、佐伯に下描きをさせ、自分が北画流で仕上げて、大量の商品化を図った。そんな事情を、佐伯は周蔵には一切報らせなかった。

 

夜ニナルト 米子ハンとノミクイ目あてに 人がよけい あつまるやふに なってしまって ワシは自分が どないなるんか ワカランノデス。

米子ハンは あんじゃふ行く。いましばらくの事やと 平然とゐわはるけど ワシは何や苦シイ。

クスリを全部のんでしまって どないしょか 思います。

たれかにこのこと しらせたい 思いました。イシが一バンヤ 思て 此の手紙を書きました。

米子ハンニ まかしとくしかないけど 狂いそふや。

ワシは 画が出きるヤフニなりますやろか。なりますやろか。教ゑて下さい。

 

 続いて佐伯はパリでの生活の実態を述べる。米子が用意する料理と酒と、それから米子本人を目当てに、絵描きたちが集まってくる。その騒ぎの真ん中で、酔ったように見えても、佐伯は醒めている。将来の不安におののいている。まさにジョルジュ・ネケル(本物)が手紙で指摘したとおりである。

 

米子ハンノ画 手本ニ 毎日かいてます。けど まだだめです。

米子ハンハ また上達しなはったやふです。

俺は焦ッタらいかんと イシは云ははるけど これが焦らんで いられますやろか。

米子ハンのかかはった画 手本にしますさかい 

見本に一枚送ってやりたい 思ふけど 米子ハンは イシのことは甘ふ見てはって おくることなゐ 云います。

イシには送っても ゑゝもんも悪いもんも わからへんさかいに 無駄や 云いますねん。

わしは イシはホンマハ よふわかってはると 思います。

わしのデッサン よふほめてくれはった。イシとこの廊下のカベにはって よふほめてもらいました。

藤島先生の云ははることと同じ事 イシはよふ云ふてました。

イシの云ははったんは 一本の長ゐ線を もっと生かしたらどうや とゐははった。

今は 地獄の責めみたいなもんです。毎日 タブローやタブローやと 云はれてます。

イシは 熊谷サンが ゆっくりデッサンしてからで ゑゝのんや云うた 云ははるけど

ワシ タブローにせんならんのです。

米子ハンが仕上げしてくれはるけど わし自分の画が見ゑんやふに なってしもふて それは さびしゐ ですは。

一日も早く ゑゝもん かかんな なりまへんは(中略)

 

 続いて佐伯は、画業の現状を告げる。米子の画を手本にして毎日描いているが、まだ合格点に達しない。 かたや米子はまた上達したようである。佐伯は現在の自分の画業を周蔵に見せたいが、米子が反対する、周蔵には分からないからという理由である。売れる絵をたくさん拵えようとの米子の方針で、自分は毎日タブローを描け、と強制されている。それを米子が仕上げてくれるが、自分はどこまでが自分の絵なのか、分からなくなった。

 ここで佐伯は、周蔵から聞いた熊谷守一の意見を引用しているが、たしかにそのような内容の手紙を、周蔵はパリに送ったらしい。中略の箇所では、米子と里見が本当の夫婦で、自分は他人とも思う。二人が自分を置いていってしまうのではないか、と悩んでいる。

 

ヤチハ ワシノ子ヤロカ。心が破裂せんやふに 書きます。

ホンマさもしい やりきれんヤツですわ ワイハ。けど書くと氣が晴れます。

しらすのやめて がまんしてゐルと 目まいが止まらんのです。返事下さい。

ワシハあかんのです。

 

 手紙は一転して、弥智子が自分の子かどうか、疑念を訴えている。しかしながら、暗い手紙はここで終わり、次のページには、しっかりした字体で、以下のように告げる。

 

今朝 イシからの手紙見ました。俺はやっぱり帰る事にします。

一からやってみる事にしました。

大阪を出発した はじめの日からやってみます。

                        佐伯祐三

 

 佐伯の心からほとばしる絶叫の感がある。また、最後の文章からすると、周蔵は佐伯に帰国を促す手紙を出したと見ていい。大正十四年十二月下旬にパリに着くなら、発信日は十一月中旬となる。

 救命院の住所は中野町大字中野九六番地であった。ところが、佐伯の手紙は大抵、住所を「中野」「中野町中野」「中野町大字中野」として番地を入れないのに、この手紙は珍しく番地を入れているが、JAPON TOKYO TOYOTAMA GUN  NAKANO 196 と、番地を間違えた。番地を書いた手紙としては他に一枚だけ、昭和三年三月十八日のものがあり、正しい番地つまり「中野町中野−九六」と書いてある(−はハイフォンである)。

 因みに、武生市準備室の調査は、当時の地図に基づいて一九六番地を探したが、そこに救命院らしきものを発見できなかったという。当然のことである。それなら九六番地をも調べるべきで、たぶん救命院を発見できた筈なのに、それをしなかった。かように、武生市が吉薗資料の中から、おかしなものばかりを拾い上げて、贋作の証拠を強調したのは、意図的としか思えない。

 

 第六節 たかり屋とたかられ屋

 前節の手紙で、帰国の決意を周蔵に告げた佐伯は、大正十五年一月二十二日付の手紙で、周蔵に次のように無心している。

 

 東京 豊多摩郡中野町 吉薗様

                   Uzo 佐伯

                   大正十五年一月二十二日

                   巴里にて

今日は 釈迦に誓って 佛に誓って 手紙を出しました。

この頃に知りおふた人ですが 大學生ですが 芹澤サンとゐふ人がいます。この人に頼んで 借金しよ思ふたのですが それなら画を買ふてやる いはれて 参百円貰いました。

こん人ニハ 米子ハンが よけい喋ってますから ワシの画のいきさつ よふに知ってはる はずやのに よけいにほめて 買ふてくれました。その事が ゑらく心配です。

米子ハンは 心配ないと ゐふけど いまだワシ一人で かく事が できてしません。

その事で 川口ゐふ友人にたかられて 文ナシになりました。

たすけて下さい。兄さんと明日 巴里を出ます。

すぐやぶニ あへます。すぐ行きます。  さよふなら。

 

 兄弟ぐるみの浪費がたたって、首が回らなくなった佐伯は、芹沢に借金を申し込み、芹沢は金を貸すくらいなら絵を買ってやろう、と言い出す。米子が芹沢を籠絡したことは、米子から芹沢に宛てた後年の手紙で証明されるが、そのことを感づいていた佐伯が、芹沢は米子から加筆の件を聞いている筈なのに、絵を買おうと言いだしたのが不審で、気にかかる。しかし、自分はまだ一人で描くことができず、加筆品を売るしかないのである。加筆品を芹沢に売ったことを川口軌外に感づかれ、たかられて無一文になった。どうか、たすけて欲しい。兄と一緒に、明日(一月二十三日)、パリを発つので、すぐにも貴方に会えるであろう。

 後に作家として大成する芹沢光治良は、当時は休職中の一官僚だが裕福だったようで、パリには私費留学で来た。船中、佐伯祐正と知り合い、祐正の泊まる佐伯のアパートへもしばしば訪れる仲となった。周蔵は後年渡仏した時に芹沢を訪れ、芹沢が米子の加筆を見抜いていたことを確認する。

 川口軌外は和歌山県有田郡御霊村(現吉備町)出身の画家で、佐伯のクラマール時代の隣人で、ずっとつきあっていた。佐伯がクラマールを脱出したのは、川口が家庭に入り込むのを嫌がったから、とある(「救命院日誌」後日条)くらいだから、かなり厚かましい男だったのだろう。因みに、今日和歌山県立近代美術館には川口と佐伯(米子加筆品が多い)の作品が並んで展覧されており、一種の奇観である。

 ところで、この書簡を解読する前に、知っておくべきことがある。実は、さきの「救命院日誌」大正十五年二月三日条の中略箇所には、次のような文章があった。

 

◎向カフデ 内容ヲ感ヅカレテ 川口何ガシトイフヤツニ ユスラレタラシヒ。

 「サレガ馬鹿ダヨ。ヲ前サンガ誰ニ喋ッタッテ 痛クモカユクモナヒヤネ。繪ヲ買ッテクレタンデ、画家ノ名前ヲ買ッテクレタンヂャアナヒンダヨ ト言ヘバ ヨカッタンダヨ。

サレ、怖レイリマシタナンテ言ッテ、金払フカラ 又ツケ上ッテ、サレア キリガナクナルヨ。 アノ男ハ サコガ馬鹿ナンダネエ」(前後略)

 

 つまり、佐伯が売った作品が米子加筆品であることを、川口某に感づかれて、強請られたという。さきの「救命院日誌」は、大正十四年十二月二十四日付パリ発の佐伯書簡に対応する記事であって、書簡中に上のような告白があり、周蔵が熊谷守一にそのことを相談した体裁になっている。ところが、その手紙をどうみても、川口のことなぞ何一つ書かれていない。滑稽なことに、文面に記載のない内容に対して、熊谷が講釈しているのである。

 実際に借金したのは十二月で、つまり十二月二十四日付の書簡に書くべき事項を、佐伯は迂闊にも書き忘れてしまい、大正十五年一月二十二日付の手紙でそれを補ったのである。そして、帰国後に文案した「救命院日誌」には、十二月二十四日の書簡に川口のゆすり一件を書いてあるとみなして、それに対応する場面を作ったわけである。

 さて、一月二十二日付の手紙は二月十九日に周蔵に届いた。これを見た周蔵の対応を記載すべき「救命院日誌」の内容は、下記のごとし。

 

明日パリヲタツ トイフ内容ノ 手紙届ク。一月二十二日ニ カヒテイル。

佐伯君ノ家ハ 近所ノ画家ノ家族ガ使ッテイル由。藤根サンガ言フニハ 妻君ト親シイ人タチ

ラシイカラ 占拠サレル心配ハナヒ トノコト。掃除ノコトナド タノム。

 

 実に些細な記事である。該当手紙に書いた「前回の書き忘れ分」、すなわち芹沢と川口の一件を、「救命院日誌」の上で繰り返すわけにはいかないからである。

 ところで、前出一月二十二日付の書簡で、佐伯は、「明日兄と連れだってパリを発つ」としている。祐正はパリに永逗留して日々放蕩に明け暮れ、周蔵から弟に送られてきた大金を使い果たしたが、それも怪我の功名で、佐伯呼び戻しの大任を一応は果たし、アメリカ回りで帰国することにした。

 朝日晃「佐伯祐三のパリ」によれば、兄弟はともにナポリから乗船しようと決めて、一緒に一月十四日にパリを発ち、翌日の夜にミラノに到着し、出航前にミラノ・ヴエネツィア・アッシジ・フィレンツエ・ローマ・ヴァチカン・ポンペイ・ナポリなどに立ち寄ったというが、証拠を示さない。祐正は一月三十日出航のフランス船コレア丸に乗り、佐伯一家は二月八日出帆の白山丸に乗り、三月十五日神戸に着いたとする。出航日や乗船名などは、朝日氏のことだから今更間違うまいが、パリ出発日を十四日と言いきるだけの証拠があるのか。佐伯の手紙には「一月二十二日 パリにて 佐伯祐三」とある。内容も、兄と一緒に明日にパリを発つとしているから、パリ出立日は一月二十三日が正しいと思うのだが、佐伯のいう日時は、たとい書簡にせよアテにならないから、これ以上は考えない。

                                 (続く)

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