●満州に渡り奉天古陶磁と出会う


4)奉天古陶磁による張作霖の軍資金調達

貴志彌次郎氏の重要な役目の一つがこの奉天古陶磁を売却し、張作霖の軍資金作りに協力する事でした。その宝物の納入先は、色々な候補の中から上原勇作の方針で紀州徳川家と決まっていましたが、資金事情のためか実行が遅れていました。売り込み先が紀州家ということで、紀州出身の貴志彌次郎少将、浜面又助少将が任命されたようです。しかし、いったんは快諾したはずの徳川頼倫候は、老境に入っており、世継ぎの頼貞が実行する予定でしたが、側近の東京商科大学教授上田貞次郎が陰で反対したこともあり実行が延びました。紀州家側近が貴志少将をないがしろにした理由は、貴志氏の出身が農家だったからだと思われます。貴志氏もいったんは、紀州徳川家に頼ることをあきらめ、周蔵氏に他の買い手を探させましたが、三井、久原、薩摩ともに不況のせいか買い手がつきませんでした。さらに大正12年には関東大震災があり、さらにその後、老公爵の死去と大事が続いたため最終的に紀州家に奉天古陶磁器が入ったのは、大正14年のことでした。

最終的には、450点の古陶磁の他、文具、玉器、景奉藍七宝などを含めた代金の750万円(現在の貨幣価値で言えば750億円位か?)が張作霖に渡ったそうです。上田は幾つかの古陶磁を仲介料代わりに貰い著書である「支那陶磁器の時代的研究」に載せています。

●奉天古陶磁の流出
ようやく紀州徳川家に収まった奉天古陶磁ですが、その後数年もしないうちに紀州家から流出し始めました。徳川頼貞公爵にはそれを守ろうとする気が無かったようです。流出した名品は、まず上海在住のイギリス人に持ち込まれました。その一部はユダヤ人銀行家サッスーン家のパーシバル・デヴィッドの蔵品となり中国陶磁中屈指の名品とされている、デヴィッドコレクションとなりました。日本でも東京国立博物館の重文品や出光美術館梅沢美術館永青文庫などに散らばっているそうです。
        


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