吉薗周蔵に宛てた佐伯米子の最後の書簡は、逝去した周蔵のお悔やみを述べながら、「佐伯の書きました日記・・・・皮の大きな手帖」と「パリにいらっして下さった時、佐伯が吉薗様を描きました繪」をいただかして欲しい、と頼んでいる。結局、米子にとって周蔵は徹頭徹尾、亡夫の絵をねだる関係であった。

説明: C:\Users\ochiai\Desktop\新しいフォルダー (2)\米子最後書簡封筒.jpegこの「皮の大きな手帖」こそ、匠秀夫が研究した「巴里日記」で、現在は山本晨一朗氏に移っている。

説明: C:\Users\ochiai\Desktop\新しいフォルダー (2)\米子最後の書簡封筒裏.jpeg昭和2年、パリで佐伯が描いた吉薗周蔵の肖像は、昭和48年のセントラル画廊の佐伯展に「エトランゼ」の題で出品されていたと、河北倫明は匠の遺作になった『未完「佐伯祐三の巴里日記」』の序文に書いている。

おそらく、最後の書簡による米子の求めに応じて吉薗遺族が贈り、前年11月13日に米子が死んだので、関係者が佐伯展に出したものであろう。

下に、その写真と祐三の周蔵のスケッチを掲げる。スケッチした場所がパリでなく、東京と推定するのは、同じスケッチブックに、周蔵の巻夫人や妹ケサヨ、牧野医師などの肖像があるからである。時期はおそらく帰国期で、大正15年の初夏あたりではないかと思う。吉薗周蔵は数え年33歳である。

 

説明: 説明: C:\Users\ochiai\Desktop\新しいフォルダー (2)\syuzou2.jpeg説明: 説明: C:\Users\ochiai\Desktop\セントラル画廊佐伯.jpeg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

説明: C:\Users\ochiai\Desktop\新しいフォルダー (2)\米子最後の書簡.jpeg