武生市作成の「佐伯祐三のパリ日記」資料

その3 その手でガス栓を

 

佐伯祐三の伝記を著し、作品の鑑定書を出している朝日晃は業界で「佐伯男」と渾名されている。その著書「佐伯祐三のパリ」は平成6年2月24日の発行である。佐伯絵画の寄贈を進めるに当って「佐伯男」を無視する筈もなく、吉薗明子が朝日晃に電話で連絡をした。朝日が興奮したのは当然で、「奥さん、これは本物ですよ」との応答があったが、「佐伯の絵を全部丸めて送れ」という態度が不審で、吉薗はそれ以上の深入りをしなかった。

平成5年の暮れ、茨城県立近代美術館長匠秀夫匠から出版社の形文社に「佐伯祐三の手紙」をやりたいとの話が持ち込まれ、6年1月から「読み起こし」が始まった。編集が進んで出版となった時、朝日晃から出版停止を求める内容証明郵便が来たが、形文社は出版を止めず、匠の著書は7年4月に公刊された。

 

1927年11月に夫に口を利かなくなった米子は、12月に入って対立をますます深めたが、折しも薩摩アパートの佐伯の部屋でガス漏れ事故が発生した。事故はパリ警察からオーナーの薩摩治郎八に報告され、薩摩から東京の周蔵に連絡があった。

ネクル病院に6日間入院した佐伯は、「米子がガス栓を開くのを確かに見た」と日記に記すが、周蔵はその真否を疑う遺言を明子に残している。周蔵が佐伯を連れて行った巣鴨病院で診察した呉秀三博士は、佐伯がメニエル病のほかに精神分裂症(今の統合失調症)の患者でもある、と周蔵に告げた。佐伯の意識にはもう一人の自分が存在して、その日記は夢か現か判らないところがあるので、周蔵は将来精神病の研究がもっと進む時まで、判断を留保したのである。いずれにせよ、佐伯の日記の筆致は読む者に被害妄想との予断を与えかねない。

朝日前掲著の佐伯年譜は、11月・12月の佐伯の行動を、ヴァイオリニスト林龍作が近くにいたのでヴァイオリンに熱中した佐伯が林に同行して音楽会に行ったことと、「カフェ・レストラン」の連作が始まる、とするだけである。米子を祖述しただけの朝日晃が、ガス事故を知らなかったのは、米子がひたすら隠したからである。米子がガス事故をひた隠しにした事実には、ただならぬものを感じるのが自然であろう。

 

第20頁

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 (落合解説)ガス事故で6日間入院した佐伯に、米子は話しかけるようになったのは、看病がきっかけであろう。しかし、今度は佐伯が米子に話ができなくなった。自分はともかく、米子が彌智子まで一緒に葬ろうとしたのが、心の蟠りとなったのである。

 退院した佐伯はパリの町中を歩き、米子に云われたように広告看板を見ながら画想を練ると、泉のごとく湧いてくる。カフェ・レストランを連作したのはこの頃であろう。

それに反して米子は、ガス事件後にまったく描けなくなった。

第21頁

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 (落合解説)この閉塞状況を突破するには、絵を描いて売れんとダメや、と佐伯は決心する。前回渡仏の際、実際は米子が描いた「コルドヌイ」がサロン・ドートンヌに入選した時、悩んだ佐伯が山田新一に真相を打ち明けたら、「米子さんの方がお前より苦しい筈だ、成功するまで米子さんに任せたら良い」と言って慰めてくれた。「ワシが 米子さんなしでは いられへんからや」と、佐伯が自分の責任を感じるのは正当で、それを思うとガス事件の真相は判らない。

第22頁

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(落合解説)米子はフランス画家の絵を日本人に売っている様子である。実家に送金し、荻須の面倒も見ているので金が要る米子は、画商のまねごとをしていたらしい。

周蔵に金策を頼んでほしい、と米子は佐伯に云う。パリに遊学中の芹沢光治良に借金を申し込んだら、佐伯の絵を買ってくれた。加筆を覚られたので、芹沢に嫌われたと佐伯は思うが、米子は芹沢に自信を持つのは関係が出来たからである。そのことで後年、米子に脅された芹沢は、周蔵に助けを求めた。

佐伯が彌智子に、手紙を書いて助けてもらおうか,と相談すると、「帳面に書きませうよ、お金とお菓子が届くから」という。「パリ日記ノート」は、佐伯が千代子の部屋で、彌智子といる時に書いていたのである。

 

第23頁

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 (落合解説)馬の眼が気に入った佐伯は、気分が落ち着き、今迄で一番気が楽になった。命を狙われ、残り時間に限りがあると自分を追い込むのは、呉秀三が指摘した天才の心境である。米子は気が立っているが、「もうすぐ」とは何か?

佐伯の望みに応じるように、東京では周蔵が上原元帥の密命で渡欧の準備を進めていた。表を佐伯支援として、裏はシベリア砂金の回収工作である。

 

 第24頁

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 (落合解説)米子は描けなくなった。少なくとも佐伯の前で描かなくなったのは、夫婦合作は最早無理と考え始めたのであろう。米子は毎日荻須の処へ行ったきりで、荻須には教えていると佐伯は想像する。

荻須が米子の技術を吸収して自分に迫ってくるから、自分もパリの絵はもう描く訳にはいかんと、佐伯は思う。

 

第25頁

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(落合解説)佐伯は「パリ日記ノート」に1月22日付で遺言を書いた。米子がガス栓を開きに行くのを見たが、恐ろしいとは思わなかった。彌智子のことは心配したが、やむを得ないと考えた。すぐに、米子は彌智子を助けるものと思えて気が楽になった。しかし、いつ死ぬかも知れないので、この遺言を書き置く。彌智子だけは助けてやりたい。大人になったら、自分の真相を彌智子に話してほしい。それを周蔵に頼むのが遺言の主旨である。

 

第26頁

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第27頁

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(落合解説)第26頁の1段目までは遺言の続きで、1月22日に書いたものである。

「周蔵手記」によれば、1928年(昭和3年)1月28日にパリに着いた周蔵はそのままネクル氏を訪れた。むろん画家藤田嗣治のことであるが、驚いたのはその姿で、幼女のようにお河童頭で女物らしい服を着ていた。

周蔵に会いたかったと喜び、「早速数人に会わせるが、一人も信用するな。俺は、酒は飲めないが、たとい薩摩一人と会うにしても酒を飲んだフリをし、勿論酔ったフリをしている」という。「又、絵など描く時間もないと思わせるために、昼間はほとんど遊んでいて、家からの僅かな仕送りは寄ってくる留学生たちに食わせてしまう」とのことである。思った通り、中々の人物と周蔵は判断した。

≪着いたその日に佐伯のアパートを訪れて、顔を通す。何といっても今回の渡仏の建前は佐伯の陣中見舞いだから、それを一番に終わらす。聞くに、薩摩は佐伯の面倒を見てくれたらしく、佐伯は薩摩千代子とのつき合いもあるようだ》。

薩摩の顔で高級ホテルのリッツに3日ばかり泊った周蔵は、2日後にパリを発ち、目的のスイスに向かう。アルザスを回ってパリに戻った周蔵は、最後の用事の相手方が旅行中で5日待たされ、その間、佐伯の相手をして過ごし、米子からも話を聞いた。

≪妻君とも初めてじっくり話をしてみる。佐伯は性格の通り仕事にむらがあるらしく、描き出したものを最後までやり抜くことに困難があるらしい。然し最後までやるものもあるらしい。勝手な男であるから、続きを妻君に仕上げろと言うような示唆をするらしい。妻君のその説明については理解できた。佐伯は根がケチであるから、仕上げないと損をした気がするのであろう。所が、妻君が仕上げたものを人が賞めると云う予定外の結果が生じたらしい。嫉妬深さも手伝って妻君を嫌うらしい》。

米子の言い分を聞いた周蔵は「妻君は妻君で海のこともあろうし、当然何か考えてはいるだろう。日本においても難しい夫婦であったのだから、余計分らない関係だろう」と記している。海とは「海軍の情報員」の意味である。

佐伯から、「絵を送るから巻さんに、又買ってくれるように伝えて欲しい」と頼まれた周蔵は、「モランと言う郊外に写生に行くが、金が底をついている」というので、望み通り2千円を置いた。「送る分の絵は代わりに受け取って、三井ででも送ってくれ」と薩摩に頼んだら、薩摩は余りの下手に呆れるとのことであった。佐伯の「自分画」は元来、素人受けはしないのである。

米子から「自分が手を入れて、また加え描きしてある物は、充分に良い絵になっているが、その絵を引き取らないか」といわれたが、周蔵は妻の巻が「下手でも良いから本人のものを」と言っていたので、「自分画」を引き取った。

 

2段目から始まる文は、やや後に書いたもので第27頁に続く。ヤブ(やぶ医者=周蔵のこと)が帰って10日になるというが、周蔵がパリを発ったのは2月下旬と思われるから、正確な日時を言っていたなら3月初旬の筈である。この条の記入時期を、武生市が4月とした根拠は判らない。

   

  平成23年11月6日改正

                      落合莞爾