佐伯祐三から周蔵への書簡 (1)




●吉薗家には多くの佐伯関連の書簡が残されています。これに関しても『小林報告書』では疑問を呈していますが、『落合報告書』の記述を合わせて記載します。

小林報告書の記載 落合報告書の記載
しかし、これより深刻な問題をはらんでいるのは、フランスから日本に宛てて出されたとされる吉薗資料中の手紙類である。武生市に8月半まで寄託となっていた上記の手紙類にしても、たいていの場合、フランスの郵便局の引受日付印は、上にも述べたように、そのほとんどが封筒や葉書からはみ出し、現状では陰影のごく一部が見えるにすぎない。しかも、僅かに残る陰影もほとんど判読不能である。これに対し、日本の郵便局の到着日付印は、日付、地名などの詳細がきわめてはっきりと読み取れる例が多い。ところが、フランスから日本に出されたことが確実な当時の手紙の類を見ると、調べた限りでは、日本の郵便局の到着日付印は押されていない。この矛盾をどう見るべきなのか。
ここに一つの重要な手掛かりがある。1924年6月20日、逓信省は、外国来の通常郵便物に到着日付印を押印しないとの告示を出している。「外国来の通常郵便物」のなかには、フランスから日本に来た書状、葉書ももちろん含まれる。
例外は、現金などを同封した特殊通常郵便物 ― 書留、配達証明、内容証明 ― に限られていた。吉薗資料中の外国来郵便物は、その日付からして、ほとんどが1924年6月20日以降の日本到着である。ところが、上記の告示にもかかわらず、その多くには到着印が押印されている。この場合二つの可能性が考えられる。一つは、上記の時日以降も担当の郵便局で慣習的に到着日付印を押し続けていたという例外的処理の場合である。もう一つは、吉薗資料、の郵便物が特殊通常郵便物だった場合である。後者についてはその可能性はほとんどない。

吉薗資料中の手紙資料の封筒に見られる「日本の郵便局の到着日付印」は、皮肉にも、それら封筒が日本の郵便局を経由していない偽書である可能性の高いことを示しているのである。

本項目以前の検討で出てきた判断材料は、多くが医者としての周蔵、佐伯のパトロンとしての周蔵の実在を否定する状況証拠のようなものが多かった。しかし、郵便物にかかわる以上のような事実との齟齬は、吉薗資料全般をきわめて客観的に、もっといえば否定に判断する材料を提供していると言えよう。スタンプへの深い疑惑は、スタンプや封筒そのものの疑惑にとどまるものではなく、その封筒に包まれて送られてきた内容物、すなわち『パリ日記』や書簡そのものやメモに対する疑惑をともなって大きく深刻に広がってゆくからである。
 フランスの消印について『準備室報告』は疑念を表明するが、吉薗明子側がパリの郵便博物館で調べたところによれば、「消印が波線状のものだけのものは存在しない。円形消印と波線状(線状)の消印の二種類を押したため、場合によっては円形の消印がうまく押印されず、結果的に波線状だけか残ることもしばしばあった」とのことであった。また同館で会ったその道の学者(氏名不詳)に訊ねた所、「消印は本物に間違いなし」と言われた。以上の報告には接している。
 日本郵便局の到着印に関しても『準備室報告』は「日本の郵便局を経由していない偽書である可能性の高いことを示す」と指摘するが、その根拠たる逓信省告示をそのように読むことができるものだろうか。

 まず大正元年逓信省告示第78号で「特殊取扱でない無封書状及び第二種以下普通通常郵便物については到着日付印を押捺しない」とされ、ついで大正9年逓信省告示第1836号では「自今書留・価格表記・速達及留置通常郵便物以外ノ郵便物ニハ到着日付印ヲ押捺セス」としつつ「外国郵便物申書状及郵便葉書以外ノ通常郵便物ニシテ特殊取扱二非サルモノニ付テモ亦同シ」とされたが、大正13年第874号では、その中からさらに「書状及郵便葉書以外ノ」を削ることとされた。この結果は、外国郵便物であっても特殊取扱以外の(すなわち通常の)外国郵便物は、葉書書簡も含めて到着日付印を押捺しないこととなった ― とういう規定である。ここで特殊取扱とは、国内郵便物と同様に「書留・価格表記・留置」郵便物のことである。            

 報告人側で、ネッケル来信書簡を示して、国際郵便局に問い合わせた所、「このような簡略にすぎる宛先表記では、不完全という理由で郵便局に留置される可能性があり、その場合には留置した局の受付印が押捺されると思われるが、詳しくは郵政省郵務課に聞いて欲しい」。ということであった。そこで郵務課に伺うと、逓信総合博物館の判断を仰ぐことを勧められ、ついで同博物館に問い合わせたところ、回答は留置郵便物に言及することもなく「現場現場の判断で、このような印を押印したとしても別段の不思議はなく、この手紙3通とも特に不審な点は感じられない」とのことであった。 



●瀬木慎一氏のコメント

― 佐伯祐三のものとされる絵が大量に発見された、〈吉薗佐伯〉についてはどうでしょうか?
あれは私は実物を見ていないので今まであまり発言していませんが、状況はわかります。これに関しては、佐伯祐三にまつわるたくさんの文献資料、手紙の類やメモがそれこそ数百出ています。あの資料は人が言うほどいいかげんなものではありませんだいたい外国の古い郵便スタンプまで偽造する人もいないし、できるわけがありません。それに彼と関係のあった吉薗周蔵という人物も確かにいたと思います。これは普通の人間ではない、非常に奇怪な人物ですね。ああいうのは、昭和の軍国主義時代の社会が生んだ非常に特殊なアンダーグラウンドな人物ですよ。

問題はあの絵です。本物の絵を見ないと本当は何とも言えないんですが、これまで発表されたものを出版物で見て言えることは、描き方が薄いことです。下地が埋まっていないような感じです。ふつうの画家ならこれは仕上げられた絵ではなく、初期の段階あるいは未完成の絵というべきでしょうか。でも佐伯がこんな絵を描いたわけがないという人は非常に早計だと思います。どんな画家にもこういう段階の絵があるし、彼の場合はあまりいい状況で死んだわけではないので、たくさんの絵を丹念にフィニッシュできたわけではなかったろうし、そのまま絵が放置されてもおかしくないでしょう。
佐伯の現存作品はだいたい500点ぐらいだと思いますが、30歳という短い生涯でもそれだけの作品があるわけですから、未完成作が50や100、あるいは200や300あっても私は変だとは決して思いません。この人は元来速筆の人ですから、本当はこれ以前のいわゆる素描やデッサン、下絵といったものがもっとあってもおかしくないんです。

パリや日本で佐伯と密接につきあった人々の思い出については、1937年に出版された『佐伯祐三遺作展覧会目録』のなかに様々な人が文を寄せています。そのなかに親友の中山巍の手による《佐伯君とその作品》と題した文章があります。これがまさに重大な証言で、どういう訳か、みんなこれにふれていないんです。そのなかで中山さんは「佐伯は所謂腕のたつ画家だった。筆を握れば縦横無尽に描きまくることが出来る男だった。・・・一日に三四枚も描くことがあった。作画は早かった」と書いています。我々がこれまで見てきた佐伯には、そういう絵がないじゃないですか。むしろこの機会に佐伯の未完成のもの、下絵的なものがないことの不自然さを研究家たちは説明しなければならない。死んだ後に妻であった佐伯米子さんが破棄したのか。しかしそんな記録は全然ないし、そんなことは誰も言っていないわけです。そうすると残っていなければいけないんですよ。
それと報道の問題もあると思います。たとえば『芸術新潮』が撮影して掲載した作品の見栄えはいいと思いますが、
『AERA』が掲載したものは報道週間誌の写真のせいかちっともいい撮影とは思えない。『AERA』に載っているものを見た限りでは人は偽物だと思いますよ。そういう写真の影響も大きいでしょうか。
(Bien Vol.24)




佐伯祐三の書簡(1)

1923年 (消印不明)

吉薗周蔵様  東京府豊多摩郡中野町大字中野
大阪市外中津町  光徳寺

近日中ニ渡仏ノ予定
微熱アルヤナシヤ貴兄医師ノ云ワレルトオリ夕方カラ夕飯喰後ニシンドヒ
シカシヤルキ充分満々期待サレタシ
サレバ死カラ護身スルガタメ
医師ノ忠告ニ守リ報ヒル所存ニテ クスリ大量ニ持参シタシ
急ギテ送リ願イタシ宜敷タノミマス
仕事−愛−生活ー病−死
コレスベテ人生ナリヤ

佐伯祐三

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