●上原勇作(1856:安政3〜1933:昭和8年)



都城島津藩士、龍岡資弦の次男に生まれ、後に上原家の養子となる。周蔵の祖母であるギンヅルは
四位次兵衛昌張と岩切某の子で、上原勇作の叔母にあたる

   ・明治4年16歳で上京しギンヅルの斡旋で陸軍少佐野津道貫の書生となる。
   ・大学南校でフランス語を学び後に陸軍幼年学校に入る。
   ・明治12年士官生徒第三期の工兵科を主席で卒業
   ・明治14年フランスに留学し、グルノーブル工兵第四連隊付の後、フォンテンブロー砲兵学校に学ぶ。
    (日本陸軍に欧州の科学知識と合理精神を伝え、後に日本工兵の父と呼ばれる
   ・明治17年に帰国。
   ・明治24年36歳で17歳年下の野津道貫の娘と結婚。
   ・明治27〜28年の日清戦争で第一軍参謀副長となる。(第一軍司令官は野津道貫)
   ・日露戦争で野津第四軍の参謀長として軍功を上げる。
   ・明治39年陸軍中将となる。
   ・明治40年男爵となる。
   ・明治44年第二次西園寺内閣の陸相となり、2個師団増設を強硬に主張するが、
    西園寺の拒否にあい単独辞職して内閣を倒壊させて大正政変のきっかけとなる
   ・その後、教育総監、シベリア出兵時の参謀総長などを歴任。

後に、元帥、子爵となる。薩摩の元帥野津道貫の娘と結婚した事で陸軍内の薩摩閥の長老となる。
昭和初期にかけては、全盛をきわめる長州閥と対抗する長州以外の軍人グループを形成し
後の皇道派、統制派の母体となる集団の長老であった


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