個別品解説

5・定州紅玉碗(奉天品番25)

 

実物と来歴

説明: C:\Users\ochiai\Desktop\新規フォルダー (2)\059.jpg上が実物である。普通なら「紅釉大碗」と呼ぶべきものを、「定州紅玉」という風雅な名を付けたのは、即物的な「奉天図経」にしては異例である。

中国史が芸術帝国として誇る北宋の白磁の名窯として知られる「定窯」を作り出した河北省曲陽県一帯は、古の定州の地であった。その象牙色がかった白釉は石炭の酸化炎で焼いたもので、牙白と呼ばれるが、特別な品種に「紅定」「緑定」「黒定」「紫定」と称される単色物がある。

「黒定」などは遺品が残っているが、「紅定」「緑定」の遺品は全く残されておらず、その実態を巡って様々な憶測ないし幻想が広まっている。

下に掲げた「奉天図経」の一部(本会発行の資料本から転写)は、乾隆帝が奉天に秘匿していた「奉天古陶磁」に接した吉薗周蔵が、焼物に添えられていた古陶磁書を筆写した中の、「定窯」に関する箇所である。古陶磁書の名が抜けているが、内容は『格古要論』と似ている。興味深いのは、文章の題を定州花瓷琢紅花」としていることである。

曹昭の撰により洪武20年(1387)に成った『格古要論』を小山富士夫が『河出書房・世界陶磁全集10』で引用していて、それには「東坡の詩に云う、定州花瓷琢紅玉云々」とある。文意は「定州産の華麗な焼物は紅玉(ルビー)を砕いて作った」ということだから、「紅花」は「紅玉」でなくてはならず、周蔵が誤写したと看るのが自然であろう。

ところが、この他にも3行目に「然難得成隊者」とあるのは、文脈からして「然難得(然れども得難し)」で一旦切るべきである。そうすると、その後には「成隊者(隊を成す者は)・・・」を受ける語が続かなくてはならない。小山の引用文は、「成隊者」の後に「有紫定、色紫(紫定あり、色は紫)。有黒定、色黒如漆・・・」と続くから文意が通るが、周蔵がそれをも飛ばしてしまったとは考えにくく、お手本の古陶磁書が既に誤写の産物だった可能性が高い。

この説明: C:\Users\ochiai\Documents\Scanned Documents\Documents\zukyoukosyo1.jpeg詩は「試院煎茶」と題するもので、科挙の試験期間に会場たる試院に足止めされていた受験生は自炊を余儀なくされ、茶も自分で沸かした情景を詠んだ詩だが、いかなる富豪の子弟でも紅定を私有し得る者はなかったから、誌的妄想の類と考えるのが自然である。   

紅定について小山富士夫は、「鉄塩の高火焼成による呈色で、含有量の少ないものが紫定であり、やや多い物が黒定であり、最も多いものが紅定ではなかろうか」と述べていて、紅定を酸化鉄発色のいわゆる「柿天目」のことと見ていたことが分かる。

周蔵の筆写した古陶磁書には、定窯に「北定」と「南定」とを数えるが、今日では真の定窯は前者に限られる。

北方民族の圧迫を受けて南渡した宋朝が景徳鎮で作らせた南定は、還元焼成のために、牙白色でなく青みがかった白色で、今ではただの南宋白磁(又は青白磁)とされている。

本品を看るに、胎土と透明釉の色調からして、その景徳鎮製たることは明らかである(下図)。したがって、本品を宋時代とすれば、その南定たることは論を俟たず、本会が『陶磁図鑑』を編纂した時にもそのように判断した。

ところが、5年後に出現した「奉天図経」には、本品を「定州紅玉」と記すだけで、年代を書いていない。

形違いが4点あり、本品はその一つで右上に描かれている。本会の所管に移って来たのは本品だけで、他の3品は何処へ流出したのか、未だに公開されていない。

 

説明: C:\Users\ochiai\Documents\Scanned Documents\Documents\nantei2.jpeg 説明: C:\Users\ochiai\Documents\Scanned Documents\Documents\nantei1.jpeg

  四品 碗 定州紅玉

これら4品は定州紅玉の絶品。調べたがどれも1点づつしかない。光沢のある美しい紅にて 皇帝の重要なる一品

 

 図経の記述に皇帝の重要なる一品」とある通り、本品を含む4点の「定州紅玉」は愛新覚羅家のレガリア(聖遺宝)であった。ゆえに、本品以外の3点は各地美術館に収まった一般流出品とは類を異にし、流出したにせよ単なる換金のためではなく、愛新覚羅家が認める相手方に日本側から譲与したものと推察される。  

ここに日本側とは紀州徳川家のことではなく、張作霖支援資金750万円の4分の3を出した堀川辰吉郎である。また、相手方とは愛新覚羅家と慇懃を通じた某皇室の近辺と推察される。(本会発行・落合莞爾著解説本を参照)

 本品は、底裏を見ただけで還元焼成と分かるが、問題はやはり年代である。「定州紅玉」を「紅定」の異名とすれば、宋室の南渡後(1126年)に、南宋皇室が景徳鎮の御窯で造らせた紅釉碗と考える外はない。

だが、南宋景徳鎮の紅釉のごときは、いまだに一個の遺品も知られていない。本品がもし南宋景徳鎮の作品とすれば、その紅釉技術は元代の「紅釉」から明初永楽・宣徳の「祭紅」「鮮紅」を経て、清初期「郎窯」の「豇豆紅」や「牛血紅」に繋がる筈である。その連綿たる紅釉の流れの一等最初に本品を位置付けて良いかどうか、本会はかなり考えた。

左図が示すように、本品の深い紅色は透明感があり、桃の花びらのように艶麗である。

清初康熙の紅釉磁器に、紅色の地に窯変の緑色や灰色が点在する一群があるが、世上これを「桃花紅」と称し、キッチナー元帥が宣統帝溥儀から(実は父の醇親王から)頂戴したことで知られている。その所謂「桃花紅」を蔵していた奉天宮殿の台帳はその品名を「江豆紅」とする。これは「豇豆紅」と同じ意味で、赤味が薄く「豇豆」乃ちササゲ豆の淡褐紅色を思わせるために、その名がある。要するに、これが本名であって「桃花紅」は俗称なのである。

説明: C:\Users\ochiai\Documents\Scanned Documents\Documents\peachbloom.jpegこの種は「奉天図経」にもあり(奉天品番224)、永青文庫蔵として知られ重文にも指定されている「桃花紅合子」(下右)は、寸法から見て奉天品番224と考えられる。周蔵はそれを「合子一對 桃色 康熙記有 清」とだけ記し、江豆紅とも桃花紅とも書かなかったが、桃色としたところに「桃花紅」を意識していることは間違いない。

   

さすがに「奉天古陶磁」由来の名品で、まことに結構な一対であるが、このような緑色まじりの紅色が、何ゆえ紅一色の桃花の色に譬えられるのか、甚だ得心がいかない。「豇豆紅」の窯変を取り上げて、世上「桃花紅」と呼ぶのは真に不可解である。

そもそも「桃花片」は桃の花片に譬えられた明代の名陶で、透明感のある純潔な深紅色のため「大紅美人酔」などの雅名でも呼ばれた。むろん、いわゆる「桃花紅」とは似ても似つかない。頬を深紅に染めた酔美人の頬に緑や灰色の苔が点在すれば、もはや怪談の類ではないか。

上田恭輔『支那陶磁の時代的研究』には「元来郎窯は銅釉を還元炎で焼き上げるのであるが、動もすれば酸化炎に侵されて忽ち色々に変色する・・・之がために、後世には本物の深紅の郎窯よりは変色の物を尊び・・・素と郎窯の理想色は濃紅にあり、之を【大紅・積紅・牛血紅】に区別して居ったが、中には明代の宝石紅に近い鮮紅色の緋絹の様なものも焼け上がる。而して之を祭紅・美人祭・楊妃美・桃花片・宝石紅と分類した。また郎窯の窯変中で、欧米人の好事家の間に最も高価を唱えられるものは緑色に化けた頻果緑・淡褐紅の豇豆紅である」という。

郎窯の理想は明代の鮮紅色であったが、大抵は窯変してしまうから、完成品は極めて少ない。偶々完成した、明代の宝石紅に近い鮮紅色の緋絹の様なものを、「桃花片」などと分類した。郎窯の窯変物の中で、欧米人の間で高価な物は、緑変した「頻果緑」と淡褐紅色の「豇豆紅」である。

つまり、「桃花片」・「桃花紅」とは、たまたま出来上がった紅絹の様な純潔な鮮紅色を本来指したのだが、本物は滅多にないため、好事家の興味は窯変物に傾き、「豇豆紅」を称揚するに至ったというのである。

「豇豆紅」に「桃花紅」の名を冠したのは、古陶磁商が売価を高めるために古陶の雅名を借用したもので、欧人購入者がそれを根拠に「ピーチブルーム」と唱えたのであろう。恰もアパートをマンションと称する類ではあるが、この名はすでに通り相場となったから、本会も必要のない限り、それに逆らわないことにする。ただ一言だけ謂えば、桃果と桃花は色調において異なる。紅に緑が混じるのは、強いて言えば「桃果紅」であろう。

紅釉と謂えば「郎窯」と謂われ、臧應選の後を承けて康熙窯を監督した郎廷極のと相場が決まっているが、世上いわゆる「郎窯」には、「豇豆紅」の外に、黒みがかった深紅色の「牛血紅」が知られている(下図)。

「牛血紅」は、康熙年款在銘の紅釉を、仏人が屠畜場の流血に見立てた名称で、今日の中国では余り用いず、単に「紅釉」とか「郎紅」と呼んでいる。上に掲げた2品がそれで、紅釉が自重で垂れ下がり、口辺は脱色して裾部に濃く溜り、屠られたばかりの牛血の垂下を思わせる。これが郎廷極の目標でなかったのは上田説の通りであるが、結局これ以上は無理であった。

それでも「郎窯」・「郎紅」と呼ばれて紅釉の代名詞になり、今も珍重されるのは、銅紅釉の技術が至難のために完成品が世上になく、これを以て合格点と看做されたからである。

 

説明: C:\Users\ochiai\Documents\Scanned Documents\Documents\rouyou1.jpeg説明: C:\Users\ochiai\Documents\Scanned Documents\Documents\rouyou2.jpeg

 

 

 

 本会の見解

本品は清朝初期の御器厰で造出された空前絶後の紅釉である。ご覧の通り紅絹のごとき純潔な濃紅色で、紅釉として完成の域に達している。

世上いわゆる「郎窯」とは共通性がない。郎廷極が本品に関係したのなら郎窯遺品の何かにこの技術の痕跡が遺っていて然るべきだが、それがない。

ゆえに、本品を「康熙御窯の神人と謳われた臧應選の苦心によって成った」との観方が出てきて当然である。一方、生涯ただの一個も款銘を入れなかった郎廷極の素志を推量して、「世上いわゆる郎窯品は真の郎窯に非ず、本品こそ真の郎窯なり」との主張もあるが、今は結論を急ぎたくない。

本会の落合莞爾は、中国社会の伝統として、王朝初期に強烈な集中力により出現した新技術が達成後は向上に向かわず、量産化と並行して必ず低下していく歴史法則に当て嵌めた場合、臧窯の達成した紅釉技術よりも、後継者の郎窯の技術が落ちるのは不自然でない。故に本品こそ「幻の臧窯」と主張している。

以上

 

 平成23(2011)年9月1日 

   紀州文化振興会 代表理事 落合莞爾