第1章 本稿の目的と対象

 

 

  第1節 「経」及び「図経品」の概要

 

 

1・『奉天古陶磁図経』と吉薗周蔵

本稿の目的は中華陶磁史の根本的資料というべき『奉天古陶磁図経』(以下、略して「図経」と謂う)の存在を世に明らかにし、以て中華陶磁史の理解と発展に寄与することにある。ここに「図経」とは、大正9(1920)年6月から8月にかけて、吉薗周蔵が、中華民国奉天省の奉天城内(現在の遼寧省瀋陽市)において作成した手作りの冊子である。その体裁は鉛筆書きした和紙数十枚を紙縒りで綴じた幾つかの分冊で、不肖が眼にしたものは3冊であるが、作成当初は4〜5冊あった。

陸軍参謀総長上原勇作大将の密命を受けて奉天に赴いた吉薗周蔵は、現地で図らずも中華陶磁の真髄に接することとなり、天命を覚ってその写生と記録に努力を傾注し、この冊子を残したのである。その経緯に、北宋宣和年間に徽宗皇帝の命を奉じて高麗国に使いした徐兢の『宣和奉使高麗図経』を偲ばせるものを感じ、『大正奉使奉天古陶磁圖経』と題したい処であるが、ともかく「図経」と略称することにする。(図1・「図経」の一部分)

   図1・「図経」の一部分

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作成者の吉薗周蔵(以下、周蔵とする)は明治27(1894)年5月12日宮崎県西諸縣郡小林村の生まれで当時26歳であった。父吉薗林次郎は、公卿の正三位右兵衛督堤哲長を父、薩摩藩京屋敷の女中頭吉薗ギンヅルを母として、慶応元(1865)年京都で生まれた。堤家は勧修寺系甘露寺家の支流で家禄30石、家格は名家(公家の家格の一つ)であった。

孝明天皇の側近だった哲長は慶応3(1867)年12月、維新政府が旧官制を廃止して総裁・議定・参与の3職を置くと参与に任じ、制度事務局の次官たる権輔(督は鷹司輔熈)をも兼ねた。かくて政界での雄飛を期待された哲長はしかし、1年後の慶応4年4月4日に41歳で急逝する。養嗣子功長は明治17年の華族令で子爵に叙せられた。    

因みに、林次郎の4歳年上の異母兄は、津和野4万3千石の藩主亀井茲監の養嗣子となり玆明と名乗り、伯爵に叙せられ、その曾孫の亀井久興は参議院議員・国土庁長官から国民新党副幹事長となり、平成の政界で活躍している。

林次郎は堤家に認知されて堤次長と名乗ったものの、堤家の家督相続に敗れ、やがて宮崎県西諸県郡小林村の養家吉薗家に帰る母ギンヅルに従い、その豪農の家督を継いだ。

同じく西諸県郡の豪農岩切家に生まれたギンヅルは、都城藩士龍岡資弦に嫁いだ実姉タカが次男勇作を生んで早世した後、姉に代わって勇作を薫陶し、京の薩摩屋敷以来親交のあった薩摩藩士たちにその支援を頼んだ。中でも、明治天皇の側近で宮内省侍従番長の高島鞆之助(のち陸軍中将子爵)は、義弟で陸軍少佐野津道貫(のち元帥陸軍大将侯爵)と同居していた麹町の野津邸に勇作を引き取り、南校(大学南校)に通わせていたが、陸軍士官学校が新設されるや転校させ、陸軍軍人への道に向かわせた。第2図・吉薗か系図は末尾に)

ギンヅルの計らいで薩摩高官たちの庇護に恵まれた勇作は、陸軍士官学校の旧制第3期工兵科を優秀な成績で卒業し、陸軍のフランス留学生に選ばれた。フランスではグルノーブル工兵第四連隊付少尉となり、フォンテンブロー砲工専門学校で学んで帰国した勇作は、最先端の知識と生来の能力を発揮して陸軍要塞の建設に尽くしたから、陸軍工兵の父と呼ばれる。

日露戦争で野津第4軍の参謀長を務めた勇作は卓越した軍政能力により陸軍内の輿望を集め、陸軍改革を叫ぶ青年将校たちの声に圧されて明治45(1912)年に陸軍大臣に就き大正3(1914)年に陸軍教育総監、同4年に陸軍参謀総長と陸軍3長官を歴任し、終に元帥陸軍大将子爵に昇った。(図3・上原勇作)

林次郎の長男が吉薗周蔵である。周蔵は小学校時代に中等学校の数学教程を自習ですべて済ませる異才を発揮して、飛び級で県立都城中学へ入ったが、学校教育に馴染むことが出来ず、1ヵ月も通わずに退学した。

そのため上級学校の受験資格のない周蔵は、祖母ギンヅルが親しい海軍大将山本権兵衛の口利きにより、特例で熊本高工を受験させて貰うが、試験日の前夜悪友に誘われて妓楼に登ったまま出られず、試験を放棄してしまう。

やむなく学歴不問の熊本医専に入学した周蔵は、下宿屋の少女に結婚を迫られて夜逃げする羽目になり、帰郷した後上京して、祖父堤哲長の縁戚の武者小路実篤の書生になるが、やがて郷里に帰り農作業に就いた。

大正元(1912)年8月、18歳の周蔵は、祖母ギンヅルの計らいで、時の陸軍大臣上原勇作中将に御目通りする。(図4・佐伯祐三画・吉薗周蔵)

上原は一目で周蔵の才能を見抜き、将来国事のために働かせようと考え、海外に出る時の肩書として測量技師の資格を取得させるため、9月10日熊本の東亜鉄道学校に入学を命じた。

10月1日付で東亜鉄道学校第2学年に転入した周蔵には特に学ぶべきこともなく、形式的に在籍しただけで、上原のもう一つの指令である罌粟栽培と阿片生産の研究のため、3年ぶりで熊本医専に戻り、薬事部の助手(研究員)になった。(図5・「周蔵手記」)

2年後に鉄道学校を首席で終了した周蔵は、軍籍に入らず上原勇作の私的特務として特別任務に携わり、多くの実績を挙げた。その一例は、第1次大戦中の大正5(1916)年、敵地オーストリアに渡ってウィーン大学医学部のラントシュナイダー教室に潜入し、血液型分離法を調査して日本に将来したことである。周蔵の報告を受けた東大教授呉秀三門下の陸軍軍医たちが日本における血液型分離法の嚆矢を成したが、日本医学界は今以てその事実を公認していないと謂う(畏友荒蒔康一郎君の教示による)。

 

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      図3・元帥上原勇作       図4・吉薗周蔵[佐伯祐三画]

 

説明: 説明: 5のa周蔵手記.jpg説明: 説明: 5のB周蔵手記冒頭.jpg

        図5・吉薗周蔵手記と、その冒頭の一部分