これから述べるのは、日本近代史の実相である。明治維新を企画・推進した極く少数の人士が、治世の最重要事として厳重に隠蔽したため、後代の政治家は素より、専門史家すら全く知ることなしに、今日まで見過してきた歴史の秘事である。因って、教科書史学の説く所とは根本的に異なるが、十数年来、日本近現代史の裏面を探求してきた私(落合)が、世に隠れた事実に導かれて、終に此処に至ったもので、特定の史観すなわち先験的な歴史思想を史実に当て嵌めたものではなく、史実の探求と偽史の訂正を積み重ねてきた結果、辿りついた論理的帰結である。

先人が史実を隠蔽し偽史さえ敢えてしたのは、素より治世上の理由である。それを此処に敢えて公開するのは流石に躊躇されるが、通説に迎合すれば真実を歪めざるを得ず、世に虚偽を伝える偽史に加担してしまう。因って、一大決意の下に公開することとした。巷間自ら理解の及ばない歴史の真相を聞かされると、「陰謀史観」なぞとして闇雲に退ける向きが多いが、その種人士には以下をお読みにならぬよう願う。

日露戦争により日本の国力を目の当たりに観た愛新覚羅氏は、満洲族の将来を賭けて日本に接近を図った。漢族の自立が眼前に迫る中、その後の満洲政策を諮るために、西太后は忠臣袁世凱を代理人として折衝に当たらせたが、明治皇室も政体桂太郎内閣も敢えて之に応対せず、愛新覚羅氏との折衝に当たったのは、孝明帝の血統を継ぐ堀川辰吉郎を奉じる京都皇統勢力であった。明治元年、維新政府は徳川氏の江戸城を東京城と改称し、新たな皇居と定めて新帝明治天皇が住することとなったが、先帝孝明天皇の血を継ぐ一部皇統は秘かに京都に残り、公卿・社寺・公武合体派など幕末以来の諸勢力の輔翼を受け、東京皇室と維新政体が直接関わることが難しい特殊な国事に当たることとなったのである。

京都に残った皇統の中核は、俗姓堀川を称する辰吉郎で、その後見人に杉山茂丸(一八六四〜一九三五)が選ばれて以来、杉山の拠る玄洋社が辰吉郎の支援勢力として台頭した。その背景は、玄洋社の母胎黒田藩が幕末に薩摩島津氏から藩主を迎えて血統を変じ、島津氏の別派と化していたからである。茂丸は龍造寺の男系杉山姓を称したが、実は島津重豪の九男で黒田藩主となった黒田長溥(一八一一〜一八八七)の実子で、島津重豪の実孫でもあるから、島津斉彬・久光兄弟の父斉興とは従兄弟の関係にあった。長溥が実子茂丸を龍造寺系杉山家に入れ、藤堂家から長知を迎えて黒田家を継がせた深謀遠慮は、無論教科書歴史の所説とは全く異なるが、これを理解せざれば日本近代史の真相を得られない。

維新後、在野志士を志した黒田藩士が結成した政治結社玄洋社は頭山満・平岡浩太郎を社長に仰いだが、隠れた社主が茂丸であったことは謂うまでもない。辰吉郎は杉山茂丸を傅役として福岡で育てられた後、上京して学習院に通う。皇族・華族の子弟教育を専らとして、平民の入学を初等科に限った当時の学習院に、辰吉郎が入学したことは、その貴種たる一証である。

長じた辰吉郎が、わが国の皇室外交と国際金融政策を秘かに担う次第こそ、明治史の秘中の秘で、これを知る者は今や杉山家の周辺にさえほとんどいないが、その観点から史書を渉猟すると、痕跡は随所に散見される。一例は、明治三十二年日本に亡命してきた清国人革命家孫文を支援するため、辰吉郎が孫文の秘書となり行動を共にした事である。孫文が、常に身辺に伴う辰吉郎の正体を日本皇子と明かすことで、清人間における信用を高め得たのは、素より元洋社の計らいであった。

要するに京都皇統は、清朝倒壊後の満洲の宗主権保全を図る愛新覺羅氏(西太后没後、その中心は、光緒帝の実弟で宣統帝溥儀の実父の醇親王載灃)と、満洲族支配からの漢族独立を図る革命家孫文の双方を支援したのであるが、両者の目的は同じく満漢分離の実現にあり、両立は本来可能であった。漢族の自立革命によって成立した新国家中華民国は、孫文の掲げた民族自立主義を実際に貫徹しなかった。即ち、中華民国は漢族の純粋民族国家でなく、漢族主体の多民族国家(中華思想に拠る合衆国)になったが、これは当時の国際政治の現実がもたらしたもので、あくまでも結果である。

ともかく愛新覺羅氏と京都皇統の密約は具体化し、杉山茂丸らの苦心の結果、辰吉郎は明治四十三(一九一〇)年紫禁城に入り、内廷の小院に住んだ。その間、辰吉郎が喫緊の要地たる満洲をしばしば探訪したのは当然で、情報誌『月刊みち』紙上に、安西正鷹が「辰吉郎は満洲の覇者張作霖と昵懇になり、その長子学良と義兄弟の盟を結んだ」と述べているが、否認すべくもない。辰吉郎は、国民党ナンバー2として終始蒋介石を支えた張群の長子に娘の一人を嫁がせたという(中矢伸一『日本を動かした大霊脈』)が、孫文の死去後も国民党との関係が途絶えなかった一証であろう。また、他の娘は富士製鉄(現社長新日鉄)の創業者で日本財界の重鎮となった永野重雄の子息辰雄の室に迎えられた。前首相鳩山由紀夫の父鳩山威一郎(大蔵事務次官・外相)が辰吉郎に親炙した事も、辰吉郎の出自を黙示する。

それもさることながら、特筆すべきは、辰吉郎が世界各国で、ことに王室内部にその子供を残した秘事であろう。欧州各王室は婚姻政策に拠って緊密に結びついているが、国體を慮って王室連合加入を躊躇う東京皇室に替わって、辰吉郎が裏面で実践したわけである。これぞ皇室外交の真髄と謂うべきである。

明治維新は、西南雄藩の下級藩士を中心とする志士たちが、日本社会の近代化国際化を目指し、政体の変改を希求して推進したものである。薩長土肥の何れの藩においても、維新志士たちの拠ったイデオロギーは「楠公精神」で、楠木正成が後醍醐天皇を助けて鎌倉幕府を倒した「建武中興」に政体変改行動の模範を求めて、その再現を図ったが、彼らの目的を政体変改だけに限るのは、いかにも表層的理解である。

楠木正成の思想は、南朝皇統を正統とする名分論にあったから、楠公精神を標榜した志士が目指したのは、江戸幕府打倒と王政復古による単なる政体変改でなく、南朝(大覚寺統)の復活と北朝皇統との交替にあった。皇統の交替は「国體」の変改を決して意味しない。皇位相続の問題は、国體観念に影響しないのである。そもそも日本の国體は、日本列島に人間が住み着き社会を成して以来、徐々に醸成され連綿と受け継がれてきた観念で、国家社会の在り方の根本を規定する。有史以来「政体」には幾多の変動があったが、国體に変改はなかった。つまり国體の観念は「日本」と一体不可分で、国體が厳として存する限り日本は存続し、日本が在る限り国體がそれを支えているのである。

後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒し、天皇親政の「建武新政」を建てたが、この新政体は歴史の展の法則たる封建制の進行には逆らえず、間もなく崩壊して足利氏が室町幕府を開く。開府に当たり皇室の信認を必要としたのは、国體の下で当然であるが、幕府将軍に就いた足利氏は、両統迭立の先約に背いて、持明院統(北朝)のみを皇室とした。これに対して大覚寺統は、吉野など天嶮に拠って南朝皇室を立て北朝と対立したので、茲に両統が並立する事態を招く。鎌倉時代に皇室の内紛から生じた両統の対立は、幕府の仲介により迭立(たすき掛け相続)を合意したが、貫徹できないために此処に至ったので、固より変則事態ではあるが、国體自体を損壊するものではない。

名分論に立って室町時代以来の北朝専立を改め、南朝の復活を目指す動きは、江戸幕藩体制にも潜在していた。元和元年、大坂夏の陣により徳川氏が覇権を確立するや、徳川家康は「元和元年八月應勅」と銘打った『公武法制』を定めた(『南紀徳川史』)。

其の第十二条に、「尾州大納言義直と紀州大納言頼宣両人は将軍と並んで三家と定める。これは将軍が万一傍若無人の振舞を致し国民が迷惑する時は、右の両家から代りが出て天下政道を治めるためである。このため両家は、諸賦役を免除されて官職従三位を賜り、尾州は六十二歳、紀州は六十六歳で大納言を賜り、国中の諸侯は将軍に準じて尊敬致すべきこと」と定めている。つまり、徳川御三家とは本来、幕府将軍家及び将軍職の直接継承資格を有する尾張家・紀州家の三家を指すもので、水戸家は入らない。

その理由を第14条に、「水戸宰相頼房は副将軍を賜るが、その意味は、将軍が国政を誤った時には老中・役人をして評定せしめ、水戸家の指図を以て尾州・紀州の両家から適任者を選び、将軍相続を奏聞することにある。万一両家に其の任に応ずる人が居ない時は、いずれの諸侯からでも天下を鎮めるべき器量を選んで奏聞すべきである。ただし奏聞者は水戸家に限るものとする」と規定しているが、之により恰も「神聖ローマ帝国における選帝侯」の立場に就いた水戸家では、二代藩主光圀以降、将来有り得べき将軍選定作業に備うべく、ひたすら歴史研究に勤しむこととなった。蓋し、水戸藩が彰考館の開設と「大日本史」編纂を始めた所以である。

『南紀徳川史』の編者堀内信が、「『公武法制』の原本はある秘本より抄出したものだが誤字が多い。秘密だったために転々筆写して来たものと思われる」と謂う通りで、『公武法制』は江戸幕府の極秘法規であった。政体たる幕府将軍職の変更手続きを明定するその内容は、、時の国家憲法そのものであるが、憲法史上これを論じた学者を見ないのは、極秘に扱われてきたために、明治以後今日まで、憲法学者がその存在を知らないからであろう。

ともかく、その内容を漏れ聞いた雄藩が、将来有り得べき幕府将軍の選定に備え、秘かに対応策を巡らせたのは当然である。対応策の主柱は、南朝皇胤を秘密裏に確保し保護することにあった。蓋し、幕府将軍職に就くのに天子の信認が不可欠なのは、国體により自明であって、そのために雄藩は自前の天子候補の確保を図ったのである。

その天子候補が悉く南朝皇胤であったのは、選帝侯たる水戸家が大義名分論に立ち、南朝正統説を宣揚したからである。水戸徳川家が会津藩に匿わしめた熊沢氏は後亀山系信雅王の後裔で、熊沢蕃山の外祖父もその系統であった。彦根井伊氏が擁した三浦氏は宗良親王系、防長毛利氏が保護した地家氏(大室氏)は名和氏に護良親王の後裔が入ったものと推量される。仙台伊達氏が擁した小野寺氏は長慶天皇系である。また紀州徳川家が、護良親王が調月村井口左近家に遺した子孫縁類を探索して召抱え、異例の厚遇をしたのも同じ意図であろう。

維新を推進した薩長土肥の四藩では、長州藩が元治元年に楠公祭を挙行し、薩摩藩も同年楠

公社の創建に掛かり西郷隆盛らが奔走した。肥前藩では副島種臣の実兄枝西神陽が楠公義祭同盟を始め、土佐藩では武市瑞山が土佐勤王党を興して楠公精神を追慕した。維新の大業漸く成り、明治政府は国家を挙げて湊川神社を祀り楠木正成を顕彰したが、南朝皇統復活についてはどのようになされたか。これに関しては巷間数多の著書が出ており、インターネットにおいても盛んに論じられている。教科書史学とは氷炭相容れざる内容であるが、要約すれば、護良親王五代孫を始祖とする地家作蔵の子の大室寅之祐が、長州藩の計らいで孝明帝皇太子祐宮睦仁親王と入れ替わったと謂うものである。細部は正鵠を得ないにしても、最表層よ

り数層下のレヴェルの歴史事象が顕れたわけで、当否の判断は諸賢に俟つこととする。

 明治四十三年の教師用教科書の改訂に関して浮上した南北朝正閏問題が、明治末期の朝野を

揺るがしたのは、翌四十四年の大逆事件裁判で、幸徳秋水被告が南朝正統論と明治皇室の関係

に言及したためである。尤も、問題の根底には世俗的勢力争い、すなわち両皇統の配下の末端

における角逐があったものと考えられる。とかく分業体制は末端における競合を避けられない

から、東京皇室と京都皇統の二元制の下で、実行勢力の間に軋轢が生じるのはやむを得ない。

大正三年、中山忠英が大日本皇道立教会を創立して初代会長に就任した。忠英は、天誅組を首謀したが、亡命先の長州で十九歳で暗殺された中山忠光の遺児である。同会は、南朝を正統として、その皇道に沿う教育を行う主旨を掲げたが、真の目的は南北朝の融和で、つまり東京皇室と京都皇統の末端に於ける親和を志すものであった。大隈重信初め大物華族が歴代会頭に任じたが、創立者の中山忠英が急死したために、その業績は不発に終わり、昭和五年十一月十八日を以て創価教育学会に変身する。即ち後の創価学会である。

明治三十七年の日露戦争に際しては、玄洋社員が企画した満洲義軍を称する特別任務隊が、大本営参謀福島安正少将の承認を得て、ロシア軍の後方を撹乱した。満洲義軍は、軍事探偵と特別任務(特務)に止まらず、清人有志との提携をも図り、大本営幕僚花谷仲之助少佐(陸士旧制六期・三十八年四月中佐)の指揮の下に活躍した。軍人・通訳五十五名に加えて、玄洋社員十四名が参加した満洲義軍は、明治三十七年六月には遼東半島安東県に入り、現地馬賊に呼びかけて四個隊を編成したが、その数は最盛時には五千人を数えたという。

当時の現地馬賊の頭目には日本人が多く、「江崙波」こと辺見勇彦、「天鬼」薄益三、「鉄甲」根本豪などの名が巷間の馬賊書を賑わすが、彼等は満洲軍総司令部附橋口勇馬少佐(陸士旧制六期・三十八年三月中佐、のち少将)の指揮下に入り、配下の満人たちを率いて活躍した。

満洲一円の緑林(いわゆる馬賊)に日本人が多かったのは、満洲を対ロシアの地政学的最重要地とする国家的見地から、玄洋社が国事のために送り込んでいたのだが、同じく緑林でも、王文泰について知る人は稀である。王文泰は、後に大本教の開祖となる出口ナヲの次男として明治五年に生れた本名出口清吉である。正に丹波大江山衆であるが、実は公卿嵯峨家の出自と謂われる。嵯峨家は、当主実愛が王政復古に尽力した上、嫡子公勝の室に中山忠光の遺児ナカ(南加)を迎えており、伏線が感じられるが、仔細は窺う由もない。

日清戦争後の台湾島平定に際し近衛上等兵として出征した清吉は、凱旋の帰途輸送船内で蒸発するが戦病死として扱われたので、母出口ナヲに弔慰金が支給された。五年後の義和団事変で、王文泰と称する日本人軍事探偵が顕著なる功績を挙げたことが「京都日出新聞」で報じられたが、それが出口清吉であった。その後満洲で緑林に投じた清吉は、三歳下の張作霖と出会い、頭目仲間として行動を共にする。清吉の活動が辺見勇彦らのように詳しく伝わらない理由は、辺見らと異なり日本陸軍に所属しなかったからであろう。清吉は、張作霖と歩調を合わせて満洲義軍に加わらず、日露開戦時には旗幟を鮮明にしなかったが、これにも理由があるものと思われる。

 

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