落合莞爾

洞察帝王学講座(有料)

ワンワールドは何をしてきたか

 

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落合莞爾洞察帝王学研究会

by 紀州文化振興会

洞察帝王学研究会の発会にあたり

洞察帝王学研究会を創めるにあたり一言述べさせていただきます。
達磨山平和寺管長の東光院智應大僧正から、わたしに名古屋市の名刹八事山興正律寺の縁起・来歴の調査を依頼されたのは平成二十七年三月下旬のことでした。
その時はまさか、これを契機に日本古代史およびワンワールド(国際秘密勢力)の謎が解けようとは思いもよらなかったのに、以下に述べるように、希少な歴史事象が幾つも組み合わさって史学上の懸案を解決に導いたのです。これを偶然というには余りにもデキ過ぎていますので、「因縁とはこういうことか!」とつくづく感じざるを得ません。
わたしが歴史研究を創めたのは平成七(一九九五)年で、佐伯祐三作絵画の真贋鑑定を依頼されたことが契機となりました。直接の依頼者は吉薗明子氏ですが、やがて明子氏の背後に京都大徳寺の立花大亀和尚がおられることがわかりました。佐伯絵画の真贋判定のための資料として明子氏が届けてきたのは、父吉薗周蔵の自筆手記でした。
吉薗周蔵は、大正初期から昭和初期にかけて日本陸軍のトップであった元帥上原勇作の個人付特務(秘密諜報員)として陸軍に関わる国事工作に携わった人物です。「周蔵手記」を解読するうちに日本近代史の裏側に横たわる真相を知ったわたしは、たちまち歴史研究に没入することとなりました。
今にして思えば、大亀和尚が佐伯絵画の真贋判定を名目に吉薗明子氏を派遣したのは、明子氏を通じて「周蔵手記」をわたしの目に触れさせることが当初からの狙いだったのです。和尚の真の目的は、わたしを歴史研究(正確に言えば「偽史の修正作業」)に誘導することにあったのですが、わたしがそれを覚ったのはつい数年前のことです。
昭和先帝が崩御された平成元年一月七日に妻の緑を喪ったわたしは、これに感ずるところがあり、それまでの経済活動を放棄して戦後日本社会の分析に取り掛かり、結果を『平成日本の幕末現象』と題する著書として年末に公刊しました。
証券投資界に生きてきたわたしの心中に歴史の真相を解明したいと願う心が潜んでいて、それが著作として発現したのですが、わたしの歴史探究性向が、早くから大亀和尚のみならず京都皇統の注目を浴びていたとは、まったく思いもかけないことでした。
大亀和尚がわたしに投げた餌が佐伯祐三研究のための『周蔵手記』だったのです。これにまんまと釣られたわたしは、そのお蔭でいかなる史家も解明してない日本史の真相を数多く発見しました。
これを平成八年から月刊情報誌『ニューリーダー』、『月刊日本』および『みち』などに発表してきたところ、四年前の平成二十三年暮に成甲書房の田中亮介社主から日本近代史に関する著作を依頼され、直ちに承諾しました。田中氏の要望による最初のテーマが「ワンワールド(国際的秘密勢力)の真相」で、これを書きあげて、『金融ワンワールド』と題して上梓したのが平成二十四年四月のことです。
第二作からは「落合秘史シリーズ」の形で明治維新から書き起こすこととなり、途中四カ月の闘病生活を経て同年十二月に『明治維新の極秘計画』を公刊しました。この著のテーマは「堀川政略」で、孝明天皇が偽装崩御して睦仁皇太子とともに「堀川御所」に入ってウラ天皇(京都皇統)となり、長州奇兵隊士大室寅之祐が皇太子と入れ替って明治天皇となるという大規模な政治謀略が、維新の前に存在していたことを暴露したものです。
編年体が基本の「秘史シリーズ」の第二作は幕末維新のつもりでいたところ、第一作公刊の直後に京都皇統から南北朝対立の真相を教えられました。「堀川政略」のモデルとして、南北朝の統合を図る極秘の「大塔政略」が存在したことを教示されたのです。
この「大塔政略」を明らかにしないでは明治維新の真相に迫れず、その後の著作が根底を欠く道理です。因って「秘史シリーズ」の第二作より「大塔政略」の方を優先する必要を感じ、「秘史シリーズ」の特別編として『南北朝こそ日本の機密』を平成二十五年四月に発表しました。
田中社主の言では、書籍小売商筋から「明治維新の後がなぜ南北朝か?」との苦言があったそうですが、そもそも歴史は時空連続体ですから近代史の解明に幕末維新史を避けることはできず、江戸・室町は言わずもがな、南北朝から鎌倉にまで遡らなければなりません。
『南北朝こそ日本の機密』では「大塔政略」を明らかにして南北朝に関する従来の史観を一新しましたが、これには続きがあります。そもそも「大塔政略」や「堀川政略」といった想像を絶する大規模でしかも緻密極まる極秘計画を立てた頭脳を単なる個人とみることはできず、高い能力を保有する集団の存在を想定することになります、それが何なのか探りを入れてみました。
これに対する京都皇統のご教示は驚くほかないものでした。幕末の江戸幕閣を切り回した勘定奉行小栗上野介忠順の暗殺死は偽装で、実は生き延びて渡米しフィラデルフィアで「ウラの三井物産」を創って経済界の黒幕となったというのです。
さすがに奇想天外で、最初に聞かされてから消化するのに七年を要しましたが、ようやく理解し得たのは、榎本武揚の真相究明を通じて國體勢力を形成してきた参謀衆すなわち「波動・幾何学系シャーマン」の存在を覚ったからで、これを詳述した『国際ウラ天皇と数理系シャーマン』を、「秘史シリーズ」の第二巻として平成二十五年八月に発表しました。
國體参謀衆の存在を覚ったわたしが、次に知らされたのが明治維新の「真の目的」です。要するに、ヤマト王権以来、半島渡来勢力の根拠地となった防長の地(山口県)に、ひそかに侵入した覇道一神教{イエズス会}が、永年企ててきた「防長分国工作」を逆手に取った政治的戦略です。
具体的には、武家奉公人として中間(ちゅうげん)身分に喘いでいた渡来系長州人を下級武士の卒族に格上げするために奇兵隊と松下村塾を創設し、ここに入隊・入塾させた武家奉公人たちを卒族身分に引き上げて倒幕戦争に参戦させ、勝利を与えたことで維新後に新士族にしたのです。
この筋書きにより長州新士族を維新政府の中央官僚に就けることで長州藩閥が生まれたことを述べたのが『奇兵隊天皇と長州卒族の明治維新』で、「秘史シリーズ」の第三巻として平成二十六年一月に公刊いたしました。
長州閥の次は薩摩閥、土佐閥となりますが、それを語る前に、薩長土の討幕軍の相手をして敗けてやった幕府軍の真相を明らかにしなければなりません。
そこで、平成二十六年九月に「秘史シリーズ」第四巻として公刊した『薩長藩閥と明治新政府の暗闘』で、紀州脱藩士陸奥宗光とその父伊達宗広の秘事を明らかにしました。これは「堀川政略」の基底に宗広著『大勢三転考』が在り、が維新後の日本社会の在り方を暗示していたことを述べたのですが、通例のように京都皇統のご教示を待たず、『南紀徳川史』などからわたしが自力で導いたものです。
陸奥宗光を調べるうちに、官軍による斬殺を装ってフィラデルフィアに遷った小栗忠順が、遠隔操作によって大隈重信と渋沢栄一・益田孝を維新政府に入れた策謀が見えてきて、岩倉使節団の真相がハッキリと読み取れました。
この際に京都皇統からあったご教示は、南北朝の昔に大塔宮護良親王の王子・王孫が後南朝勢を率いて欧州に渡り、ケルト族居住地を本拠としてオランイェ公ヴィレムら欧州貴族となり、はてはオランダ・ベルギー・スコットランドの王室にまでなったことです。これら史実の解明に自信のあるわたしは、欧州近世史の一端を洞察した『欧州王家となった南朝皇統』を「秘史シリーズ」第五巻として平成二十六年十二月に発表しました。
維新史を明らかにするには長州藩だけでは不十分です。薩摩藩と下士を率いた維新最大の人物西郷隆盛が、自分を慕う薩摩健児と共に維新政府と戦った西南戦争の真相を解明する必要があります。
そこで、史家の誤解により西郷の主張とされている「征韓論」の真相を洞察し、これを中心テーマとした『日本教の聖者西郷隆盛と天皇制社会主義」を「秘史シリーズ」第六巻として、平成二十七年五月に発表しました。
わたしが日本の政治思想を「天皇制社会主義」と呼んだのは、古来各種職能民が並列し、その中心に常に天皇がおられる日本社会は真の社会主義だからです。また、日本社会の宗教精神は天啓を強いる一神教はもとより仏教のごとき経典に拠るものでもなく、祖先と自然を崇拝する神仏混淆こそ本来の日本教であって、西郷隆盛はまさにその聖者として今も国民の尊崇愛慕の対象たる所以を述べたのです。
そこで天皇社会主義と日本教の淵源を探ろうとしたわたしが真っ先に直面したのが日本古代史の謎です。日本精神の淵源はどこに在るのか?
当然古代日本に求める筋合ですが、維新後の「天孫史観」が戦後に一変して「渡来史観」になるなど転変甚だしい古代史は、二代綏靖から九代開化までを空想による架空天皇と見做して「欠史八代」などと貶称します。そのため欠史八代の天皇を出自とする多くの氏姓すなわち小野氏・春日・佐々木・安倍などの諸氏は、日本史上に先祖がなく、浮かぶ瀬もありません。
今日、相当の見識と社会的地位のある方々が、「ウチの先祖はやっぱり朝鮮から渡ってきたんやろか?」などと、出自不明を悩み嘆くのをわたしは何度も眼にしています。
この現象を不自然かつ奇怪と観たわたしは、永年不審に思いながらも諸説紛々の古代史に立ち入らなかったのですが、たまたま平成二十六年に海南市大野中の春日神社の大塔宮十番頭祭に招かれ、祭神アマノタラシ彦クニオスヒト(アマのオシタラシ彦)が五代孝昭天皇の第一皇子で、その子孫が小野・春日・和邇・丸子氏となって健在でることを知ったわたしが、東大の学友小野正隆君に家伝を尋ねると、たしかに孝昭天皇が遠祖で氏神の大津市小野神社は延喜式に出ている、というのです。欠史八代が果して架空天皇ならば根無し草の筈の小野氏が古くから氏神社を有し家伝もあると聞き、欠史八代の実在を洞察しましたが、まさか欠史八代が聖徳太子に深い関係があるとは思ってもみませんでした。
古代日本史を解くカギは結局、聖徳太子に在ることが判りました。聖徳太子が六〇〇年に隋国に派遣した密使小野妹子は欠史八代の嫡流で、妹子が隋国からもたらした四箇院思想が太子による四天王寺ほか七寺の造立となったのです。
ここで驚くべきは、妹子が隋の外交部に言上したヤマトの大王(おほきみ)(倭王すなわち後の天皇)の姓名が、「姓はアマ、名はタラシ彦」だったことです。この意味は深長でいかようにも取れますが、詳細は平成二十七年十月公刊の拙著『天皇とワンワールド』をご覧いただきたいと存じます。
この著を執筆中に京都皇統から教わったのは、聖徳太子が大陸に派遣した佐伯氏の子孫が日本に律宗をもたらし唐招提寺を創建した鑑真和上と云う秘史です。これによってわたしは、太子が秘かに進めた計画の概容を洞察することができました。
それは、メソポタミアから中央アジアを経てウイグルの国教となったマニ教の思想を日本に招致することだったのです。大乗仏教の形で導入されたマニ思想が根付いた日本は、世界有数の大仏教国になりましたが、寺院も学者も世間でも挙って「大乗仏教」と呼んでいる教えが、実はマニ教思想だった経緯と詳細は拙著『天皇とワンワールド』に述べました。
マニ教を実践した行基菩薩の非人救済思想が西大寺の叡尊菩薩に伝わって西大寺流律宗となり、それが忍性菩薩から文観に伝わり、さらに天海僧正によって八事山興正律寺にたどり着くことが、東光院智應大僧正の依頼を受けたわたしの調査で判明したのです。
その智應大僧正が四天王寺の法統を継ぐと聞いて不思議な因縁を感じざるを得ないのは、わが実家の紀州粉河荘の井口氏が大塔宮護良親王の末裔で、しかも父の後室三代子の出自の大阪米谷家が天王寺屋津田家(橘姓楠木氏)から夕陽丘の地を受け継いだ家門だからです。智應大僧正の出自は紛れもなく楠木正成で、それゆえ四天王寺を護ったわけですから、護良親王と楠木氏の宿縁がここに顕われたのは、まことに奇瑞というほかありません。
折も折、会員制情報誌『みち』の編集長天童竺丸氏の勧進により、わたしの講演会が九月二十日に東京神田一ツ橋の学士会館で開催されました。
いま「洞察帝王学研究会」の開設に当り、会員各位に捧げる「洞察帝王学講座」は、右の講演原稿を基底に置き、その後わたしが機縁によって得た数々の知見を加えて大幅に書き直したものです。
京都皇統から示唆された断片的史実をジグソーパズルの断片として「設問」と受け止めたわたしが、洞察により組み立てた日本古代史の真相で、これが実は「帝王学」の骨子なのです。それゆえに本講座はやがて、「帝王学の答案」として京都皇統の台覧に供されますが、すぐに下される「講評」が新たなジグソーパズルのピースとして、わたしに対する「設問」となるのです。
洞察の限りを尽くしても想像を絶する歴史の深淵の奥底に及ばぬことは避けがたく、本講座とてその弊を免れることはできませんが、大筋において誤りはないものと信じています。以上が、これから始まる講座が「洞察帝王学」をうたう所以です。

 平成二十七年十二月十三日

成行庵の寓居にて 落合莞爾(南光房爾應)