紀州文化振興会

『吉薗周蔵手記』との出会い
日本近代史の実相
「吉薗周蔵の手記」に見えた周恩来(1)

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戦前の列強の牛炭疽菌研究(1)

吉薗周蔵
日本近代史の真相
陸軍の裏側を見た吉園周蔵の手記
落合 莞爾

近代史の核心に触れる第一級資料

『陸軍特務吉薗周蔵の手記』は、元帥上原勇作付の陸軍特務吉薗周蔵が自らの経験と見聞を記した手記を、ある月刊誌のために落合が解読して解説を加えたものである。副題を「佐伯祐三・真贋論争の核心に迫る」としたのは、当時世上を騒がせていた佐伯絵画の真贋問題に関する新説という一面があるからであった。当時、手記の全容を知るのは吉薗の遺族以外は私だけで、この手記がまさか日本近代史の極秘部分に触れる第一級史料と知る由もない。編集者が〝佐伯の真贋問題に一石を投ずる新資料〟ぐらいに値踏みしたとしても無理はない。私にしても、一覧しただけでは個々の記載の意味が掴めず、とりあえず佐伯関係に絞るつもりで連載を始めたのである。爾来、営々一〇年も続くとは、誰が予想し得たであろうか。
 しかし、連載に取りかかった私がすぐ感じたのは、佐伯関連だけを抜粋したのでは、手記の真作性と信憑性が読者に伝わらないおそれである。第一、それでは解読すらできない。従来の歴史常識とはまるで異なる内容に触れたら、大方は戸惑うだろう。そこで、手記の真作性と信憑性を証明することが先決と感じた私は、手記の全文を原文のまま掲載することにした。その文体・用語を見ただけでも、具眼の読者なら真作性を直感されるものと信じたからである。
 常識を覆すといえば、佐伯祐三に関する記載もその一つである。しかし、佐伯に関しては、手記以外にも佐伯本人の手紙やメモなどが残されており、遺作もたくさんある。妻米子が出した手紙も多いし、佐伯夫妻に関わり合った藤田嗣治や薩摩治郎八の手紙もある。それらを分析することで、吉薗周蔵と佐伯の関係は合理的に立証され、それが吉薗周蔵の実在を証明することにもなる。こうして、手記の新作性はもとより、その信憑性をも主張しうる自信が湧いた。
 前稿を編年体で構成したのは、解読には記述者の体験の流れにしたがうしかないからで、各条を時系列順に解説した。そのため、相互に関連する多くの事件がマンダラのよう縦横に展開することとなり、一〇年に亘る連載全体を隅なくご覧にならなければ、理解が難しくなった。真作性の証明のためとはいえ、読者に多大な負担をお掛けしたことをお詫びしたい。
 さて、再び稿を求められた私は、ここに志を新たに連載を始める。前稿一〇年の連載中は、各条に関する掲載の後になって新たな情報を得たり、解釈の不徹底に気づいたことが少なくない。それらの新情報と新解釈を以て補充した本稿は、内容に深みが加わり、歴史の真相に一層近づいたと自負している。ついては、前稿の編年体を紀伝体に改め、以て読者のご理解の得やすきを願った。もう一つ、吉薗周蔵手記の実在性、・真作性の証明はもはや達成されたと思うので、本稿では原文の掲載を敢えてせず、必要のある場合に限り引用することとしたい。

日向国西諸縣郡小林村字堤の吉薗家

 新たな読者のためにも、手記の記述者に関する説明から始めなければなるまい。吉薗周蔵は明治二七年(一八九四)五月一二日、宮崎県西諸縣郡小林村字堤(今の小林市堤二三九六番地)で、吉薗林次郎と妻キクノとの間に生まれた。
 小林の地は宮崎県の山中の盆地で、西南は直線一〇㌔㍍に聳える霧島山が鹿児島との県境を成している。小林から霧島山頂に向けて、真っ直ぐに二十キロ㍍延ばした先は鹿児島県国分市で、険しい霧島山塊の山麓を右側から迂回すると、到達する。左回りは都城を経由することになるが、それでも国分に行ける。そして、国分からは鹿児島城下もそう遠くない。
 周囲を山林に囲まれた小林盆地は、島津本家の領地だったから、住民は薩摩人を自認している。江戸時代からよく開墾され、日向米や雑穀・野菜のほかタバコなどの換金作物に恵まれ、薩摩絣の賃加工生産も発達している豊かな土地柄であった。
 吉薗家のように「薗」の字の付く姓は、盆地を支配する大隅隼人の末裔である。近世は専ら農業に携わり、米作のほか畑作では国分(葉たばこ)が多く、賃加工による薩摩絣の製造も行い、山中にいながら薩摩節(鰹節の一種)の生産にも関与していた。大正七年に持山の四分の一を売っただけで三万円になったほどの大地主で、換金作物の比重が大きいから、金回りもよかった。
 代々の縁組み先は、木下氏・内竹氏ら大隅隼人系で、各家は薩摩藩士とも縁を結んでいた。当地の豪族で、古代に陸奥国築館の岩切から移ってきた橘姓岩切氏との縁も深く吉薗の家紋の「丸に橘」は岩切氏にあやかったものという。家の宗旨は浄土真宗本願寺派である。
 
周蔵の祖母・堤(吉薗)ギンヅルの生涯

 周蔵の血筋はしかし、吉薗家代々のものではない。父は吉薗家のギンヅルが生んだ公家堤哲長の子で、吉薗林次郎と称した。そのギンヅルも都城藩士四位具張が岩切氏の女に産ませた子で、吉薗には養女に入ったのである。母のキクノは隼人系の木下家から嫁いできたが、その母系は未詳である。
 つまり、周蔵の血脈は公家の堤家、隼人の木下家、縄文系の岩切家、薩摩武士の四位家から受けている。隼人族は広義の縄文人で、公家の堤家も、諸般の考察から、縄文血統と推定されるから、周蔵の血脈は縄文系で、それもかなり濃いものである。
 ただし、周蔵の容貌は髭が濃く、彫りが深くて日本人離れしており、後年欧州に行った時には東洋人と見られたことは一度もなかった。実姉のミキに至っては眸の色が茶色だった。これを怪しんだ周蔵が後年調べたところ、日向海岸で馬を飼っていた岩切家に欧州系船員の血が入った証拠を掴んだとのことである。
 周蔵の人生路線の始点は、時の陸軍大臣上原勇作との関わりである。その路線を敷いた祖母ギンヅルのことは今日まで全く世に知られてはいないが、大正・昭和初期の陸軍を二〇年にもわたって支配した上原元帥の叔母に当たり幼少から育てた上原を通じて日本近代史を裏から動かしていた人物なので、ここにその背景を詳述しておきたい。
 ギンヅルは天保七年(一八三八)に生まれ、昭和六年(一九三一)に他界した。父は都城藩士の四位次兵衛昌張、母は後妻の岩切氏(名不明)である。四位家の先妻有馬氏がタカを生んで他界した後を受けて足入れした岩切某女は、双子の女児を生んだため畜生腹として四位家を逐われ、妹娘のツルを抱いて入水を遂げた。姉娘ギンは母の実家の岩切家で育てられ、妹の名を貰ってギンヅルと名乗ったという(落合注・双子の名前がキンヅル、ギンヅルだったフシもある)。
 六歳になった天保一二年(一八四一)、ギンヅルは吉薗喜佐に嫁入りする叔母岩切某女の連れ子と成り、喜佐夫妻の養女となった。その際、実家からは二〇町歩の田地山林のほか、耕作・管理人として木場伊作・トラ夫妻と一三歳の息子周作が付けられた。木場家は当地でヤマンゴと呼ばれる山民である。
 翌年、弟の萬助(一八四二~一九〇一)が生まれた。総領の姉とはいえ、生い立ちの事情もあって吉薗家に居づらかったギンヅルは、自ら志し、一五歳にもならぬ身で単身京に上り、実家岩切氏の縁を辿って京の薩摩屋敷に出仕した。筆も立ち、茶礼・立華・作法など教養全般を身につけたぬきんでた才女のギンヅルは、やがて薩摩屋敷の女中頭に昇るが、そこで公家の堤哲長と知り合う。直ぐに哲長の妾となったギンヅルは薩摩藩邸を出て京の市中に一家を構えた。
 この経緯は決して偶然ではない。ギンヅルの生家の西諸県郡細野村の岩切家は、同郡小林村の名士で明治時代に西諸県郡長を出した堤家とは近縁であるが、その堤家が公家の堤家と血の繋がりがあったのである。つまり、ギンヅルと哲長の間には元々同族としての因縁があったわけで、このような遺伝子の共振共鳴現象は、注意していれば、巷間しばしば見受けられる処である。
 
周蔵の祖父・堤哲長は孝明天皇の側近

 堤家は格式を名家という下級公家で、江戸中期に甘露寺家から分かれた。家禄は蔵米三〇石三人扶持で、甘露寺の二〇〇石、武者小路・勘解由小路の一三〇石と比べても格段に小さく、典型的な貧乏公家であった。公家でも旧家ならば、甘露寺・勘解由小路の儒道、武者小路の歌道のように定まった稼業があり副収入に繋がるが、堤家にはそれがなかった。
 正三位右兵衛督に昇った堤哲長(一八二七~六九)は孝明天皇の側近で、絵筆も立ち、泉湧寺に今も伝わる孝明天皇像を描いた才子であった。哲長が一〇代の時、御霊前に住む町医師渡辺家の娘ウメノ(ウメ、クメあるいはクメノかも知れぬが、一応ウメノとしておく)が堤家に女中奉公にきた。
 ウメノは数歳年下の哲長とすぐに親密になり、家伝の薬事書を持ち出して哲長に筆写せしめ、医術を手解きした。そのお陰で哲長は医薬を覚え、医師の副業によって、幕末の貧乏暮らしを凌いだのである。ウメノはやがて哲長の種と称する一子を生み、それを機に哲長の許を去った。
 ウメノの後の妾となったギンヅルに哲長が薬事と医術を教えた処、思いがけぬ才能があった。江戸時代にひそかに海外と通商していた岩切家では、国分(葉たばこ)栽培の裏作として外国の薬種を栽培し、それを用いた製剤も行っていた。そのためか、岩切で生まれ育ったギンヅルには薬事の素養があり、おまけに商才も中々のものであった。幕末の一時期、ギンヅルは哲長を誘って故郷小林に赴き、長く逗留して二人で山村医療に携わった。
 哲長とギンヅルの間には二人の子が生まれた。一人が慶応元年(一八六五)生まれの林次郎だが、もう一人についてはギンヅルが細野の堤家に入れようと画策したようだが、その間の経緯とその後の消息は不明である。
 ギンヅルは林次郎の諱として、堤家と本家の甘露寺家が代々の通字として用いる「長」の一字を要求した。堤家の子息としての認知を要求したわけである。これを認めて堤次長の名乗りを許した哲長は、明治二年(一八六九)四月、三九歳を一期として他界してしまう。
 哲長には、長子雅長はじめ数人の子息がいた。三男の玆明は津和野藩主亀井玆監の養子となり、亀井二万石の家督を継ぎ、明治期に伯爵となった。先ごろ郵政民営化に反対して自民党を去った元国土庁長官亀井久興氏はその直系曾孫で周蔵の血族五親等に当たる。四男の国敏も、住吉神社宮司津守家(後の男爵)へ養子に出された。津守家は堤家の縁戚である。
 逆に堤家には本家甘露寺から功長と萬長が養子に入る。嫡男の雅長が居りながら、哲長の跡を継いだのは、甘露寺から来た功長であった。後に子爵となった功長は、雅長を養子にしたが分家させ、実子の雄長に子爵家を継がせた。このような公家の相続法は一般から見ると真に不思議である。
 また、諸侯二万石の亀井家が、下級公家から、それも系図上では全く縁の遠い堤家から養子を取って、二万石の家督を継がせたのも、何とも奇異である。(落合注・これには隠された家系の謎があるものと思う)。
 とにかく、哲長の認知により、一旦は次長と名乗った林次郎は、新当主の功長から存在を無視されたらしく、それを何とか堤家に入れようとして数年も京都に居座ったギンヅルだが、遂に諦めて吉薗家に戻ってきた。時に明治五年であった。

渡辺ウメノと政雄にまつわる数多くの秘話

 渡辺ウメノが生んだ哲長の種と称する一子は、性別ははっきりしないが、女子と思える。とにかくその子を通じて、ウメノの孫の渡辺政雄が生まれた。政雄は大正六年ころ盛岡医専を出たらしく、周蔵と同年輩である。
 手塩にかけて育てた政雄を、ウメノが医専に入れたのは、上田吉松・出口ナオらと組んで始めた皇道大本(いわゆる大本教)の仕事に携わらせる目的があった。外科医となった政雄はそれを警戒し、同じ哲長の孫として従兄弟にあたる周蔵を頼り、大正六年に東京に移ってきた。政雄は、周蔵が作った上高田救命院という私設研究所で、ケシ栽培の研究を行う。この間の経緯は、中華民国留学生の周恩来や王希天・呉達閣が登場して甚だ面白いのだが、それは別に述べる。
 政雄は後年、祖母渡辺ウメノの母系の丹波国桑田郡曽我部郷穴太村の上田家の伝承を、周蔵に詳しく教えた。ウメノが哲長に教えた薬の原料は特殊のケシで、その種子は江戸時代にオランダから入ってきて穴太村上田家に伝わったものらしい。穴太村は、古代に朝鮮半島の南端の迦羅の安羅(アナ)から渡来してきた石工穴太(アナフ)衆の旧址である。
 穴太村を本拠とする上田家の家伝では、上田の本姓は海部で、丹後一宮の籠神社の神官から出た旧家である。海部・上田家は、古代に渡来したイスラエル族の子孫で、なかでもアヤタチと呼ばれた特殊の家系という。これは、戦前の皇国史観や戦後の弥生史観に泥んだ耳には荒唐無稽に聞こえるかも知れぬが、他の伝承などに照らしても、充分首肯しうるものである。
 さらに、古くからオランダ取引をしてきた上田家には、夙にオランダ人の血が入り、吉松の五代前の先祖で画名を丸山応挙として知られる上田主水も、オランダ血統であったという。幕末の当主は上田吉松で、「言霊呼び」という御祓いをしながら、全国を巡ってケシ薬を売り、裏では朝廷の諜者として働いていた。
 その子が上田鬼三郎(注・これが本名で、どこかで喜三郎と変えたらしい)で、すなわち後の大本教(皇道大本)の聖師出口王仁三郎である。渡辺家に嫁いだ吉松のオバ(叔・伯は不明)がウメノを生むが、そのオバがケシ薬の秘伝を渡辺家にもたらしたものと考えられる。いとこのウメノを愛人としていた吉松は、同じような関係にあった出口ナオと図って、明治二五年に皇道大本を立ち上げるのである。
 なお、周蔵は大正三年に青森県下北郡の古畑温泉で吉松に会ったことを手記に記している。吉松の没年は、伝えられている明治初年とは大違いで、本当は大正年間まで長生きしたのである。